幸田露伴「荷葉盃」現代語勝手訳(8)
其 八
誰がやった? と見る間もなく、藁草履を片履きにして現れ出たのは、例のおかしな顔つきのお春である。落ちた草鞋を履くと同時に、台風の風よりも恐ろしいものに巣を破られて、あと少しで望みが叶うところを地面に叩き落とされた蜘蛛が驚いて迷い逃げかかるのを追い掛けて、いきなり酷くも踏み殺せば、お小夜は縛めの絲條に両翅の自由を失いながら悶え騒ぐ蜻蛉をいち早く拾い取り、一つ一つ蜘蛛の絲を解いてやって逃がしてやろうとしたが、新三はお春が蜘蛛を踏んだのを見て取るや、急に駆け寄って、お小夜の手の中の蜻蛉を引っつかむが早いか、地面に投げつけ、もの凄い眼でお春を睨み付けた。
思いもかけず望みを失ったお小夜の泣きそうな顔、道理もなく怒った新三の腹立ち顔、呆れながら新三の顔を蔑むような眼付きでじっと見つめるお春の例のおかしい顔。どれもこれも互いに瞬き程は、言葉もなく顔を見合わせたが、育ちが育ちだけに粗野なお春は堪忍せず、
「何故、蜻蛉を殺した!」と言い掛かれば
「何故、蜘蛛を踏んだ!」と、新三も言い掛かって、それを何度も繰り返すけれど、争いは治まらず。
「お廃めよ、お止しよ」とお小夜が止めるのも耳を貸さず、大胆なお春は、女だてらに、自分の方が背丈が大きく手足も大きいのをたてに、新三を捻じ伏せて、謝らせようと組みにかかれば、か細いけれど男の子だけあって、危うく見えてもそう簡単には負けていなかったが、やはり力の差はどうしようもなく、腰が砕けて遂に取り押さえられてしまった。しかし、中々謝ろうとしないだけではなく、揉み合い捻り合い、口惜しさの余り、力を歯に籠めて、新三がしたたかに敵の二の腕を噛めば、噛まれて「あっ」と叫びながら、それからは眼と言わず、鼻と言わず、お春は新三の顔を殴れば、鼻血が迸り出て、頬に、顎に紅乱れ、見る眼も無残な有り様となった。
「與助殿が帰ろうと言われるのに、お春坊の姿が見えないのは、大方お小夜と一緒に遊んでいるからだろう。木工助、そこら辺を見ておいで」と、主人から言いつかった木工助、近傍を見巡って、その現場に来て見れば、お春は赤い顔を更に真っ赤にして髪を振り乱し、新三の上に馬乗りになっており、一方、新三は真っ青の顔を鼻血まみれにして組み敷かれ、その傍でお小夜はなす術もなく、ただうろうろと突っ立っている。
「これは!」と、吃驚して急いでお春を抱き退け、新三を労り、
「何で喧嘩をなされました? ええまあ、鼻血をどうにかしなくては」と、忙しく袂を探って、怪しげな紙を取り出して丸める間にも執念深い新三は、一瞬の間にも恨みを忘れず、お春に又もや掴み掛かり、小鬢の毛をむしり取れば、これに腹を立て、お春も新たにむしゃぶりつく。
「ええ、どっちもどっちだ。五月蠅すぎる。貴様が大体、女の癖に余りにもおてんばだ」と、狼狽えて叱りながら、木工助はお春を突き退け、
「お嬢様、まあ、お春を連れて早くお家へお帰りなされ。両方ここにいてはいけません」と、お小夜にお春を連れ去るようにすれば、流石にお春も女だけに、お小夜には逆らうことまではせず、不承知顔してお小夜に伴われて行ったが、少し離れてしばらくすると、衣服の塵を払うなどするのは、やはりお春も女である。
そんな風にして、とにかく木工助は新三の鼻血を止め、顔を拭い、背中の土を払ってやって、身体のあちこちを見るけれど、別段どうという所もないので、
「まあまあ、爺と一緒においでなされませ」と、連れて行こうとするが、新三は
「いやだ!」と、一言言い放ち、振りもぎって駈け去ってしまった。
つづく