幸田露伴「荷葉盃」現代語勝手訳(6)
其 六
與助が訪れたのには別段訳があった訳ではなく、ただ自分の家から近い蓮田の蓮根蓮花を手土産にして、自然と懐かしくなったお静を、青柳の家へ盂蘭盆の見舞いがてらに訪ねてみただけのことであった。お静もそれに快く応えて、昼飯を出してやるなどしながら、今年は麦の出来が好かったこと、雨も照りもこの分だと稲の実りも豊かになるだろうこと、この頃流行っている西洋種の鶏は卵をよく生むので飼えば有益であること、醤油を醸る小糸付近では豚を飼うことが結構流行っていることなど、次から次へと言い出す世間の雑話の相手となっていたが、心に誠のあるものは必ず愚痴も持ち合わせているのが常例というもので、何かの話の後に、青柳の家の噂に話が及ぶと、今まではぽつりぽつりと話していた爺は、手に持っていた団扇も捨て置いて、散々に元の主家がここまで衰退してしまったことを歎き、果ては、お力、新右衛門を恨み罵って、青柳の家を潰しに出て来たようなものだとまで言って退けた。
心にあっても自分ではそれと気づかない與助の繰り言の底には、お静に対して何か訴えかけるようなものが感じられ、せめて新三の後見人となって、良い人間に仕立て上げて欲しいという気持ちもあるようだった。
「新様は幸運にもここにいつも出入りされて、種々なことを見習い、また聞き習いされておられますので、まさか軟弱なお人になられることはないでしょう。きっと善い人になられるとは思いますが、お傷わしいことに母様は無し、父様はいてもあの通り。お力は毎日のように虐め散らして、得体も知れない素性の身でもって勿体なくも新様を撲ったり殴ったりするという話。おのれ憎い奴。何日の日か、無茶を言って新様に酷いことをするところを見かけたら、出し抜けに横鬢を拳の角で凹むくらい打ち叩いて、亡くなられたご隠居様、新様の胸の中のもやくやを一度に晴らしてくれよう、そう思ってもおりますが、残念ながらそんな機会もなく、世間体を繕うことだけは憎らしい程上手。今日も朝方参りましたところ、何やかや世辞八百をあの薄い唇でつべこべと囀り、気色悪いにやにや顔をして、小恥ずかしい春ッ子を良い子だの悧巧な子だのと褒めちぎった末に、何を言うかと思えば、『與助さんはまあ幸せな、この子が大きくなれば左団扇だわ』と吐言しましたが、どこの国に、鼻と言えば蓮根をぽんと切ったように孔の見えていて、眉と言えば十六角豆(*マメ科でサヤインゲンに似ているが、鞘の長さが30~50㎝もある)のように可笑しく長い、そんな器量良しがあるものですか。それを良い子と言うのさえ腹が立つのに、大きくなれば左団扇とは、木更津辺りの噂に聞く『娘の前尻を売って(*金のために娘を売って)安楽に世を送る』ということをこの與助がしかねないと見てそう言うか。おのれ、自分の腹と比べて人を測る性悪女め、『そうさな、木更津の丸久へでも遣りましたら馬鹿な男が引っかかってくれるかも知れませんな』と、あいつが居た茶屋の名前を素っ破抜いて皮肉を言ってくれようと、つい喉元まで出はしましたが、旦那がいらしたのでそれも悪いなと遠慮したのですが、それが心残りでございます。世辞でさえそんな風でありますから、毒口はなお達者。真実、あいつの舌先でちくちくとやられましたら、私でさえ辛抱が出来そうにありません。ですから、身体も弱く歳も行かない新様の辛さはいかほどでございましょう。考えてもお傷わしゅうて、いつも吾家でも言っております。しかし、今日ちらりと聞いたところによれば、木更津の雑穀乾物商で、ご存じかも知れませんが、勝浦屋清兵衛と言う者が世話を焼いて、江戸の何とか言う雑穀屋へ丁稚奉公に新様を出すとのこと。大方家に置きとうないからのことで、お力めが新右衛門様に勧めたのでございましょう。もちろん、これははっきりしたことではございませんが、先日、鍬の頭二つ、犂の頭一つを足金して焼き直ししてもらいにこの村の牛造に頼んでいたのを、今朝催促に行きました折、そこの嬶が昔、勝浦屋に居たものですから、二、三日前に、盆前なので、ちょっと元の主人を尋ねた時聞いてきたとの話なので、まんざら形の無いことでもございますまい。何も新様を出奉公に出さなくてもいいとは思いますが、家に居られるよりは、お家でそんな状態であれば、いっそ江戸へ出られた方が、他人の中に入るのは辛いようなものの、かえってご本人のためには好いかも知れません。けれど、お歳もまだそんなにも往かず、西も東も分からない人ばかりの中へ出られるのには心配されることでもあり、何とかこちらに新右衛門様からお話しでもございましたなら、良いお知恵でもお出し下されたらと思います。新様をこちらに置いておいた方がいいのやら、江戸へ出した方がいいのやら。ああ、ややこしく入り組んだ家内の関わり合いなので、この爺にはどちらがいいのか分かりませんので、ただ可いように願います。こちらではきっと新様のために可いようにして下さるに違いはないと思いますので、ただ幾重にもお願いする次第でございます。ああ、本当に長居をいたしまして、お邪魔をいたしました。その上ご馳走にまでなりまして、何ともはや、もう恐縮しております。蓮がよろしければ、又持って上がります。気のつかないことをいたしましたが、今度参る時には大きな螢をたくさん嬢様に差し上げましょう。やい、春ッ子、お暇しょうか。ホイ? 居なかったか。これはこれは。ハハハ、いつも嬶に叱られます通りの粗忽漢で」
つづく