毒舌探偵は新宿が嫌い
私が彼に出逢ったのは、広大なネット世界の片隅だった。
当時、重度のうつ病を抱えていた私が辛うじて外界との接触を保つ上で、ネット社会は大変都合の良いツールと言えた。
「君はいつも一方的かつ攻撃的だが、何故か悲壮感が常に漂っている。どうしてだろう、気になって仕方ないんだ。良ければ僕と話をしてみないか。」
偽善者と一言で切り捨てるには、彼は余りに優し過ぎた。私と同じ様に嫌味たらしく絡む輩全てを見事に捌き続け、彼はその全てを味方と化してした。
どんな虚栄心も満たせる顔の見えない世界で、彼はいつでも紳士だった。自らに厳しく、万人に優しく、時に愛らしいピエロも良き友人も演じ切る、不可思議な存在だったのだ。
その彼が何故凡庸な私に関心を持ってくれたのか、今でも解らない。
当時は彼に頼り切りだった私だが、今では自分自身も自分を取り巻く世界も愛せる様になった。心に余裕を持てるまでになった今だからこそ、是非とも彼に尋ねたい。どうして私を救ってくれたのか、そして裏切った私に制裁を与えなかったのか。
でも私が執着したあの世界の片隅に、彼はもう居ない。或る日、突然消えたのだ。彼を愛し頼り守っていた友人たちを置き去りにして。
だからお願いです、彼を探してくれませんか。彼に会って、あの時の御礼を伝えたいのです。私は彼を一生忘れない。
お願いします。彼を探して、御礼を言わせて頂けませんか。
探偵は眼前の男を見据えた後、肺の奥深くから疲労を吐き出して言い放った。
「あんた、そんなんだから捨てられるんだよ。」
ああ面倒臭い……そう吐き捨てると革のソファから身を起こして、探偵はノートパソコンで情報を纏め始めた。
「えーと、坂口さんが離婚して出会い系サイト『ウキウキ・ラブワールド』に登録したのが二年前、と。それで件の『彼』に遭遇したのが一年半前。間違いありませんね?」
「あ、はい……。あの…?」
「何か補足でも?」
「いえ、あの、引き受けて下さるんですか。私の依頼?」
男の言葉に端正な顔をしかめつつ、作業を進める。
「ええ、金になるならドブ掃除でも死体遺棄でも何でも引き受けますよ。…それでは『彼』のスペックを詳しく教えて頂けますか。出来ればアイコンの衣装やコメントの受け応え、日記の内容など思い出せるだけ詳細に。じゃあ、はい。」
探偵が差し出した掌に、男はおずおずとUSBメモリを手渡す。
「私が保存出来たのは、これだけです。ウキウキ・ラブワールドでは退会から一年すると、退会者の記録がほとんど削除されてしまうんです。」
「はい、ちょっと拝見させて貰いますね。……うわぁ、全部スクショしてやがる………ヒくわー。これ、ストーカー案件じゃねえの。ねえ空木くん?」
「海月さん、依頼人目の前に居るから。」
探偵の隣で大人しく事の成り行きを見計らっていた青年が、指導を入れる。男は探偵の言葉が発される毎に、明らかに挙動不審になっていた。
「…坂口さんさあ、本当は『彼』の正体を知りたいんじゃないよね?『彼女』の正体を突き止めて、あわよくばなんでしょ。そういうの隠さないでね。無駄な調査して無駄金払ってくれるんなら別にいいけど、こっちも人間の屑に付き合ってられる程暇じゃないんで。」
「は、はい?え?」
坂口の瞳に怒りの渦が巻き始める。
「いやいや、このスクショ見たら一目瞭然でしょ。この人、女性だよ。馬鹿でも解る。……いや、解り易すぎる。」
スクショされた画面のプロフィールを海月は覗き込む。
可愛らしい水色の花一面の背景が使用され、『男性』表記はあるものの、アイコンは猫耳猫尻尾を付けて、ウインクしていた。
「うん、女性だね。或いはネナベか心が女性なのかな?」
上から覗き込んだ空木が、同意する。坂口の膝が笑っている。
「依頼人を屑呼ばわり、か。はは、マジかよ。」
「マジです。だって、貴方屑でしょ?」
海月が断定した途端、坂口は立ち上がりテーブルを蹴り上げた。
「他人様から金貰って底辺の仕事してる奴が、高学歴の俺様を屑呼ばわりしてんじゃねーよ!どうせ碌な大学も出てないだろがっ?!」
騒ぐ気配など微塵もなく、空木は淡々と壊れたコーヒーカップを片付け海月はテーブルを元の場所に戻してソファに腰を落ち着ける。あー安いカップで良かった、と空木が安堵の溜息を漏らす。
「さて、じゃあ依頼は件の彼女を探し出して、貴方に情報を差し出す……てことで宜しいですかね?」
鼻息荒く立ち上がっている坂口を見上げて、海月は面倒臭げに確認を取る。
「……底辺の人間に出来たら褒めてやるよ。但し依頼人である俺を不愉快にさせた慰謝料として当初の10分の1の値段にしてもらおうか。」
「3万円ですね?了承しました。追加料金が発生した場合はどうします?」
「……追加料金?」
坂口が訝しげに海月を見下ろす。
「ままある事ですので条件を飲んで下さるなら、こちらに関しても10分の1の料金で構いませんよ。」
「……はは、そうやって金を巻き上げてゆくって遣り方か。いいぜ、払ってやるよ。もし本当にそんな必要があったらな。弁護士付けてくるから泣いたって知らないからな。」
ぴくり、と海月の肩が震える。
「あー弁護士怖い系かよ。まあ精々タダ働きしてもらおうかな。」
「んー、じゃあそれでいきましょうか。『泣く』って言葉、私大嫌いなんでね。」
「1週間後、ですかね?」
海月の元に新しいコーヒーを差し出しながら、空木が囁く。坂口は大きな溜息を吐きながら下世話な笑みを浮かべていた。
「だね。では1週間後に事務所に来て下さい。はい、今日は以上で。」
空木くん、後でカフェオレ淹れてくれる?はーい了解。海月は坂口を捨て置いてパソコンに向かい、空木はカフェオレの為にミルクをスチームで泡立て始めた。
最後まで礼儀の欠片も感じられない探偵事務所への腹いせに、坂口はテーブルに唾を吐くと「死ね。」と吐き捨てて去っていった。
新宿駅には一匹の悪魔が居る。名前はまだ無い。
悪魔は今日も駅に集う人間達から生気を奪いながら、週一回の逢瀬に想いを馳せていた。
ああ、あの反吐が出そうな空気清浄器に早く会いたい!あの贋作めいた仮面を剥ぎ取って、泣き叫ぶ姿を愛してやりたい!
想いは募るばかりで、いつしか悪魔はホームレスの死体を使って肉体的接触を図るまでに成長していた。
奪った生気で肉体を作り替え、瑞々しい美青年の姿へと変化し、漫画喫茶でパソコンを使って想い人へと毎日ラインを送り始めた。
「ねえ、僕に名前を頂戴?海月から名前を貰えたら、僕なんでも言うこと聞くよ。」
送信をクリックした途端、この階層の空気が澄み始めた。ああ、やっぱり僕達運命の相手なんだよ。元貴海月。
ブースの扉が無遠慮に開かれて、仏頂面が現れた。
「おい、仕事だ。」
「この人、東口でよく待ち合わせしてたよう。出会い系の常連だねえ。女好きの屑だよう。」
「やっぱりな。嫁さんの顔に見覚えあるか?」
坂口から事前に送られていたデータをiPadで見せる。大きいお腹を庇うように両手を腹の上で交差させた憂い顔の美少女だ。
「ああ、坂口ちゃんが良くラブホに連れ込んでた~。勿論お会計は彼女もち★暇潰しのお相手だったねえ。そっかあ、結婚して赤ちゃんも出来たんだあ。うふ、相変わらず不幸せそう。」
悪魔の好物は人間の苦しみだ。悲哀憎しみ苦しみを食べて、悪魔はここまで大きくなった。今は新宿駅を住処とする負のデータベースとして、海月に活用されている。
「ねえ、僕頑張ったよ?そろそろ名前をくれてもいいじゃない。」
「嫌だね、滓になるまで搾り取ってやる。」
「う~ん、それはそれで美味しいかも。でもご褒美は欲しいなあ?」
「……ステイ。」
「わ~い♪」
事務所に戻った海月の元に、香り立つカプチーノが差し出される。
「お疲れ様です。どうでしたか?」
「ああ、大方予想通りだったな。『オーシャン』の方はどうだ?」
『オーシャン』とは坂口が探し求める人物のハンドル・ネームである。
「いやー出会い系の会社のセキュリティってザルですね。一般人でもハッキング出来ますよ。」
「空木はどう思った?」
うーんと腕を組んで、空木は目を伏せる。
「海月さんの言った通り、解り易すぎるんですよね。明らかに坂口さんを狙ってた節がある。坂口さんの個人情報に怪しい程に明るいのも不自然です。」
ふむと頷いて、カプチーノを口に含む。旨い。
「元嫁に関するデータは出たか?」
「こちらに。」
ピロンとiPadが鳴いて、空木からの情報が海月の確信を告げる。
「意外と近かったな。池袋に連絡してくれ。」
「海月さんから連絡があれば、五分で来れる位置に待機中です。五日間猶予があります。」
「………お利口。」
ぶわっと空木の頬が上気して、涙が溢れ出す。止まらなくなった涙を拭いながら、空木は呟いた。
「本当、そういうところ。勘弁して下さい。」
「…………悪かった。」
空木の頭を一撫でして、海月はぎゅっと眉間に皺を刻んだ。
『オーシャン』の正体は離婚した前妻の兄夫婦だった。
二年前に離婚した依頼人・坂口大河の度重なるドメスティック・バイオレンスが原因で、前妻は実家の両親と兄夫婦の尽力により救出されている。その後揉めに揉めて離婚が成立し、前妻は男児を出産した。名を『海』という。
前妻はPTSDに苦しみ、自殺未遂を繰り返す日々が続いた。日々ボロボロになってゆく妹の姿に、兄は復讐を計画する。しかし生来誠実だった兄に他人を苦しめる思惑は荷が重く、見かねた妻に寄って共同計画へと姿を変えた。
そうして復讐を企てた兄夫婦により、出会い系サイトで『オーシャン』なる架空の男性アカウントが誕生した。男性で登録しネナベとして活動するのは有象無象を篩いにかける為であり、夫婦の復讐を効率良く進める為でもあった。
サイト内で夫婦は悩み相談を請け負い続け、無数の煽りアカウントや性目的アカウントの中から坂口大河を探し出し、巧みに誘導することに成功した。
真摯に悩みを聞き、坂口の心に寄り添い、プロフィール画像やふとした言葉で『女性』を匂わせ続けると、抑鬱気味だった坂口はすぐに夢中になった。
『オーシャン』が煽りアカウントに困れば頼もしい騎士となり、サイト内で「あのアイテム可愛いね。」と呟けば際限なく貢いだ。
総額500万。サイト内課金故に夫婦の懐に入る訳ではなかったが、それでも高学歴を自称する年収200万未満の派遣社員を苦しめるには充分だった。
やがて金に困った坂口は他のお手軽な女性アカウントに夢中になり『オーシャン』を捨てたが、妹に代わり甥っ子を育てている共働きの夫婦にとっても限界が来ていた。
『オーシャン』は退会し夫婦は日常へと戻った、筈だった。
探偵事務所の元貴海月から連絡が来たその日から三日間、夫婦は悩み続けた。海月は自らを探偵であり僧侶だと告げた。今の妹に必要な何かが与えられる可能性を感じつつ、坂口の陰に怯えた。
そして藁にも縋る思いで、元貴海月にコンタクトを取った。
いざとなれば探偵を買収する目論見と共に。
池袋の運転で大宮のイオンモールへと向かい、一階のドーナツ屋でコーヒーを注文する。暫しiPadで情報を纏め上げながら、時間を待った。
「あの、元貴さんですか?」
子連れの夫婦が悲痛の面持ちで、其処に居た。立ち上がり姿勢を正すと、海月は丁寧に名乗り席を勧めた。
「連絡を貰って、正直苦しみました。応えるべきか無視すべきか、延々妻と話し合いました。それでもやっぱり此処に来たのは、この子の為です。」
「坂口さんのような方が父親では、誰でも逡巡します。ましてや貴方の妹さんが受けた仕打ちは相当なものだったでしょう。復讐するのも頷けます。」
妻が俯いて鼻を啜り始めると、まだ幼い子供が「おばちゃ?」と不安げに見上げた。
「坂口さんは相変わらずの屑っぷりです。正直彼の依頼など、私にはどうでもいいんです。報告も適当に誤魔化せます。気掛かりだったのは唯一人、妹さんのことでした。彼女はご存命ですか?」
兄は唇を噛み締め、肩を震わせた。やがて涙を拭った。
「……なんとか。」
「………会えますか?」
「坂口には黙っていて下さい。」
「無論です。」
初老に差し掛かったばかりの両親は、悲しみと苦しみに顔を歪め、海月を離れに案内した。扉から放たれる腐臭と涙の匂いが、既に鼻腔を刺激している。
「産後の肥立ちが悪く、そのまま寝たきりに……。」
「二人にして頂けますか?」
「海も。」
海月の足元に幼子が立っていた。
「ママに会いたい。」
「では、三人で。数分で終わりますから。」
両親は泣き崩れ、兄夫婦は顔を背けた。
海を伴い入室すると、ベッドに横たわった女性が顔を横向けた。視線が海月の顔を這う。
「ママ。」
その一言で視線が幼子に移る。布団から差し出された腕は骨ばっていた。
海と共に女性の傍らに膝をつくと、海月は女性の掌を両手で包んだ。
「探偵さん。大河さんには、いつ会えますか?海がこんなに成長したって、教えてあげたいんです。」
「坂口大河さんは亡くなりました。不慮の事故です。最後に貴方と海くんに会いたがっていました。残念です。」
「………そうですか。」
涙が零れ、女性は疲れた様に小さく溜息を吐いた。
「貴方が幸せかどうか、海くんが元気か否か、気にしてばかりでした。彼は本当に優しい男でしたよ。残念な報告しか出来ず、申し訳ありません。」
「いえ……いえ。」
心のリズムを共鳴させて女性の記憶奥深くを覗くと、彼女は其処で坂口から酷い虐待を受けていた。身体をハリネズミの様に丸めて、大きなお腹を一生懸命守っている。
いつ終わるとも知れない暴力の中、彼女の心は泣き叫んでいた。
「私の何が悪かったんだろう?ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい。もう許して下さい。」
海月は歩み寄り、坂口を削除して彼女を抱き締めた。
「助けに来ました。もう大丈夫、貴女は何も悪くないんです。誰にも謝る必要はありません。貴女には自由に生きて幸せになる権利があるんです。」
傷だらけの彼女の瞳に血と涙が溢れ出して、やがて濁流のように記憶を洗い流してゆく。
本当は海月なる人物は助けなかった。優しい言葉も存在しなかった。
しかし海月は人間が一番辛かった瞬間にのみ、魂と記憶をリンクさせることが出来る。そうして海月は絶望の最中に居る人間の心を癒す為の、最初の一歩を手助けしてきた男だった。
「最後に、貴方の傷が癒えるよう心よりお祈り申し上げます。どうか幸せになって下さい。」
元貴海月は仏門に生まれた男だった。高名な祖父に育てられ、生来の能力の高さ故に自らの言霊を敢えて封じていた。
故に彼は毒舌しか使わない。
海月の優しい言葉には意図せずして強い力が宿るものだと、文字通り痛いほどに理解していた。
坂口はスーツ姿の男を伴って現れた。
「では報告しますね。『オーシャン』さんは実在する男性でした。」
「マ、マジかよ?!」
「ええ。至って誠実な男性で、貴方のことを覚えてましたよ。会いますか?」
「……いや、それはちょっと。」
「こちらが男性の素性です。一応、お渡ししておきましょうかね。」
逡巡した後に、坂口は海月の差し出したiPadを覗き込む。
「……綺麗な子ですね。本当に男性なんですか?」
「ええ。正真正銘、男性です。新宿駅で働いてますよ。」
「あれ?名前が空欄ですが……?」
「その方たってのお願いで、敢えて名前は伏せさせて頂きました。しかし先程もお伝えした通り、お会いすることは可能です。彼に会いますか?」
スーツ姿の男性とニヤニヤ顔を見合わせると、欲に塗れた相貌で坂口は頷いた。
「では追加料金は結構です。後は皆様で仲良く楽しまれて下さい。」
にんまりと噓くさい笑みを浮かべ、坂口の手元に三万円の請求書が手渡される。どうせスーツ男はフェイクだろう。二人纏めて喰われるがいい。
翌週のラインで悪魔から「御馳走さんきゅ~★海月ちゃん愛してる!」とどうでもいい報告が入り、空木はカフェラテを作っている。
「今回、僕の出番ありませんでしたね。ちょっと残念。」
「今のままでいいじゃない。あーあ、新宿なんて大嫌いだよ。」
「大変ですね。はい、どうぞ。」
極上のカフェラテを飲みながら海月は悪態を吐く。
新宿なんて、大嫌いだ。
みんな目を背けたくなる様な酷い傷ばかりなのに、懸命に体裁を取り繕っている。放っておけば、いつか心が身体を置いて旅立ってしまうのに、どうでもいいってフリしてる。貴方を愛する人が知ったら、どれだけ悲しむかなんてどうでもいいって顔してる。
だから毎秒毎分毎時間、絶えることなくこの街は泣いている。
この泣き声を止められない自分に絶望するから、心底新宿が嫌いだった。
「カフェラテ、如何ですか?今日は元貴のお爺様から戴いた蜂蜜を入れてみました。」
「………うん、美味しい。」
空木の瞳から涙が零れた。
御感想など戴けますと、小躍りして喜びます。