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第九話・その瞬間

 ――色鉛筆とスケッチブックを使うことはなかったけれど。






 グラウンドからは運動部の部活の声と音が聞こえてくる。

 まだ朝だというのに日差しが強く、気温は高かった。やはり日焼け止めを荷物に入れてきてよかった。この間永山先輩の家で見た有田先生のホームページの内容が早速役にたったようだ。

 「おしゃれコラム」というコーナーには最近の流行のファッションや、夏に向けての注意、キレイになるための秘訣などが書かれていた。

 いろいろと参考にはなったが、中には、わたしにはとても実行できそうにないものもあった。

 それがキレイな女の子とそうでない女の子との差なのだろう。


 校門を抜けると、すぐに美術部の人たちが輪になって集まっている場所が見つかった。

 わたしはおはようございます、と言ってその輪へ近づいていった。

 稲城さんが、挨拶がてらに、その帽子可愛いね、と褒めてくれた。日差しよけの実用本位の帽子だったのだがちょっと嬉しかった。

 わたしは輪の側に自分の荷物を置くと、夏休みの校舎へと入っていった。


 今日からわたしは、美術部の合宿で、海の側にある宿泊施設で三泊四日の寝泊りをする。桑苑では、慣習的に行われていることなのだそうだ。

 一旦学校に集合し、必要がある人は美術室から画材用具を持ってくる。そして全員の準備が整ったところで合宿場所へ向かうという段取りだった。

 桑苑学園の正面玄関を抜けた先の玄関ホールの壁には嘴本くんの絵が飾られている。

 四月に彼が描いた学園内の記念館の絵だ。

 ホールには桑学がこれまで様様な部活動で勝ち取った優勝カップや賞状などが展示されているが、それと同格の扱いだ。

 この展示に際しては一悶着があった。



 少し前に美術室に突然美術エージェント――エージェントってどういう意味だろう――の会社の人が訪ねてきて嘴本くんの絵を買い取りたいと言ってきた。

 その時は美術部の顧問の先生や学園長、理事長まで巻き込んでちょっとした騒ぎになったのだ。彼が何らかの作品を創作すると、そこには大金の話がまとわりついてくるからだ。

 いわゆる「名画」というものに値段が付くことは知っている。

 わたしはたまにデパートで有名な画家やイラストレーターの展示即売会を見に行くことがあるが、そこで表示されている値段の高さを見て「すごいな」と思うことは確かにある。

 でも、わたしはその美術エージェントの人に対して「美術品をお金の代用品としか考えないいやらしい人間」という印象しか持てなかった。

 わたしの両親はわたしと一緒に展示即売会に行ったとき、会場の人にしつこく絵の購入を勧められ嫌な思いをし「二度と行かん」と激怒していた。

 わたし自身はお金を持たない中学生だったので、押し売りされることもなかったのだが、その時の両親の気持ちが分かったような気がした。

 美をお金に換算することなんかできない、なんて思ってしまったが、この世界にはプロの芸術家がいるのだからわたしの考えなど子供の理論でしかないのかもしれない。

 嘴本くんが初め美術部に入ろうとしなかったのは実はこういう騒ぎを起こしたくなかったからという意図もあったのかもしれない。わからないけど。

 その日は美術部の人たちも落ち着かず、部活動の時間は嘴本くんを囲んで大変だね、という雑談タイムになった。

 彼が語るところによると、自分の作品はいつも完成された側から誰かが持っていってしまうのだという。

 その件に関しては彼に同情したくなった。わたしだったら自分の折角の会心作を手放すなんてことはできない。

 でも彼の言葉を借りればこうだ。


「ボクの作品をより多くの人の目に触れさせて幸せにできるのならそれがボクの幸せでもある」


 まさに天才少年芸術家らしい言葉だ。

 結局理事長がなんらかの手を講じて事態を収拾したらしい。

 そして次の日から嘴本くんの絵は玄関ホールに飾られるようになった。


 さすがに毎日見続けると、あの初見の時ほどの衝撃は無くなった。

 それでも、今でもわたしは調子が悪いときに、ときどき美術室を抜け出しこの絵の前まで来て感性を刺激させてもらう。

 この絵を持っていかれなくてよかった。

 美術界にとっては勿体無いことなのかもしれないけれど、そんなことはわたしの知ったことではない。



 美術室から道具を持って戻ってくると、玄関のところで敷島さんと顔をあわせることになった。

 一瞬、言葉が出ないわたし。

 敷島さんがオハヨ、と短く挨拶をしてきたのでわたしもオウム返しにオハヨ、と挨拶した。どうもこの間から、敷島さんに対しては溝を感じてしまう。わたしが過剰に意識しているだけだと信じたいけれど。



 夏休み直前のある日、いつものように部活の準備をしていると敷島さんが声を掛けてきた。

 なに、と軽い気持ちで彼女の方を見ると何だか敷島さんの目が怒っているようなのでわたしはつい一歩後ずさりしてしまった。

「関根さん。薫サマからきいたわ。彼、別に服飾デザイナーになるつもりはないそうよ。ただ理事長からの申し出を受けただけだって」

「そう…なの?」

 どうしてとんがった口調なんだろう、と思った。

「あんまり当て推量で物をいうのはよしたほうがいいわよ。じゃ」

 な、何…?

 怒られる理由が分からなった。

 わたしが呆然としていると制服の袖をくい、と引っ張られた。今度は小林さんだった。

「なに??」

「関根さん、ちょっと」

 そう言われてわたしは小林さんに袖を引っ張られたまま廊下へと連れられてきた。

「関根さん。羽織(敷島さん)のこと、気を悪くしないでね」

「え……。ん、と、敷島さん、何か怒っていたみたいだけど」

「嘴本くんのことで何か言われたんでしょ」

 あれ…『嘴本くん』?『薫サマ』じゃないんだ。

 小林さんのいつもと違う彼の呼び方が気になった。

「そうだけど……」

「羽織ね、この間嘴本くんと遊びに行ったとき、彼の機嫌を損ねちゃって気が立ってるんだ」

 遊びに……って?

 違和感が私の胸を通り過ぎた。

 今の小林さんの口調からして二人で? 俗にいうデートってやつだろうか。


 ……。


 うまく想像ができなかった。

 嘴本くんが大勢の女の子に囲まれてにこやかにしている姿はよく見かけている。あれはアイドルタレントとそのファンクラブといった形容がふさわしい。

 その姿を見慣れていたためだろうか。彼が一人の女の子のために時間を割くという話には違和感を覚えた。らしくない、と思った。胸の収まりが悪かった。

「でも、わたしは確かに嘴本くんがデザイナーになるとか適当に言っちゃったけど、そこまで怒られるとは思わなかったよ?」

「そこが嘴本ファンには許せないのよ。自分が知らない嘴本情報を他の人が知っていると言うだけで気分が悪いモノなのよ」

 小林さんはあくまでクールに話していた。

 敷島さんや稲城さんと一緒の時は『薫サマ』と呼んでいるのは付き合いからだろうか。

「……」

「ほら、それに将来の夢の話をすると言えば、結構親しい間柄ってことでしょ?」

 それもそうか、と合点した。

 わたしのお父さんがお母さんを好きになったのは、自分の夢を語ったとき笑わずに聞いてくれたから、とかよく話していた。

 ……でも結局お父さんの夢は破れて、おじいちゃんの後を継いで床屋になったんだけど。

「まあ、嘴本くんや風間くんみたいな王子様と接触するときは気をつけようってことね。ちょっとしたことですぐ噂になっちゃうから」

 風間(かざまくん、というのは、わたし達と同学年にいるモデルの仕事をしている男子のことだ。

 女の子達だけのおしゃべりのときはよく名前が持ち上がる男子だ。

 ただ、嘴本くんと違うのは、彼は女子も男子もあまり周りに寄せ付けない孤高の人だということだ。

「わたし、敷島さんに嘴本くんとは何でもないよ、って安心させたほうがいいかな」

「今は、止したほうがいいと思う。余計に怒らせちゃうだけだから」

「…ん」

「大丈夫。少したったら羽織も元に戻るから」

 そして小林さんの言うとおり、次の日には普通に話ができるようになった。

 でもそれは小林さんや稲城さんが一緒にいる時の場合で、二人だけではなんとなく言葉を交わせない雰囲気が流れた。



『王子様と接触するときは気をつけようってことね。ちょっとしたことですぐ噂になっちゃうから』

 小林さんはそう言った。

 噂をされ易い人、か。

 わたしの中学時代の場合は逆で、ブスなわたしを揶揄するために生まれた噂だったけど。


 ………。


 ………?


 ……本当にそうだった?


 逆に葛名君が人気者で注目される存在だったからこそ噂を立てられたのだとしたら。

 葛名君は、王子様ではないけれど、明るい性格で話しやすかったし、客観的に見てモテるタイプの男の子だったと思う。……多分。

 例えば、葛名君を見つめ続けていた女の子が、彼の近くにいたわたしを不快に思って噂を立てたとしたら。

 ……無意味な想像だ。

 どちらにしてもわたしが蔑まれるオチには変わりないんだから。



 下駄箱の前で随分物思いにふけってしまったようだ。

 わたしは靴を履くと、外の美術部員の輪に加わりに行った。

 もうすぐ出発だ。



 合宿場所が海だからという訳ではないけれど、わたしが今ここで描いているのは水と魚をモチーフにしたアクリル画だ。むしろこれは5月に行った水族館の影響が強い。

 わたしはこの作品を高校美術展へ出展する予定だ。


 合宿の初日は荷物の整理や食事の支度、あとは無駄にだらだらして過ごしてしまった。

 美術部らしい活動は2日目からになった。

 この宿泊施設には美術部以外の人は泊まっていないし、また外に出ても人通りは少ない。

 だから屋外にイーゼルを立てて風景画を描く、なんていう画家みたいな――わたしは美術部員だけど――ことも気兼ねなくできる。

 それは子供の頃からの憧れであったが、肌の弱いわたしには長時間夏の日差しの下にいることは厳しい。なので、わたしは涙を呑んで(?)作業場所を大きな窓から外がよく見える風通しのいいロビーとしている。


 今日の午後は静かだった。

 朝からずっと晴れていて暑かったので水着を持ってきた部員の人たちは泳ぎに行っている。初日に見に行ったとき、泳いでいる人はほとんど見なかった。ここの海水浴場は穴場なのかもしれない。

 今ロビーにいるのはわたしの他には星見先輩だけだ。

 星見さんは例によって骨をモチーフにした作品に取り組んでいる。今回は木片を彫刻刀で削り、古代生物の化石の模造品を作っているのだ。

 先輩もわたしも黙々と作業を続けていた。いい状態だ。

 美術部での活動も、全員が集中して美術室が無音になった瞬間がたまらなく好きだ。


 しばらくして玄関の方からがやがやとざわめきが聞こえてきた。海水浴組が戻ってきたみたいだ。

 わたしは絵筆を持つ手を休め、彼女達がロビーに来る前に自分の泊まっている部屋に戻り、外出準備をした。帽子をかぶることだけは忘れずに。ついでに色鉛筆とスケッチブックも持っていくことにした。

 他の人と顔を合わせることはなく外に出た。独りのお散歩だ。

 潮の匂いに導かれる様にわたしは海岸までの道を下った。

 空では雲が風に流されており、暑さは和らいでいた。

 次第に波の音が大きくなってくる。

 少し離れたところで3歳くらいの子供とその母親らしき女性が寄せる波と遊んでいた。

 本当に人が少ない。実は遊泳禁止の場所なのではないだろうか。


 海とこちら側の境界線に沿って砂浜を歩いてみた。

 風が出てきて波が強くなったために海水浴組のみんなは引き上げたのだろう。

 でもそのかわり、泳ぐための海は見るための海に変わった。

 白い波の先端が押し寄せ、そして崩れて去っていく。

 単調な繰り返しが気持ち良かった。


 桑学高等部に入学して4ヶ月、わたしは孤立を恐れて、できるだけ友達や仲間達と行動を共にするようにしてきたが、この合宿の間は静けさを好む、本来のわたしのままでいいと思った。

 孤立を恐れないはずはない。その自分もまた本当の自分だ。

 中学時代はしばしば就寝前に急に寂しさを感じて、泣き出すこともあった。

 けれど同時に、独りでいるが故の心地良さと言うのも覚えた。

 独りじゃないという安心感が、独りを楽しむことを許してくれる。


 砂浜に腰を下ろし、何分ぐらいぼんやりとしていただろうか。


 彼の姿が視界に入っても、不思議と、独りを邪魔されたとは思わなかった。

 目を細めて海の向こうを眺めながら歩く彼は、風景と溶け合っていた。

「やあ、関根くん」

「ああ、嘴本くん。みんなと一緒じゃなかったの?」

 彼は海水浴組だったはずだ。

「にぎやかで燃えるような海も好きだけどね、キミの色を見ていたら無音の海も見てみたくなった」

「わたしの色?」

「ロビーにあった、海の中で人と魚が戯れている絵はキミのだよね?」

「あ、ああ。うん、そう」

「海の色をもらいに行ったのかと思ったよ」

「ああ…そうかも」

 とは言え、残念ながら今太陽は雲に遮られ海の色は濁っていた。

「キミの絵を見ていて思い浮かべた画家がいるんだ」

「?」

 嘴本くんは、現在活躍中の、とある世界的に有名な画家の名前を挙げた。

「それは……そう、かな。うん、彼の影響はあるかもしれない」

 彼の指摘でわたしの胸に相反する感情が同時に湧き上がった。

 その画家はわたしも尊敬する人だったので、それを光栄に思う気持ちがまずあって。

 一方でオリジナリティを目指していたわたしのささやかなプライドは悔しさを感じた。

「彼の作品はボクも好きだよ。光と水と命のハーモニー。それぞれが素晴らしい輝きを放っているね」

「そうだね」

 その意見には全く同意だ。

 自然の中でのびのびと生息する海洋生物や野生動物がその画家のモチーフだ。

 鳥肌の立つような精密さと質感は、見ているだけでわたしをその絵の世界に取り込みそうになる。

 絵の中の太陽は「眩しい」し、海からは波の音が聞こえてきそうな錯覚を覚える。

 彼は子供時代をハワイで過ごし、そこの自然に魅せられたという。そしてその自然の素晴らしさを世界に訴える為に絵を描いているのだそうだ。

「あの人の絵を思い出したら…。あの写真のようにリアルなハワイの海岸の絵を思い出したら、ここの海もくすんだ色の平凡な景色に見えてしまう。さっきまでは結構見とれていたはずなのに。優れた才能の持ち主が最高の環境のもとにいたら正に鬼に金棒よね」

 嘴本くんはわたしの言葉に対し、ふふんと声を出さずに笑った。

「何?」

 こころもち眉を顰めて彼の方を見る。嘴本くんは全く動じることなくにっこりと笑った。

「うん、確かに彼は恵まれた環境にいただろうね。だけど才能のある人間というのはね、どこにいてもその力を発揮するものだよ」

「……」

「例えばここにはボクがいる」

 親指で自分を指し示す嘴本くん。最初に自分の名前を挙げるところが彼らしい。

「それにね、写真のようにリアルな絵を描く画家なんていないよ。彼はありのままを描いているわけではないのだから」

「えっ? そんなことはないでしょ」

 わたしはその絵のリアルな質感に感動したというのに。 

 海中で戯れるイルカに太陽光がゆらゆらと当たっている絵をわたしは思い出した。

「イマジネーションだけではあの質感は出ないわ。それに、自然保護を訴えている人が嘘の自然を描くなんて本末転倒でしょ?」

「ああ、違う違う。そういうことを言いたいんじゃないんだよ。勿論彼の描くものは写実的で精密さ」

「さっきと言っていることが違うじゃない」

「ボクは『ありのまま』ではないと言ったんだ。ありのままでいいなら、観光客が撮った写真でもいいのさ。そうなら芸術家はお役御免だよね?」

「それは……」

「彼は『ありのまま』を描いているのではなく『感じたまま』を描いているんだ」

「……抽象的で、言葉の意味が分からない」

「キミ達だって、美術室のモチーフを描くときには視点や角度を選ぶだろう? それは何かを感じたからだよね。この場合の角度というのは空間的な意味ばかりじゃなくて時間という要素や見る側の精神状態という要素も加わっているよ」

「………」

「彼は実際に自然と触れ合い、無限の瞬間における、あらゆる角度からの自然を目の当たりにしている。彼の描く世界は、それらが最も美しく見えるように組み合わされているのさ。現実で構成された虚構だから、現実以上にリアリティを伴っている。リアルだから人に感銘を与えられるわけではないよ。感銘を与えるための手段としてリアリティがあるんだ」

「わかるような、わからないような」

 すると嘴本くんは、わたしの頭上の空間をしばし見つめたかと思うと、うん、と小さく頷いた。

「いいかい?」

「きゃああ! 何、何? 何するの?」

 不意に彼は手を伸ばし、片方の手でわたしの目を覆い、もう片方の手でわたしの頭を押さえた。

 ひやりと冷たく、わたしは悲鳴を上げてしまった。

「大丈夫。痛いことなんてしないから」

「手を、手を離して」

「ほら、落ち着いて。ボクの腕から手を離して」

「……」

 わたしは仕方なく彼の手を引き離すのをあきらめた。

彼には何らかの意図があるのだろう。

「何なの?」

「魔法を見せてあげるよ」

「……?」

「いいかい?

 気持ちを落ち着けて…。

 波の音を聞いて…。

 潮の匂いを()いて…。

 潮風を肌で感じて…。

 視覚以外の情報だけで海をイメージしてごらん」

「……」

 嘴本くんはそう言いながらわたしの頭を動かして一方向に固定した。お母さんに髪を切られているときみたいだ。

「できたかな」

「できた……と思う」

「さて、どんな景色がみえるかな。3、2、1、はい」


 ……。


 ……!!


 開けた視界に光が飛び込んできた。

 海が、輝いていた。

 雲が、輝いていた。

「え、どうして…!? 嘴本くん、いったい何をしたの!?」

 ついさっきまで見ていた千葉の海が一皮向けたように鮮やかな色彩を露わにしていた。

「この世のすべてのものは美しさを秘めている。そして最も美しくなる瞬間が存在する。 その瞬間を捕らえて感じ、皆に伝えるのがボク達芸術家の役目なんだ」

 それが魔法。やはり彼は特別な世界の人間なのだろうか。

 彼の声を左に聞きながらわたしは海を見つづけた。

「ただね……」

 嘴本くんが意図的に口篭もったので、わたしは彼の方を見た。

 人差し指を額に当て、苦笑いしている。彼にしては珍しい表情だ。

「ボクは醜いものを見ると顔をそむけてしまうクセがある。それがボクの未熟な部分さ」

 うーん、と唸って彼は立ち上がって伸びをした。

 彼が自戒するところなんて初めて聞いた。無条件の自信家ではないんだ。

 そう思いながら彼を見上げたとき。


 わたしは気づいてしまった。


 嘴本くんの顎に。髭が。正確に言えば髭をあたった跡が、見えた。


 ――当たり前じゃない。『気づいてしまった』だなんて大げさな。


 理性ではそれを当たり前のことだと分かっている。彼だって普通……ではないけれど男子高校生なのだから。

 わたしは髭が嫌いだった。

 小さい頃、仕事が休みの日に家でゴロゴロしているお父さんの伸びた髭がわたしにはとても汚いものに見えた。

 子供の残酷さでお父さんに向かってイヤダイヤダと叫んでいたらお母さんにたしなめられた。

 お父さんには謝ったが、嫌いなものであることには変わりなかった。……今でも苦手だ。

 通学途中にも電車の中でうっかり視線を上げると男の人の髭の剃り跡が目に付いたりして気持ち悪くなることがある。

 その汚いものが、彼にもある。


 これは、嘴本くんの、美しくない、角度。


 おかしな話だ。彼がわたしの嫌いなものを持っているというだけで――。

 彼が美の女神ミューズの庇護下の世界から、わたしのいる普通の世界に降りてきたような気がした。

 特別な世界にいる人間が特別なのは当たり前だ。だけど彼は降りてきた。今ここに、わたしのすぐ側にいる。

 ……どうしよう。敷島さんに対して誤解を解くのをやめてよかったとほっとしている自分がいる。

「何だか新しい世界を見たような気がする」

「よかったね。キミはボクと一緒にいることで新たなステップを踏み出したんだ」


 こんな言い方をしなければ、もっと×××××××のに。


 ――ねえ、想うだけで口を閉ざしているなら、誰も何も言わないよね。


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