第七話・雛鳥
チャイムの音が教室内に響き、わたしはシャープペンシルを机の上に手放して小さく息をついた。テスト終了だ。
先生の指示通り一番後ろの席の生徒が立ち上がってテスト用紙を順に回収していった。
紙の擦れる音と、緊張を解いた生徒たちの声で辺りはにぎやかになった。
これで1学期の期末テストはすべて終了した。
窓の外を見ると、曇り空も緊張を解いたのか雲がゆるゆると流れて晴れ間を覗かせている。
このまま梅雨が明ければいいな、とわたしは思った。
クセッ毛の人間が一番苦手とする季節は雨季だ。
湿気を吸った髪の毛は宿主の気持ちを無視して元気に暴れだしてしまう。
だからわたしはこの時期だけはお母さんに言われる前に「切って」と自分から頼んでいる。
晴れ間から差し込む太陽光がこれから湿度を下げてくれるのだと思うと、ちょっとだけありがたいものに見えてくる。
とはいえ、その光がまもなくわたしの最大の敵になるのだということもまぎれもない事実である。
夏の日差しに含まれる紫外線がわたしのそばかすを広げて目立たせてしまうのだ。
……全く。欠点が多い人間には安心できる時間も短くしか与えられない。
放課後。わたしは誰とも連れ添わず京葉線のホームに立って家とは逆方向の臨海公園駅へ向かう電車を待っていた。
試験の終了とともにクラブ活動も解禁される。美術部では9月末に行われる高校美術展への出品の準備にとりかかるところだ。
尤も、もっと以前から製作に取り掛かっている部員の人もいるし、自分のペースだけで活動している人もいる。それは星見先輩と嘴本くん……美術部所属の二人の男子部員が二人ともそうなのだ。
一応今日もテスト期間ではあるが事実上今日の放課後から活動再開となる。
しかしわたしは活動が自由な美術部員なので今日は自主的にお休みして(つまり休んだぶんの責任は自分でとるということ)、午後の空いた時間を私用にまわすことにしていた。
その予定というのはショッピングモールでブティックの「はしご」だ。
家の近所ではなくてこちらを散策場所に決めたのには幾つかわけがあるが、珠美ちゃんからいろいろと情報を仕入れておいたから、というのが最大の理由だ。
一人で洋服をあれこれ見て回る――他の人が聞いたら他愛ないことなのだろうが、これはわたしにとっては一大決心を要することである。
電車が到着した。
ショッピングモールの入り口をくぐり、わたしはゆるゆると端から店を眺めて歩いていく。
わたしの家がある商店街とは違って店舗は皆新しく、また住居と一緒の建物でもないので生活臭はあまりしなかった。
ブティック・アリタに近づくとわたしは歩調をさらに緩めた。
ここは以前に来たことがあるので、ある意味一番入りやすい場所でもある。
とはいえ、アリタのショウウィンドウに並ぶ服はわたしには縁の無さそうなカッコイイものばかりだった。
でも、それだけではないことは、この前静香ちゃんに頼まれて試着したときに分かっている。
――もし、あのときの感情が自惚れでなければ。
わたしはあの服が気に入ってしまった。もっと言わせてもらうと自分に似合っているんじゃないかとさえ思ってしまった。
みんなも褒めてくれた。
友達としての最低限のお世辞として底上げ評価はされているだろうけど。でも。
わたしが気に入った、というのは大きかった。
だから今日はもうちょっと真剣にお気に入りを探してみたいと思ったのだ。
幸いにもわたしは画材以外でお小遣いを使うことは少ない。高校に進学してお小遣いを上げてもらったが正直なところ中学までの額でも何とかやっていける。
だからと言って「下げてもいいよ」などと言うほどわたしは清くないので今のわたしはそれなりのお金を持っていた。
だから今日、どこかの店で気に入った夏物を見かければ一着買ってもいいかなと思っていた。
自動ドアが開き、わたしは店の中に体を滑らせる。いらっしゃいませ、と声をかけられる。
トクン、と心臓が鳴った。
――落ち着け、わたし。
わたしはまず、この間静香ちゃんがいた場所からあたってみることにした。
…………。
………。
わたしが小さい頃「マーフィーの法則」というものが流行っていた。
要するに、探し物は欲しいときに見つからず、どうでもいいときに見つかるというようなものだ。
今のわたしの状況はまさしくそれで、精神的に力んでいるのかどうにも気に入ったものが見つからなかった。
――そろそろ他のところ行こうかな。
するとレジの方から店員さんのいらっしゃいませ、という声が聞こえてきた。
わたしがそれに注意をひかれたのは、その後で店員さんがちょっと違う声を上げたからだった。
わたしは顔を上げて入り口の方を見る。
――あれ? 男の子?
その人影は店員さんや他のお客さんたちより背が高かったからすぐ目についた。
そしてその人は桑学の男子の制服を着ていた。
ここは女性の服専門の店のはずなのに……カップルの片方なのかな?
と、その桑学男子生徒がこちらを向いた。
「!」
わたしは息を呑んだ。どくん、と心臓が鳴った。
目が合った。合ってしまった。
どうして、ここにいるの!?
――彼だった。
「やあ、関根くんじゃないか。奇遇だね」
彼はわずかに目を見開いたが、ごく自然にわたしに話し掛けてきた。
でもわたしは、早くこの場から逃げたい、そう思っていた。
知り合いだけど友達ではない人と偶然会ったときの間の取り方をわたしは知らない。
とは言え、話し掛けられてしまった今、まさか目をそらしてこの場から去る訳にもいかない。
そんな冷たい真似をするのは4月のあの時だけでもう充分だ。
そう言えばあの時のフォローはうやむやにしたままだった。
彼は、もう気にしてはいないだろうが覚えてはいるだろう。
ああっ、マーフィーの法則。
出たいと思った途端に出られなくなる。
早いうちに見切りをつけていれば彼と会うこともなかったのに。なんてタイミングの悪い……。
「こ、こんにちは…嘴本くん」
なんて、他人行儀な挨拶をしてしまう。
美術部ではムニャムニャとおざなりな挨拶で済むから楽だが、学校外ではどう接して良いのかわからない。
「うん、こんにちは。お買い物?」
「うん、まあ……。嘴本くんは? どうしてここに?」
「ボクかい? ボクはね、この店のオーナーさんから新作のデザインを依頼されていたんだ」
「え? 新作って、服の?」
「そうだよ。ここのオーナーさんと学園の理事長とは旧知の間柄でね、ボクは理事長を介して仕事を頼まれたんだ」
「仕事……?」
「うん、あれを見てごらん」
そう言って彼は黒と青の系統の色の衣装で着飾ったマネキンの一体を視線で指す。わたしもそちらを見る。
「例えばあれはボクの作品なんだよ」
「えっ」
声を出さずにはいられなかった。
彼の方を向き、またマネキンの方を向き、再度彼の方を向いて、またマネキンを見る。
「……凄い」
彼の芸術作品の凄さは既知のことだ。しかしそれは美術界という限られた特殊な世界でのことだと思っていた。
けれど、今ここにお客さんに出すものとして彼の作品がある。
彼はわたしと同じ高校生なのにもう社会の一部として仕事をしているんだ。
わたしなんかまだ将来のビジョンすら見えていないのに。
「今日、この時間にここでオーナーさんと待ち合わせだったんだけど……ねえ、そうだよね?」
と、彼は店員さんの一人に目をやる。
「はい。申し訳ありません。もう少々お待ちください」
彼は今日が待ち合わせの日だと言った。
はあ。どうしてわたしはよりによってその今日という日を散策の日に選んでしまったのだろう。
なんてタイミングの悪い…………………悪い?
「あっ、嘴本さん。来ました。今オーナーがいらっしゃいました」
「あら薫クン。もう来てたのね。ようこそ。ごめんなさい。遅れちゃって」
「!?」
口調は女性だが、声質はそこそこ年齢を重ねた男性。その違和感にわたしは注意を引かれた。
あっ……。
極彩色で独特なデザインの衣装、明るい色に染めた髪。一目見れば絶対忘れない姿の人物がそこにいた。
この人、わたし知っている……!
わたしは開けかけた口をそっと手で覆う。
TVの情報番組やバラエティー番組、それにファッション雑誌でときどき見かける顔だ。芸能人のファッションを厳しい言葉で評価する、“アパレル界のご意見番”。
「有田さん。ボクの作品、持ってきましたよ。きっと女の子達が気に入るはずです」
そう、有田啓一という名前だった。TVではだいたい有田先生と呼ばれている。
嘴本くんは有田先生と言葉を交わしながら鞄の中からスケッチブックを取り出し手渡した。
この人が……アリタのオーナー? そう言えばこの人は会社の社長でもあったんだっけ。っていうかまんま「アリタ」だ。
頭の中がクラクラとしてきた。
今日は非日常的な出来事がよく起こる。
わたしが呆けている間にも有田先生は嬉しそうな笑みを浮かべ、ページをめくりながら何度も頷いていた。
「ところでそちらのお嬢さんは? お連れさん?」
不意に有田先生がこちらを向いたのでわたしは体を硬直させた。
「えっ? いえ、違います! わたしは偶然出会っただけで」
反射的にパタパタと手を振り、その直後にしまった、と思った。
有田先生は嘴本くんに聞いたのにわたしが答えるなんておかしい。
わたしは何をやっているんだろう。
直視はできないが嘴本くんも驚いたようにこちらを見ているようだ。
わたしは自分が恥ずかしくなってうつむいた。
「フーン」
有田先生はそう意味ありげに鼻から息を吐いた。
「ちょっと、アナタ?」
「は、はい?」
わたしは顔を上げるしかない。
「アナタ、ちょっとそうやって、ウン、顔を上げたまま、目を閉じて、ン、もらえるかしら?」
「え、ええっ?」
「目を閉じてって、言ったでしょう!」
「は、はいっ」
わたしは言われるままに目を閉じた。
わたしはミーハーではないつもりだが、こういう偉そうな態度はTV画面での有田先生そのものであり、わたしはそれが気に入っていたので戸惑いはしたものの反発心は感じなかった。
「……ふーん、そう。へえ……ほう、それは、はあ」
目を閉じていても視線を感じる。
胸はどきどきと鳴りっぱなしで、聞かれてしまうのではないかと思ったぐらいだ。
「あの……」
「……うん、もういいワ」
目を閉じていた時間はそれほどでもないのに、目を開けると一瞬さっきまでと違う場所にいたような錯覚を覚えた。
有田先生が、アリガト、と声を掛ける。そしてわたしがちらりと嘴本くんを見ると彼もまた腰に手を当て、いつもの微笑を浮かべてこちらを見ていた。
なんだか自分を値踏みされたような気になって、わたしの胸の鼓動のリズムはまた変わった。
「……ねえアナタ、アナタ実はあんまり流行のおしゃれに興味ないんじゃなくって?」
「えっ!?」
ドキリ、とした。今は普通の制服姿なのに、そんなことが分かるのだろうか?
「ちょっと今は時間が押しているから詳しい話は出来ないのが残念だわ。でも、おしゃれについて少し考えてみてはどうかしら。一度アタシのホームページを見て頂戴」
そう言うと有田先生は衣装のどこかからか名刺を取り出して、わたしに手渡した。
世界的ファッションデザイナー、と普通肩書きには使わない肩書きと、有田啓一という名前。そして"http://"で始まるアルファベットとピリオドの綴り。
「そこにアドレスが書いてあるでしょう? ぜひいらしてね」
はい、と答えたもののわたしはパソコンも携帯電話も持っていない。
「それじゃ、薫クン。細かい打ち合わせは事務室の方で、ネ」
「ええ。……それじゃあね。関根くん。またね」
「じゃあね、アデュー! 桑学の可愛い雛鳥さん」
二人は店の奥へと引っ込んでいった。アデュー、って。
わたしはパチパチと瞬きをして「こちらの世界」に戻り、そそくさと店を後にした。
今のような精神状態では何も買わずに店を出てくるときの罪悪感など心に入り込む隙もなかった。
雛鳥って、どういう意味だろう。
アリタを出て外の空気に触れているとだんだん有田先生の最後の言葉が気になってきた。
ただ単に年齢の若い子を喩えただけのようにも聞こえた。
クセッ毛で短髪のわたしの顔を指して言ったようにも聞こえた。
ふと横を見ると店舗のガラスに映ったわたしの顔。
雛鳥。
――やっぱり後者かな。