第五話・課外授業
うん、大丈夫。わたしには「絵」さえあれば。きっと……。
「次週日曜、水族館にて課外授業を行う。参加希望者はいるか?」
帰りのHRで音羽先生がだしぬけにそんなことを言い出した。
聞きなれない言葉にクラスはざわめき、先生はわずかに眉を顰めた。
その様子に気づいた一人の眼鏡の男子生徒が手を挙げて先生に質問した。彼は男子にしては背が低くて色も白く大人しい印象だが、授業中はよく発言をしており頭の良さそうな印象を受ける。名前は……えーと、今は思い出せない。
「先生、課外授業というのは何でしょうか?」
「ふむ、諸君らに課外授業をするのは初めてだったな。説明が必要だろう」
ゴールデンウィークも終了し、わたしも大分クラスメートたちとの距離が決まってきた頃のことだった。
「我が音羽学級では不定期に課外授業を行うことにしている。既に自覚していることと思うが、音羽学級の一員たるもの様様な点において優秀な生徒であることが要求される」
わたしは(それに、たぶん他のクラスメートも)ツッコミを入れたくなったが黙っていた。
「現在学園で定められているカリキュラムでは、各専門分野の知識を吸収することまでしかできない。もちろんそれも大切な勉強だ。自身に蓄えられた知識量に比例して諸君らの将来の選択の幅も広がることになるだろう。しかし、それだけではただ各教科の定期試験の点数を取るだけでよいという認識をしてしまう危険性もある。そこで私が行う課外授業によって多角的な視点で物事を見、そして総括的に判断する力を養ってもらいたいというのが目的だ。無論、学園外に出ることによって一般常識や礼儀、そして集団行動における良識も身につけてもらいたい」
教室内はまだかすかにざわめきつつも、いつものように静かになっていった。
音羽先生は目を細め教室内を見回した。
「課外授業への参加は自由だ。強制はしない。次週日曜日の午前10時、いさや臨海公園の正門広場に集合だ。参加希望者は挙手せよ」
水族館か……。
わたしがぼんやりと頭の中の水族館の記憶を引き出していると、やがてパタパタと手が上がった。初めに音羽先生に質問した男子を含む、このクラスでの優等生組が主だった。
と、わたしの斜め前の方に座っていた珠美ちゃんが肩越しにちらりとこちらを振り返るとウィンクしてみせた。
この前の席替えでも珠美ちゃんとあまり席が離れなかったのはラッキーだった。時々、退屈な授業中にわたし達はアイコンタクトを取っている。
珠美ちゃんは前に向き直って手を挙げた。彼女のウィンクの意図が判ったわたしは合わせて手を挙げた。
見回すと手を挙げた女子は、わたしとよく話す「おとなし系」の女の子達だった。
参加メンバーは男女あわせて全部で8人だった。
「……よろしい。では、次の日曜、挙手したものは必ず集合するように。以上、HRを終了する」
そしてわたし達は机を後ろにさげ掃除を当番の人に任せて教室を出た。
「珠美ちゃん、どうしたの? 何で課外授業に出る気になったの?」
廊下に小さな集団が出来た。課外授業に参加する女子達の集まりだ。
「うん、実はね、わたしの3つ上の先輩から音羽先生が課外授業をするってことはちょっと聞いていたんだ」
「あー、そうなんだ」
「で、どんな感じなの? 音羽先生は」
「うん、数学の授業中ほど怖くはないらしいよ。勿論あんまり騒いだりしたら怒られるけど、先輩は結構楽しかったって言ってた。何かね、集団デートみたいだったって」
「集団デートか…」と、女子の一人、小笠原静香ちゃんが視線を斜め上にあげ嬉しそうな顔をする。
「ねえ、珠美ちゃん? これって内申書とかよくなるのかな」と、聞いたのは間紀子ちゃん。
「なんかそういうのもあるみたい。先輩が直接先生に聞いたわけじゃないんだけどね」
「いさや臨海水族園、この間オープンしたばかりだからちょっと気になってたんだよね」
「でも水族館て結構久しぶりだなぁ」
「そうだよね。近所にあると、かえって『いつでもいいや』って思っちゃうよね」
わたしも水族館は久しぶりだ。それからわたしたちの話題は最後に水族館に行った時のことに移り変わり、掃除当番の人に追い立てられるまでそれは続いた。
期待はいやがうえにも膨らんでいった。
そして水族館行きを明日に控えた土曜日の夜。
「んおっ!?」
居間の絨毯の床の上にうつぶせになっていたお父さんは変な声を上げるとテレビの方向へ身体を捻った。
「わっ、危ないなあ、お父さん!」
お父さんの背中を踏んでいたわたしはバランスを崩して床に片足をついた。
踏んでいたといっても別にわたしは家庭内暴力をふるっていたわけではない。
お父さんは仕事で疲れるとお風呂上りにお母さんやわたしに背中を踏ませて按摩代わりをさせる。
お母さんは体型は普通だけど背が高いので体重はそれなりにある。わたしは背は普通でも痩せ型なのでお母さんよりは軽い。
だからどちらを選ぶかによってその日のお父さんの疲労度がわかるのだ。
何、とわたしが問うとお父さんは、見てみ、と言ってテレビを指差した。
テレビの向こうでは、一人の女性タレントがたくさんのマイクの前でレポーター達の質問に答えていた。
『藍原ちはる 電撃離婚』と太文字のテロップが流れている。
合わせていたチャンネルでは報道番組とワイドショーをミックスしたような番組を放送していた。
藍原ちはるというのは幼稚園児からお年寄りにまで人気がある女性アイドルグループ「CAT & KITTY」のメンバーの一人だ。年齢は22歳(と、テロップに書いてある)。
去年TVの恋愛ドラマで共演した同い年の俳優、三井寺拓郎と結婚し、このときも週刊誌やワイドショーを騒がせた。
それから二人はわずか1年3ヶ月で離婚してしまったことになる。
「若すぎると思ったんだよなあ。二人とも」
と、お父さん。そう言えば結婚の報道のときにはそんなことを言っていたような気がする。
藍原ちはるは演技なのか本気なのか視線を下に落とし顔を歪めていた。
――お互いに仕事が忙しくてすれ違いが多かったような気がします。
――決して愛情がなくなった訳ではないんです。
――今でも一俳優として拓郎さんを尊敬しています。
矢継ぎ早やにレポーターの質問を受け、彼女の目に涙が滲んできた。
……わたしは何だかムカムカして大きく息を吐いた。
「考えなしに結婚するからこんなことになるんだよ」
「ん? なんだ、和美は独身主義者か?」
「そうじゃなくて。結婚するからには一生そばにいる覚悟をするはずでしょ? それがたった1年だって。いかにいい加減な気持ちで結婚したかってことよ」
「ははっ。人を好きになるときは誰もその気持ちが終わるだなんて考えもしないさ」
「でも、一度結婚という形で恋愛感情を明言したなら、その言葉には責任をとるべきだわ」
「世の中には1日で終わる恋もあれば一生ものの恋もある。俺を見てみろ。かんなと結婚して16年。片思いの時間を加えると27年。ずっと俺はかんな一筋だぜ」
「あう……。お父さん、それ、この間も聞いたばっかり」
「大助、呼んだ?」
と、かんなさんことお母さんが自分の名前を聞きつけ台所から居間に戻ってきた。
そう言えば、子供の前で夫婦が名前で呼び合うというのは割と珍しいことらしい。これも友達の家に遊びに行ったときに知ったのだが。
「ああ、いや。ほら、藍原ちはる、離婚だってさ」
「ん? あら…やっぱり。若すぎると思ったのよねぇ。二人とも」
と、二人は夫婦らしさを見せつける。
「ドラマで役作りしすぎたのよね。まあ、二人とも芸能人としてもまだ若いんだからいい勉強になったでしょ」
わたしはそれはちょっと違うんじゃないか、と思った。
結局藍原ちはると三井寺拓郎は恋愛ドラマをやったせいで勘違いの恋に落ちてしまったのだろう。
でも勉強になったというのはどうだろう。
芸能活動をするための糧としての恋愛というのは何か違う気がする。二人は芸能活動をする為に結婚生活を破棄した。だからこの場合、恋愛は仕事に不要なものとして判断されたということなのだと思う。
そこのところはわたしの場合と似ている。
わたしが美術部として活動する際には恋愛は必要ない。
かつては、わたしの部活動を恋愛感情と強引に結び付けられ不愉快な思いもしたが、高校に入って一ヵ月半たった今、そんなことで腹を立てていたことが馬鹿馬鹿しくなった。
それはわたしが美術に専念できず雑念に惑わされていただけなのだ。
最近、日常のふとした一コマから絵のモチーフを見つけることが多くなった。
美術部のみんな――特に天才と呼ばれた彼――の作品と触れ合ったことでわたしの中の感性がブルブルと活性化しているのを感じる。
これだけでもわたしが桑学に入学した甲斐があるというものだ。
「そうだ、和美」
「何? お母さん」
「和美、明日ヒマ?」
「え……何?」
「お米、買ってきて欲しいと思ったんだけど」
「あ、ごめん。明日水族館に行くんだ。学校の側の」
「帰りに……って疲れてるか。まあいいわ。明日の朝パンにすれば間に合うから。ところで水族館って? デート?」
「ちがーう! 学校の課外授業」
「あら、そんなのがあるのね」
お母さんはたまにこういうデリカシーの無いことを言う。
とは言え、お母さんは全然悪くない。お父さんの話によると、お母さんは高校の頃からものすごくモテていて何人もの男の子からデートの誘いを受けていたそうなのだ。
だからお母さんにとっては休日のデートは極普通のことという認識らしい。
当時純情少年だった(と、お父さんは自分でそう言う)関根大助クンはライバルが多すぎて遠くから眺めることしか出来なかったのだという。
高校を卒業して毎日顔を合わせることができなくなると、お父さんは諦めて気持ちが自然消滅するのを待ったこともあった。
でもどうしてもお母さんを忘れることができなくて一世一代の大決心でお母さんの家の電話番号をダイヤルしたのだった。この時お父さんの頭の中にはフィンガー5(昔の流行歌手だそうだ)の歌がリフレインしたという。
それがお父さんのお母さんへの初めてのアプローチだったそうだ。
「和美、もう一回、背中頼む」
お父さんがわたしに呼びかけた。わたしは「ん」と言って再びお父さんの背中の上に立ちゆっくり足踏みを始めた。
お父さんはうぅーと低いうなり声を出した。このお父さんがそんな引っ込み思案だったなんて信じられないんだけど…。
番組は次のニュースに移り変わっていた。
「おはようございまーす」
いさや臨海水族園は『いさや臨海公園駅』を出るとすぐそこにある。
この駅はわたしの定期を使えば一駅乗り過ごしただけの交通費で行ける。
集合場所には銀色のオブジェがあり、そばにスーツ姿の音羽先生が立っていた。
「関根か。おはよう。お前が一番乗りだな」
「あ、そうなんですか?」
真の一番乗りである音羽先生が言う。
まあ、わたしが一番距離的に遠いので用心の為に早めに来るのは当然だ。
「関根はここに来るのは初めてか?」
「はい、毎日通学時に建物は見えていたんですけど」
「そうか」
わたしは広場のオブジェを中心に周りを見回した。この辺は最近再開発が進み、臨海公園も出来たばかりだ。
公園の施設である建物はどれも近未来的で今わたしが踏んでいるレンガ道も真新しい。
時おり風が運んでくる潮風の匂いが心地良かった。
こんなにきれいなところならもっと前から来ててもよかったかな、とわたしはきっかけを作ってくれた音羽先生に心の中で感謝した。
やがて参加メンバーが次々と現れ、定刻になったところでわたし達は先生の後について水族館の建物に向かった。
全員でいっぺんに移動すると他のお客さんに迷惑になる、ということでわたしたちは入り口のところで二班に分かれてから見学を始めた。
「わぁ、見てアレ! 凄い綺麗!」
「ねえねえ、あの魚さ、人間でもああいう顔の人いるよね〜」
「あー、ここの水槽の分だけウチに欲しい〜」
「あっ、あっ、ホラ、エサに群がってるよ! 凄い迫力!」
わたしが心を惹かれたのは、紅海をはじめとした暖かい地方の海に住む魚達の水槽だった。彼らのボディのサイケデリックな色づかいと模様はわたしの想像力をはるかに凌駕している。それらは小さな子供の描く絵を思い出させた。
仮にわたしが知らずにこの魚の絵を見たとしたら、その不自然さから人工物であるかのような印象を受けたかもしれない。そう、普通の魚の体にいたずらして原色の絵の具の線を乱暴に描きなぐった、といわれた方が信じてしまいそうなくらいだ。自然界はわたしたち平凡な人間が想像する程度の「自然さ」などでくくれるものではないのだという事をわたしは身をもって知った。
ああそうだ、しまった。どうせならスケッチブックを持ってくればよかった。
近くにいた家族連れがデジタルカメラで水槽を撮影しているのを見てわたしは後悔した。
こんなにいいモチーフが1000円もかけずにいくらでも見られるというのは甚だ魅力的だ。
今は班行動だからあまり自分のペースで観賞できないのが惜しい。
「和美ちゃん、そろそろ行こう?」
珠美ちゃんが水槽を見つめ続けていたわたしの肩を叩いて先に進むことを促した。
「何を見ていたの?」
「ああ、この魚の色。この青とも緑ともつかない蛍光色」
「うん、綺麗よね〜」
「わたしが前に水族館に行ったのはもう小学校の頃だけどこの色はハッキリ覚えている。水族館の色だなあって」
「あー、うんうん。水族館でなきゃこんな色見ないよね」
「そうでしょ。……あ、ごめん。先に行こうか」
わたしは皆に合わせて移動する。だけど近いうちにまたここに来たいと思った。
今度はスケッチブックを持参して……。
時間を気にしなくていいよう一人で……。
ああ、いや一人じゃダメだな……この感動を交換し合える人がいないと楽しくない。
今日はみんなや他のお客さんの口から漏れ出した感想を聞くのも楽しかったんだし。
そこまで考えてふと悲しくなった。
わたしには誘える人がほとんどいないんだっけ。誘えそうな人と言えば全員今日参加したメンバーだ。
あ、美術部の人はどうだろう。もし部活動の中で何らかの機会があったら提案してみるのもいいかもしれない。
うん、鋭い意見の交換ができるかも。
わたしはその状況を思い浮かべると、少し胸が躍った。
水族館の見学が終わったのはお昼少し前だった。
音羽先生の解散宣言のあと、女子グループはそのまま水族館内のレストランで海を見ながら昼食をとることにした。
「面白かったね〜、今日」
「うん、大満足。魚見てると、癒される感じ」
「うんうん。またしばらくしたら来てみたいな」
「うん。その時は私服で……」
「青野君と?」
「んっ、んんっ……ゴホゴホ」
青野君というのは、この間課外授業のことを先生に訊いた男子のことだ。その名前を出された静香ちゃんは慌てたようにむせた。
「で、これからどうするの?」
「ん? どっか寄ってく?」
「和美ちゃんはどう? 今日これから何か予定ある?」
「別にないけど……」
「それじゃさ、静香ちゃんの要望もあるから」
「わたし、別に要望してない」
「ちょっと服見ていかない? ここの近くにアリタっていう新しいブティックが出来たんだよ」
「あ、そうなの?」
「値段はちょっと可愛くないんだけど、おしゃれなのがそろっているみたい」
「へー、知らなかった。行きたい行きたい」
「……」
ブティックのことで盛り上がるみんなを見て、わたしの胸はトクンと嫌な音を立てた。
3人とわたしの距離が開いていくような気がした。
だってわたしは、自分で服を選んで買うことができない。
――他人には言えない、本当に情けない話だけど。
店に並んだ洋服を見ていいな、と思うことはある。
勇気を出して試着したこともある。
だけど試着室の鏡に映った自分の姿を見てわたしは心底嫌になった。
わたしが完全に洋服に呑まれていた。
洋服の可愛らしさのせいで冴えないわたしの容姿が余計に浮いてしまった。
試着を終えたわたしを見る店員さんの顔が嘲笑っているように見えた。
だからわたしはお母さんと一緒じゃないと洋服が買えない。
自分の好みとお母さんの見立てとの折り合いをつけて、やっと新しい服が買えるという体たらくだ。
制服を着ているときのほうがほっとする。制服なら着ている本人のセンスは問われないで済むから。
「…ちゃん?」
「和美ちゃん?」
「ねえ?」
「えっ、何?」
「どうしたの? おなかいっぱいなの? 気持ち悪くなったの?」
眼下には料理が一口分だけ申し訳なさそうに残っていた。わたしはあわててそれを口に放り込んだ。
「それじゃ、しばらく休んだらアリタ行きね」
「…うん」
ここでわたしが断っては変に思われてしまう。
……うん、ただ見るだけなら大丈夫だろう。
考えてみれば変な話だ。美を追求するはずの美術部員のわたしが、自分のことではこんなにも無力だなんて。
わたしは何かが欠けた人間なのだ。
ふと、音羽先生が課外授業の目的をわたしたちに説明していたときのことを思い出した。
わたしにとってはここからが課外授業なのだ。そんな気がした。