第四話・疾風
帰宅したときには既に夕食の準備が出来ていた。
お父さんはわたしに、おかえり、と告げたかと思うとおなかが空いていたのか、早くごはんにしよう、と急かした。
わたしはうん、と頷いて自分の部屋に戻り急いで着替える。
そして洗面所で手を洗う時に、わたしの指がまだ絵の具で少し汚れていたことに気が付いた。
彼――嘴本薫がいい色だと褒めてくれた色だった。
食卓ではお母さんに背中が丸いよ、と注意された。夕食はおいしかった。
「ふう…」
湯船に身を浸すとわたしは目を閉じた。
食事が終わると次はお風呂。我が家では特別な日を除いて、お母さん、わたし、お父さん、の順に入浴をする。
温かなお湯がわたしの心の中に出来ていたしこりをとろとろと解きほぐしてくれた。まやかしかもしれないけれど。
今の気分のままなら彼にごめんね、と言えそうな気がした。
葛名弘明君は、中学の時わたしと同じ美術部だった。
美術部はわたしに優しい場所だった。
悪口がない。陰口がない。ひとを噂だけで判断する人がいない。
だからわたしは放課後こそが安らぎの時だった。
葛名君はわたしの絵をからかう以外の目的で批判した初めての男子だった。
それは椅子のデッサンだったと思う。
その頃わたしは自分の絵に自信を持っていたので(今から考えると恥ずかしい自惚れだが)葛名君の言葉を聞いた瞬間に感じたのは只の反発心だった。
わたしはスケッチブックを手で隠すと、いかにも迷惑だと言わんばかりに葛名君を睨みつけた。
そんなわたしの態度に葛名君は気を悪くし、一度舌打ちをするとそれきり黙ってしまった。
けれど次の日、冷静になってスケッチブックを見直してみると確かに彼の指摘は正しかった。
そしてあろうことか、わたしがその部分を直しているところを葛名君に見られてしまったのだ。
クククという忍び笑いに振り返ったわたしを見て、葛名君は慌てて目をそらし変な口笛を吹き始めた。
わたしは腹を立てるはずだったのに、なぜかプッと噴き出してしまった。
そして葛名君は、中学に入ってからのわたしの初めての男子の友達になったのだ。
そう、友達。恋愛感情なんか介入していない「友達」。
葛名君とする話はもっぱら美術関連の事ばかりだったし、美術室以外でふたりきりになることだってなかった。
彼とは友達。普通の女の子ならば何人いてもおかしくない男友達。
なのに、どうして、わたしに関しては、それが恋愛の対象であると断定されなければならないのか。
その日、美術室の入り口は開け放たれていた。そこから男子のがやがや声が聞こえてきた。
美術部には他の人の邪魔をしないために美術室で大声を出さないという不文律がある。
だからそんな不躾なことをする彼らは男子部員ではない。わたしは入り口の前で一旦立ち止まって中の様子を伺った。
キャンバスを前に作業をする葛名君。その後ろで二人の男子生徒が葛名君に何度も話し掛けていた。不良じゃない、普通の格好をした生徒だ。
友達が遊びに来た……そんな様子だった。彼らの大声は不快だったが、目を吊り上げて怒るほどのことでもない。
だが、聞こえてきた話の内容が中に入ろうとしたわたしの身を凍らせた。
作り事にしても安易で笑えないシナリオだった。わたしが葛名君に恋愛感情を抱いていて、彼に会いたいがために放課後美術部に通っているというものだ。
女子の間でもよく誰が誰を好きという話題が持ち上がるから、男子の間にもそういうのがあっても何の不思議も無い。
しかし彼らの声に侮蔑のトーンが混じっていたのは「わたしが」関係していることだからだ。
顔の筋肉が、ぴくぴくと痙攣するのがわかった。あいつらは葛名君に嫌な思いをさせた。わたしの気持ちを勝手に決めつけた。美術の世界を侮辱した。許せなかった。今でも許せない。
私がそのまま美術室に入っていった場合の彼らの行動パターンというものが容易に想像できた。
わたしは嘲笑など浴びたくなかったので、その日は部活をさぼった。
そして次の日から、わたしは葛名君の態度が変わったことに気が付いた。
わたしに話し掛けようとしてそれを中断する。
わたしが座っている場所を避けて移動する。
やっぱりわたしの側にいて、冷やかされるのが嫌なんだと思い知らされた。
彼らがデタラメを吹き込みさえしなければ、友達でいられたというのに。
わたしは必要以上に葛名君に近づく気持ちなど元々なかった。わたしみたいな女に言い寄られても迷惑だとはわたしが一番良くわかっていたから。
葛名君は女の子にもてるタイプだった。彼らがわたしの事を女子にも触れ回らないとも限らない。だから……。
こうして美術部は、わたしにとって安らぎの場所では無くなってしまった。
描きかけの絵も放り出して、わたしは美術部から逃げ出した。
たったそれだけのことだ。くだらない、他の人から見ればとてもくだらない理由だ。
そんなことで彼を傷つける訳にはいかない。心の中までネズミになるのはもうゴメンだ。
目を開けて右腕を湯から上げる。
もう、手には絵の具の跡は残っていない。でもあの色は憶えていた。
美術部から逃げ出すなんてことはもうしない。お母さんとも約束した。
さて、彼に何と言ってフォローしたものか。
『昨日はごめんなさい。あなたに会いたくないと言ったわけじゃないのよ』
……上手に言わないとそれこそわたしが彼に特別な感情を抱いているかのように思われそう。
いやいや、それよりもどういうタイミングで彼に話し掛けようか。むしろそちらのほうが問題だ。
何度か頭の中でシミュレートして……結局まともな答えは出ずじまいだった。
お湯から上がった時には頭がふらふらした。
結局その夜は眠ってしまうまで、過去への悔恨と彼へのフォローのことを無駄に頭の中に巡らせていた。
翌朝、悩んだまま登校していくと、もう教室には珠美ちゃんがいた。
彼女はわたしに気づくと自分の席からわたしに手を振ってくれた。わたしも笑って手を振り返した。
そうだ、珠美ちゃんから元気を分けてもらおう。
「珠美ちゃん、おはよう」
「おはよう……。和美ちゃん……ねえ、わたし、またやっちゃったぁ」
……あれ?
珠美ちゃんはさっきのテンションから一転、甘えるような泣き声でわたしの腕を柔らかく掴んで顔を伏せた。
「どうしたの?」
「昨日ね、バスケ部の紅白試合があったんだけど、わたしったらその最中にドジって籠の中のボール全部コートにぶちまけちゃったの」
「ありゃー」
わたしはその様子を頭に思い浮かべた。
「皆の視線が冷たくて恥ずかしかったよぅ。駄目だなぁ。わたし」
「ま、まあ、失敗は誰でもするっていうか…」
「でもわたしってば鈍臭いから、初日から先輩マネージャーさんに怒られっぱなしなの〜。あ〜、今日部活行きたくないな〜」
あ……親近感。
なんとなく珠美ちゃんの頭を撫でたい気分になったりして。
なでりなでり。
あ、ホントにサラサラヘア。
珠美ちゃんは日向ぼっこしている小動物のような表情で顔を上げた。
おまけに、本当に動物みたいにふにゃ〜と声を立てたので、わたしの顔はゆるんでしまった。
と、珠美ちゃんが私の肩越しに視線を反らした。つられてわたしもそちらを見た。
「あっ、相模くん、おはよう」
「ああ、マネージャー」
珠美ちゃんが挨拶したのは、左目の下に絆創膏を貼った短髪の男子だった。うちのクラスの男子である。
身長はそう大きい方ではないけれど、筋肉質でひきしまった体型をしている。いかにも体育会系の男子らしい。
相模という苗字と彼の顔は覚えていたが、彼の名が相模なんとか君だということは今覚えた。
「昨日はごめんね?」
「昨日? ああ、あれか。別にいいぜ、もう。いつものことだから」
「はうっ」
「おい、そんな情けない顔するなよ。ちょっと失敗したくらいで」
「でも」
「そんなことくらいで落ち込んでたら、いつもファイブファウルで退場くらっている俺はどうなる? とっくにバスケ部退部してるぜ」
「それは……」
「誰だって初めは失敗は当たり前だ。あまり気にしないで今後取り返せばいいだろ」
「うん……ありがと」
相模くんは自分の席についた。珠美ちゃんは黙ってしばらくその姿を眺めていた。そして小さくわたしにつぶやいた。
「同じクラスにバスケ部の人がいて良かったぁ……。だいぶ楽になったよ。あっ、和美ちゃんも撫で撫でありがとね?」
わたしはクラスメートだからという理由だけじゃないだろう、と思ったが黙っていた。
わたしもこんなに簡単に楽になれればよいのに、と珠美ちゃんをうらやましく思った。
放課後、わたしは重い足取りで美術室へ向かった。顔を合わせた時が一番気まずい。さてさて……。
美術室のドアを開けるとすぐそばに2年の永山先輩がいた。
挨拶しようとすると、人差し指を閉じた自分の唇に当て、わたしを口止めした。
わたしは「?」と目で永山先輩に聞いた。先輩は淡く微笑んで指で一方向を指してみせた。わたしはその方向を見た。
「あ……」
うっかり声を漏らし、あわてて口をつぐむ。
そこにはやや大きめのキャンバスが立てかけられていた。その前で男子生徒が上着を脱ぎエプロンをつけて立っていた。
彼――嘴本薫だった。
キャンバスにはすでに完成しかかった油絵が描かれていた。
彼は昨日の今日でもうここまで描きあげたというのだろうか。
しかし、そんなことは驚くに値することではない。
なぜなら、なぜなら――
彼の言葉が蘇ってくる。
『ボクが入部することで美術部のみんなの自信を失わせてしまう』
それは間違いだった。
彼のレベルがそこそこ上手いという程度ならば、わたしは親近感やライバル心を感じていただろう。
それ以上のレベルなら、わたしは実力差に愕然とし、自分の技量の低さが恥ずかしくなってしまっただろう。
でも、彼の場合、そんな次元すらも超越していた。
彼のレベルは、見ている他人のレベルをも引き摺り上げてしまう……!
わたしの胸がどきどきと鼓動を速めていた。
彼が描いていたのはこの学園の敷地内にある記念館のようだった。わたしも学園の下見のときに見たことがある。
荒々しく力強い線に、単独ならば暑苦しさも感じさせる暖色系の配色。
それなのに、全体としてみると、記念館を照らす柔らかな陽光が見事に再現され春らしい暖かさにとどまっている。
こんなに荒っぽい線なのに記念館の神秘性を損なわせないのは何故だろう。
こんな色の使い方があったなんて、こんな筆の使い方があったなんて。
――試したい。わたしもこんな絵を描いてみたい。
彼の予言は当たった。
『明日からもっと楽しくなるよ』
『間近でボクとボクの作品に触れ合えるよ』
ああ、認めなくちゃいけない。
彼の作品から目を離すことができない。もっともっと彼の作品を目にしたい。
わたしの中に激しく湧き上がる創作意欲の奔流。
わたしってこんなに美術を愛していたっけ?
さっきまでのつまらないわたしの悩みなど、とっくに押し流されていた。
「やあ、関根くん」
一息ついた彼が振り返ってわたしに気がついた。わたしはごくりとつばを飲み込んだ。
「あ、うん……」
完敗だった。何に負けたのかは分からないけれど、とにかく完敗だった。
彼の見ている世界はあまりに広い。
昨日のわたしの言葉とて、もう気にしていないのだろう。
永山先輩が彼の絵を指差しながら何事かを彼に話し掛けた。彼もうんうんと頷き先輩に笑顔を見せていた。
これが天才・嘴本薫――!