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第三十三話・12月23日

 今日から桑苑学園は冬休みに入ったが、私は定期を使い電車に乗って新桑苑駅へと向かっていた。学校に用事があるわけではない。私は、みねこ先輩のマンガを描く手伝いをしに行くことになったのだ。



「ねえ、ズミちゃん」

 終業式の前日、久しぶりに部活に来たみねこ先輩が声を掛けてきた。

「はい?」

「今、カレシいる?」

 そんな唐突で不躾な質問に私は固まってしまった。

「何ですか、いきなり。……いませんよ」

 いるわけないじゃないですか。ちょっとズキッとする。

「あはっ、実はね、冬休みに入ったら何日か、ちょっと助けてほしいことがあるんだ。だから予定はないかな、って思って」

 悪意はなく、みねこ先輩流の冗談なのだろう。多分。

「予定は……特にないですけど」

 みねこ先輩の頼みというのは、夏の合宿でのものと同じだった。年末に行われるコミケに出展するマンガを描く手伝いをして欲しいそうだ。この時期、蒼彩展まで差し迫っているわけでもなく、みねこ先輩の家は学校に近いから定期を使えば交通的な問題もない。マンガを描くこと自体嫌いではなかったし、特に断る理由は無かった。

「ホントはね、最初、ノムちゃんにお願いしてたんだけど、急に予定が入ってダメになったんよ」

「ああ、そうだったんですか?」

「それがね」

 みねこ先輩はそこでニヤッと笑って顔を近づけ声をひそめた。

「ノムちゃんってば、その予定ってのがどうにも男がらみらしいのよ」

「男?」

「そう、友情よりも恋を優先したのね。真面目なノムちゃんのまさかの裏切り」

「……」

 私の脳裏に、先日野村先輩と話していた男子生徒のことが浮かんだ。が、不用意なことは言えないので私は黙っていた。あの人のお誘い、受けたのだろうか。

 それはともかくとして、私は23日と24日にアシスタントをすることを約束した。前に一度みねこ先輩の家に行ってはいたが、場所を憶えていなかったので駅前で待ち合わせすることに決めた。



 いつもの改札口を通って時計を見ると、まだしばらく時間があったので、私は駅出口の柱のそばに立って待つことにした。 今日は空が晴れていて風も弱く、比較的暖かい。手袋はするまでもなさそうだ。

 駅前の広場ではカップルが目立っている。単に私がさっき野村先輩のデートの事を想像していたせいで意識しているだけかもしれない。海側を向くと遠くにマリンタワーが見えた。この地域一帯が再開発された際に建てられた新しい建物だ。12月に入ってからは、日没後、クリスマスカラーのライティングがなされていて、帰り道に眺めるのが楽しみになっていた。デートスポットになっているというのも納得の華やかさである。

 私はもうちょっとよくタワーが見える場所へと待つ場所を移すために歩きかけた。と、その時、ドンッと背中側から衝撃を受け、私はつんのめる。その拍子に持っていた小さいバッグを手から落としてしまった。

 屈んでバッグを掴むと、頭の上のほうから「あー、すいません」

と、男の子の声。言葉では謝ってはいるが、半笑いで全然謝意がないのが丸わかりだ。そしてその後方から、何やってんだよ、と、複数の男の子の声。やっぱり半笑いだ。ムッとして私は一瞬だけ睨み付けてやろうと顔を上げた。


――――!!


 血の気が、引く。息が止まる。記憶にある顔だった。

「ウィヒッ」

 私と目を合わせた途端に発せられた『それ』の奇声は、たちまち私を中学時代の私に引き戻す。

「ヒヒッ、ヒヒッ」

 そんな耳障りな笑い声を発しながらスキップする様に後ずさりして後ろの集団に戻っていく。そして私を指さしながら、ヒヒヒ、ネズミ、ヒヒヒ、ネズミと繰り返した。空から差す太陽の光の恩恵が何も感じられなくなるほどに、私の身体から熱が奪われていく。

 その集団の顔ぶれは、中学で同じクラスになっていた男子たちのものだった。何人か知らない顔もあったけれど、私を見てニタニタと笑っているのといないのとですぐ判別がつく。

「おい、ネズミが髪伸ばしてるぞ」

「高校デビュー? ヒッ、フヒッ」

 いじめられていた訳じゃない。テレビのニュースで見るようないじめに比べれば、私の受けた苦痛なんてちっぽけなものだ。ただ、そんないじめ未満が、ずっと、ずっと……。 私には、嫌なことがあると身体が強張ってしまう厄介な性質がある。この場から逃げてしまうのが最善なのだろうが、動けない。そして動いたとしても背中から冷笑を浴びせられることを想像してしまってますます身が硬くなる。

9ヶ月。高校に入って9ヶ月という時間で私は男の子に対する苦手意識が薄らいでいた。だって、薫くんは素敵な人だし、青野くんは優しいし、星見先輩は真面目な人だ。ううん、それだけじゃない。特に普段話をしないような男子にも、掃除の時間に気を使われたことがあった。男子に私への悪意がないことが不思議で、だけど心は暖かくなって、とても安らかだった。

でも今、ほんのこれだけの時間で忘れていた痛みが一斉にぶり返す。

「ウハッ、ネズミの顔やべえ」

「ヒヒハハハ」

 もう駄目だ。身体が小刻みに震える。もし私が男の子だったら、ここで暴力を振るうことで痛みを消すことができるのだろうか。


 ふわっ、と。


 それはふわっと芳香を放ちながら私の視界を遮った。私はこの香りを知っている。そしてこの皮のジャケットを着た背中を知っている。

瞬時に私は何も見えなくなった。熱い液体が眼球を襲い、瞼が開けられなくなる。

「僕の連れに何か用かい?」

 ああ、ああ、その声!

夢じゃないだろうか。頭がクラクラする。

私は母親にすがる小さな子供のように、そのジャケットの端をひっつかみ、おでこを背中にもたれかけた。何か向こうで言葉を交わしあっているようだけれど、よく聞き取れない。


「関根くん、あいつらはもう行ったよ」

「……ん」

「大丈夫? ほら、涙を拭いて」

「うん、大丈夫。ありがとう」

 ハンカチまでいい匂い。中学時代は、何を言われても人前で泣くことなんてなかったのに、彼の前では泣いてばっかりだ。

「ちょっと、落ち着こう。少し歩いた先に喫茶店があるんだ」

「ん……」

 彼に言われるまま歩き出すが、その途中で私は約束を思い出した。

「あ、ちょっと待って」

「何?」

「あのね、みねこ先輩と待ち合わせしてたんだった。マンガのお手伝い」

「そうなんだ。じゃあ、それ、断りなよ」

「えっ」

「『今日行けなくなりました』って電話すれば」

「で、でもでも……」

「今の状態で手伝えるの?」

「う……それは。だけど……だって私、携帯電話持ってないし」

「それじゃ、僕のを使いなよ、ほら」

 彼はそれを取り出して私に差し出す。それを断れるような精神状態ではなかった私は彼に使い方を聞きながらみねこ先輩に電話した。

『はい、鷲見ですけど……どうしたの? 珍しいね』

『あ、あのっ、』

『あれ?』

『関根です。関根和美』

『え、どういうこと?』

『あの、ごめんなさい、今日の約束、行けなくなってしまいました。急にですいません』

『え、ええ? いや、それより、どうしてカズミちゃんがカオルっちの電話から掛けてきてるの?』

 言われてから気づく。携帯電話は掛かってきた電話が誰からのなのかすぐわかる機能があるんだということに。

『あ、あのっ。あっ』

 と、そこで薫くんに電話を取られてしまう。

『もしもし、嘴本です。今日は悪いですけど関根くんをお借りします。はい、はい。それはまたいつか。はい。では』

 そして電話を切ってしまう。笑顔を見せる薫くんだったけれど、私は、後で色々聞かれそうだなとビクビクした。


 薫くんに連れてこられた喫茶店は、入った瞬間に駅前だということを失念してしまいそうになるほど、落ち着いた、いい意味での古臭さを感じるお店だった。二人掛けの席は全部埋まっていたので、四人掛けの席に二人で座ることにした。ところが薫くんは、私を先に座らせると、てっきり私の正面に座るものだと思ったのに横に座ってきた。彼には彼の考えがあってそうしたのだろうけど、ちょっと恥ずかしかった。

注文も彼に任せてホットココア。それを涙と一緒に飲み込んでようやく人心地がついた。

高校に入ってから出来た友達との会話では、たとえタマちゃん相手であっても、極力中学時代の話を避けてきた。嫌な思い出を鮮明にしたくなかったし、恨み言ばかりまくしたてて相手に引かれたくなかったから。だけど今は、もう泣き顔を見られてしまったということもあって、とにかく彼にすがりたかった。

私は胸の底にたまっていた黒い記憶と感情を彼に向って吐き出す。その時の私は、相手がそれをどう受け止めるかなんて、気を遣うほど余裕はなかった。ただ、唯々、辛い思いを打ち明けて、聞いて欲しかった。あわよくば慰めてほしいという卑しい感情がそこにあった。彼は私の話をうなずきながら、そして時に眉をしかめながら聞いてくれた。そんな優しさが、ココア以上に胸を温めた。

「僕はね」

 彼は口を開く。

「美術部で初めて会う以前のキミには何もしてやれない。だけどその過去がキミを苦しめているのなら助けてやりたいと思う」

「……」

「僕のそばにいなよ」

「!」

「僕がそばにいることで過去の苦しみから救われるのなら。そして未来の苦しみから守ってやれるのなら、ね」

「……いいの?」

 恥ずかしくて、怖くて、うつむいたまま尋ねてしまった。

「うん」

 そう言って、私の左手の甲に彼の右手を重ねた。また、泣きそうになった。でも、泣く前に、ありがとう、大好き、と伝えた。

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