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第三十話・弱火

『僕を好きになっちゃいけないよ』

『僕の美はみんなのものだ』


 とか言っちゃってぇ。

 あんなコトをする特別な相手がいるんじゃない。

 だったらどうして私を振るときにその事を言わなかったの?

 他の女の子にも、私と同じように言ったの?


 今の気持ちはなんと表現したらいいのだろう。怒り、なのか。哀しみ、なのか。それとも……失望なのか。もう、この気分のまま、彼への想いを冷ましてしまってもいいかもしれない。今は、彼のことが好き、という言葉を胸に浮かべるだけで痛む。


 ……あー、やっぱり嫌だ。


 だって、相手があんな年上の女の人だというのが気に入らない。なんかやらしい感じの人だった。

 キスシーンっていうのは、マンガやドラマで見たときには、ドキッとしたものだけど、生で見るとそうでもない。カーッとは成ったけど、なんかやらしいっていう嫌悪感が鼓動を押さえ込んだみたいだ。

 あれが、例えばセナちゃんだったりしたら、悲しいだろうけど、祝福できると思う。たぶん。

 あんなケバい感じの人じゃヤダ。なんかやらしい。

 

 帰り道の間、胸が疼く度に、あの女の人に負の感情を向けて楽にする。嫌な女だな、私は。


 家に帰ると、ドッと疲れが出てきて、お父さんが驚いた顔を見せた理由にしばらく気づかず、お母さんに言われてようやく今日のアルバイトのことを思い出した。

 メイク落としを借りて、顔を洗う。すごくめんどくさかった。鏡にいつもの私の冴えない顔が映ると、ホッとした。

 夕食の席でお父さんが「和美にはまだ化粧は早いんじゃないか」みたいなことを言い、お母さんはそれに反対して私を褒めたようだけれど、私はそれらに何も言い返す気にならず、生返事だけして食事を続けた。味はよくわからなかった。


 なんであの瞬間を目撃するタイミングで会いに行ってしまったんだろう。私は運が悪すぎるのだろうか。これって、私にこの恋をあきらめろという神様の啓示なのだろうか。

 ……いや、わかってるよ。そんな問題じゃないって。私なんか人を好きになったところで両想いになんかならないって。ブスだし、卑屈だし。ちょっとメイクしてもらっただけで浮かれてしまうし。……ああっ、連鎖反応で、告白したときの後悔の気持ちもぶり返してきた。


 でも、ね。


 彼との距離が近づかなかったら、彼のアトリエを知ることもなかった。会いに行こうと思わなかった。

 恋愛漫画を読んでいると、時々、なんでこんなに都合のいい(悪い)偶然が起こるの、と突っ込みたくなる場面に出くわす。でも、ただの偶然じゃないんだ。近づけば近づくほど、見えやすくなる。偶然の中に必然が混じるようになる。お母さんとお父さんのように結婚していつも一緒になったら、偶然に出くわす確率が100%になる。いいものも悪いものも全て見せ合うことになる。ときどきケンカするけど、一緒にいたいという気持ちの方が遥かに強いから別れることがない。

 あの場面は、私が彼に近づいた証でもある、などと解釈するのは強引だろうか。うん、強引だ。でも、そう思い込もうとしているのは、まだ彼を好きでいたいから。

 でも、しばらくファンデーションは付けたくない。あの匂いは、あの場面を否応なしに思い出す。

 ベッドの上で身体を丸くしながら、自虐や自己弁護や自賛やらを繰り返した。幸いにも疲れていたせいで、不毛な思考ループは少なめで済んだ。



 そんなループも、日が昇っては沈んでいくという巨大なループに紛れるうちに少しずつ小さくなっていく。

 今週、彼は一度も美術部に来なかったので目を合わせずに済んだ(そのくせ、朝、彼の教室の前を通るときにその姿を一目確認していたことはさておくとしよう)。尤も、それは彼に限ったことではなく、文化祭という一大イベントが終わった美術部は、全体的に気が抜けて、出てくる人も少なく、来たとしてもおしゃべりで時間をつぶしていたりという状態だったからだ。毎日来ていたのは野村さんだけだった。

 今日は、前から予定していた、美術部の皆で展覧会を見に行く日だが、気は重くない。程良く頭が冷えたようだ。

 以前私は、何でも恋愛に結びつけてしまう思考が大嫌いだったけれど、最近の私はまさにそこにハマっていたところがある。美術部で活動するときには彼を意識しすぎていた。だけど私は元々絵を描くことが好きだから美術部に入ったんだ。

 今日は沢山の芸術作品を見て、原点に立ち返ろう。

 例え、ただの自己満足の強がりだとしても、ね。



 「桑苑現代美術展」は日本で現在活躍中の芸術家たちの作品が展示されているが、ポスターの中心にその絵が印刷されていることからもわかるように、小川清明の作品が少し多めに展示されている。

 事前に少し調べたのだけれど、小川清明さんはこの展覧会で参加しているアーティストの中では最年長で、おじいさんと言ってもいい年齢だ。それでも「現代」美術展に作品を寄せたのは、彼が時代と共に作風を変化させて、常に一定の評価を得てきたからだろう。そんな彼を商業主義だと批判する声もある。けれど、たとえそうでも多くの人を感動させたことには違いない。中学のとき彼の作品に触れた私もその一人だ。


「ふむ、詳しいな、関根」

 野村さんが感心しながら微笑む。

「いえ、前に上野で見たときのパンフレットの内容の受け売りですけどね」

「それでも、関心がなければ覚えられないだろう。いい予習をしている」

 美術館前に集まった私たちは、入場してからしばらくすると、他のお客さんの迷惑にならないように少人数のグループに自然と分かれた。特に意識しないまま、私は野村先輩と二人になり、美術部の最後尾をゆっくりと歩いていた。

「興味深い話だな。嘴本みたいなことを言う」

「えっ」

 小川清明のポリシーについて、私自身が絵を鑑賞するときに考えていることと比較して伝えると、野村さんはそんなことを言った。

「前に嘴本に創作について話をしていたときに、同じようなことを言ってたな」

「そ、そうなんですか」

 ちらりと、先の方でセナちゃんと肩を並べている彼の方を見てしまう。彼は絵を指さしながらセナちゃんに何かを教えている様子だった。同い年なのに背の高さにすごく差があって、年の離れた兄妹みたい。別に嫉妬してません。

「いい勉強になる」

「え、そんな」

 私は胸の前で手を振って、畏れ多いという意を示した。

「いや、私には美術的センスがないから他人の美術への感じ方や考え方を聞いて学習するしかない」

「ええっ、何を言うんですか?」

 それは謙遜しすぎです。

 美術部のメンバーの中では、薫くんは別格とすれば、一番巧い絵を描くのは野村さんだ。それは私だけの感性ではなく、出品した展覧会で幾つも賞をもらっていることからも証明されている。

 そういうことを告げたが野村さんは首を横に振った。

「私がやっているのは、先人の作品の技法の模倣にすぎない。何故、ここでその技法を使うのか、ということが理解できない。模倣して同じように筆を動かせば何か見えてくるのかも知れないかと描き続けているが、いまだその領域には達していない」

「……」

 難しいことを考えてらっしゃる。

「文化祭展示の関根の絵はよかったな。寒色系の色を使いながら寒々しくない河川の流れ。ああいうのをセンスというのだろう?」

「え、えっと……」

 賞賛が身に余りすぎて答えることができず口篭ると。野村さんは「困らせたか」と苦笑いした。

「関根、ちょっと私はお花摘みに行ってくるから待っててくれるか?」

「あ、はい」

 その間私は、展示室の中央にある背もたれのない長椅子に腰掛け、とある絵を低い位置から眺めて待った。


「関根くん」


 わ、と声こそ挙げなかったけれど、その口の形で息を吐いてしまった。先を歩いていた筈なのにいつの間に。

 彼は私と同じ長椅子の隣に、でも背を反対方向に向けて座ったので、目の端にも彼の顔は映らなかった。


「は、い?」

「この前君が見た僕のこと、誰にも言わないで欲しい」

 思いのほか直接的に言ってきた。そしていつもの自信に溢れた彼らしからぬ切実さが声に含まれていた。

「……」

「あれは僕のアキレス腱だ」

「……いいけど、どういうことなのか教えてくれない?」

 声が震えそうになったが、何とか普通に発音できた。

「言えない。言えないけど、言わないで欲しい。頼むよ」

 念を押されて、ギッと胸が痛み、負の感情を吐き出したい衝動が湧き上がる。

「それは私に対するぶじゃ、侮辱だよ」

 ああもう、間違えた。侮辱なんて言葉、普段使わないもん。薫くんの真似なんてするんじゃなかった。

「私が薫くんの嫌がることするわけないじゃない。私の気持ち、知ってるのに」

「……そうだったね、ごめん」

 そう言って彼は立ち上がりざまに、私の二の腕を撫でる程度に優しく叩いた。

 やめてよ、せっかく冷めかけてたのに。

 だけど、薫くんが私の好意を見越して黙っていると確信されていたら、それはそれで嫌だった。

 彼はもう行ってしまった。トテトテとセナちゃんが早足で近づいていくのが見えた。

 セナちゃんが笑っているのだから、薫くんも笑っているのだろう。弱気を見せている彼はもう居なかった。



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