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第二十九話・口紅

 私たちはファミリーレストランに入り、軽い昼食を採った。


「近いうちに日本に支社を作る予定なのよ」

 食後のコーヒーを飲みながら、蓬田さんは私のアルバイトの意義について話をしてくれた。

「会社を興すときは向こうのほうがやり易かったからアメリカに渡ったけど、やっぱり日本で認められたいからね」

 それで日本での商品展開のために、日本人の女の子である私をモデルにしたということだ。

「そう、それにデザイナーも、日本向けに増員したいから、嘴本君にも声を掛けているわけ。彼はデザイナーとしての経験は浅いけど、これからまだまだ伸びる才能を持っていると踏んでいるわ。和美ちゃんが彼と交流があったとは知らなかったわ」

 そう言って私を見る。

「あのっ、でも私、嘴本くんの仕事について口を挟めるほど親しい訳じゃないですよ? 同じ美術部だっていうだけで」

 何も聞かれないうちに、自分から、親しくない、なんて言ってしまう。ちょっと痛い。

「そう?」

 その窺うような目は、私の心の中にまで向いていそうに見えて、私は目を逸らした。

 すると、河上さんが、社長、と何かを促すように声を掛ける。

「そうね、時間もあまりゆっくりしてられないし。ねえ、ちょっと和美ちゃん」

「はい?」

「ついでにリップも塗りましょ」

「え」

 蓬田さんはハンドバッグから口紅を取り出して、それを指につけた。

「『え』じゃなくて和美ちゃん、『え゛ー』って言って」

 言うとおりに口を半開きにした私に指を近づけると、それで唇を横になぞった。

「うん、よし」

 唇のふちをポケットティッシュでぬぐわれる。

 河上さんとテイラーさんも私を見てにっこりと頷いた。

 渡された小さな鏡を覗くと、私の顔全体が映らなかったせいか、その唇は妙に艶やかに見えた。

「それじゃ、スタジオへ戻りましょう」



 鏡を見ながらいくつもの衣装に着替えていると、前に彼と待ち合わせたときに、着ていく服で悩んだことを思い出す。

 自分の容姿に自信がないから、綺麗な服を着てもそれに押しつぶされそうになっていた。だけど今は、ちょっとだけ綺麗にしてもらって、そのぶん、似合う服も増えた、ような気がする。いま、いろいろな服が着られるのが嬉しい。

 新しいワインは新しい皮袋に、ってね。うん。


 ――会いたいな。


 昼食後は緊張が解けてきたけれど、今度は反対に疲れが出てきてしまった。それでもコーデの楽しさで気を紛らわして32番目の撮影も無事終わった。

「お疲れさま。今日はありがとう」

「はい、ありがとうございました」

「それじゃ、リカ、メイク落として……ああ、メイク直してあげて」

「え」

「お化粧して綺麗になったところ、お母さんとお父さんに見せてびっくりさせてやりなさい」

 ふふふ、と笑う。私は顔が火照るのを感じたが、拒否しようとは全く思わなかった。正直、見せびらかしたいという気持ちは、私の中にもあった。

 河上さんに今日のねぎらいの言葉を受けつつ、されるがままにまた顔をなでられる。ちょっとめんどくさいな、と思ったのは私のおしゃれに対する自覚が少ないからかもしれない。それが終わった頃、蓬田さんが近づいてきて私に白い封筒を差し出した。

「それじゃ、今日のアルバイト代。プロの子じゃないからちょっと少ないけどね」

「いえ、そんな。ありがとうございます」

 すぐに中を確かめてみたかったが、お行儀が悪いのでぐっとこらえる。

「駅に戻る道はわかる?」

「あ、はい、大丈夫です」

「そう。こっちは片付けがあるから……一人で帰れる?」

「はい、今日は本当にありがとうございました」


 そう言って3人に頭を下げて別れの挨拶をする。初対面だったけど、河上さんやテイラーさんと同じ時間を長く過ごしたために、前々からの知り合いのように砕けた態度で接することが出来た。

 エレベーターを降りると、ビルとビルの間の狭い路地に滑り込んで、封筒の中身を覗く。……15000円。確かに疲れたけど半日楽しませてもらってこんなにもらえることに驚いた。うちの近くのコンビニのアルバイトの時給を思い出して計算するが、それよりはるかに高いお給料だ。これだけあったら、携帯電話買えるだろうか。値段はよくわからないけど、このお金があれば、買ってもいいかとお母さんに聞けるだろう。

 駅まで戻り、定期が使えるところまでの切符を買おうとして路線図を見上げ、頭の中に選択肢が浮かぶ。


 ――会いたい。


 彼は文化祭の後は、自分のために創作したいと言っていたから、あのアトリエにいる可能性は高い。

 メイクしてもらって増長していることは、自分でもわかっている。でも、やっぱり彼に見てほしい。

 置き忘れていった私の帽子を取りに行く、という口実がある。


 ――会いたいよ。


 自動販売機に硬貨を入れながら、ドドドド、と心臓が鳴るのを感じる。その鼓動は、電車に乗って、帰り道と違う方向へ向かうに従って、振動周期が短くなっていった。電車の窓に映る唇の紅さを見て、私は自分を勇気づけた。

 秋も深まり、太陽が沈む時間もだいぶん早くなっている。その低い光に追われるように、いつもの駅から彼のアトリエに向かう足も速くなっていった。臆病風が何度も私を遮ろうと囁く。でも、とうとう私はアトリエが見える場所へと角を曲がった。

 すると、前からタクシーが向かってきたので私は避けるために道路の端に寄った。ところがそのタクシーはアトリエの前で停まる。アトリエに来たお客さんだろうか。だとしたら、邪魔は出来ない。やっぱり戻ろうか。でも、ここまで来たのに。いや、タクシーには運転手さん以外乗っていないので、既にアトリエに来たお客さんを送るものだろう。だったら、ちょっと待てば。

 私がオロオロとしていると、物音が聞こえて、アトリエのドアが開いた。私はつい、反射的に角に身を隠してしまう。そしてそこからアトリエ前の様子を窺う。これじゃストーカーみたいだ。

 中から出てきたのは、予想通りの薫くんと……黒いサングラスをした短い髪の女の人だった。仕事関係の人だろうか……違う!

 心臓の鼓動のテンポが急激に変わった。

 女の人は、薫くんの腕に手をまわしていた。まるで、それは……みたいに。

 タクシーの後ろのドアが開き、薫くんが紳士的に手を添えて彼女を乗せる。彼女の服装はいいセンスとは言えないが華やかなもので、あまり仕事中に着るものには見えない。顔の半分はサングラスに隠れているので、年齢はよくわからないが低く見積もっても二十代後半というところだろう。どういう関係の人なのか。

 女の人が、何か薫くんに話しかける。何か言っているのは聞こえたが何を言っているのか聞き取ることはできなかった。

 薫くんは彼女の声を聞こうとするように、身を屈める。そのとき、女の人が両手を伸ばした。



 ――――!



 ガツン、と私の脳に衝撃が走った。次の瞬間、ほんの刹那ではあったが何も見えなくなった。あれは、何?

 私はその行為を知っている。少女漫画の中では無数に繰り返されてきた行為だ。私はそれを何度も見て、さまざまな感情を持った。けれど今の感情は、それらのどれとも違う。

 タクシーが行ってしまっても私は彼から目が離せなかった。ああ、私の視力ってどうなってしまったのだろう。視力検査では両方0.8の目なのに、彼の唇に移った口紅の色がやけに鮮明に見える。自分の唇に同じものがついているせいで意識しているからだろうか。


 そして、ああ、見た瞬間、逃げればよかったのに、ズルズルと見続けているから……!

 愚かな私が愚かな私を愚かだと罵る。

 私の視線を感じた彼が、こっちを向いて、今までに見たこともない表情を見せたのだ。


 何でそんな驚いた顔してるの?

 いつもは女の子とイチャイチャしてても、余裕の笑みを見せている貴方が。

 どうして、そんな、弱そうな男の子みたいな顔をしているの?


 私は、彼を好きになってから初めて、彼をカッコよくない、と思った。


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