第二十七話・買いかぶり
視界に入った彼の顔に、胸から頭へと鈍い衝撃がキュッと走った。その表情、見覚えがある。共同製作の題材を決める会議のとき。笑顔の中に陰りを宿したあの顔。
どうしたんだろう。何か変なところがあるのかな。……知りたい。でも、今の私じゃ、声を掛けるのに、以前以上の勇気が必要になっちゃう。誰か、誰か訊いて。
美術部の共同製作は、文化祭を明日に控えて、夕日が沈む前に完成した。
誰かが拍手を始めて、それが拡がり、つられて私も拍手をしながら、作品と完成を喜ぶみんなを見渡した。
美術室の中央に共同製作が配置され、その周りに各々の個人展示が並ぶ。共同製作は、過去の町と現在の町を表現した絵と紙細工とを立体的に並べて、時代による変化を感じさせる演出だ。
地元出身ではない私でもそう感じる、満足な出来だった。けれど、薫くんはそう思っていないようだった。
共同製作で黙って作業する薫くんの態度を、私は好意的に解釈していたけれど、彼の表情を見てしまうと、嫌な想像がもやもやと沸いてくる。
誰か訊いてよ、と身勝手に他人任せの願いを思っていたが、その望みは叶わないまま、牧瀬さんの解散宣言が発せられた。この後は帰宅するかクラス展示を手伝うかだ。
とりあえず、手を洗ってこよう。
私はポスターカラーで汚れた手を洗うために美術室を出て、トイレの出口わきの水飲み場へと向かった。
美術部の共同製作の完成で心に区切りが付き、どっと疲れが出たので出来れば帰りたい。でも、クラス展示の方で頑張っている人達を残していくのにも罪悪感を覚える。
そんな葛藤を抱えながら濡れた手を拭き、ふいっと顔を上げたとき、眼前の鏡に映った像に、私はひゃ、と変な声を上げてしまった。
「何でそんなに驚くんだい?」
そう苦笑いしたのは鏡に映った薫くんだった。
手洗い場は男女のトイレのわきにそれぞれあって、短い廊下を挟んで向かい合っている。私たちは合わせ鏡ごしに目が合ったのだ。くるりと振り返って、ごめん、と謝る。
「ちょっと、怖い顔をしてたから」
「怖い? そんなに怖い顔をしてたかい?」
鏡の中の彼の顔は、美術室でのそれよりも明確にしかめられた表情だった。
「う、うん……」
彼の笑顔にとまどいながら曖昧に頷く。
「そう……そんな顔をしていたんだ。ボクが」
自分の顔に手を当てて、頬をつぶす仕草をする薫くん。私はこの機会を活かすべく、言葉を続けた。結局自分が訊かなきゃダメか。
「もしかして、共同製作に何か気に入らないところがあったの?」
口にした直後に、問いを間違えていないか、不安になってしまう。
「うん? そう見えたかい?」
問いに問いで返されて怖じ気付く。
廊下はクラス展示の準備をする人の行き来が多かったが、美術室がある2階は、2年生の教室がある階なので、幸いにも学年の違う私たちに特に注目する人はいなかった。
「もし、私が無理言ったせいで、」
「それはボクに対する侮辱だよ。関根くん」
「!」
遮るその声は穏やかだったから、怒ってはいないようだけど「侮辱」という単語が強く響いて私は口を閉じた。
「確かにボクは君がきっかけとなって美術部に戻り、共同製作に携わることにした。だけどね、それを決めたこと自体はボクの意志だ」
「……」
「ボクは君の意見に納得して、それをボクの心に取り込んだ。今でもそれは変わらない。いい加減な気持ちで君に惑わされて、納得したつもりになっただけではないよ」
「……」
婉曲的な言い方で意味を把握しきれないけれど、私をフォローしているようでもあり、自分の行動は自分の責任だという矜持のようでもある。私が意味を解釈するために沈黙しながら懸命に思考を巡らせていると、今度は優しい声で私を呼んだ。
「関根くん」
「ん、うん?」
「『新しいぶどう酒は新しい皮袋に』」
「え?」
「それが君の問いに対する答えだよ」
「それは、どういう……」
「君にならわかるんじゃないかな。……さて、今日はボクはもう帰るよ。さすがに疲れた。しばらくはアトリエで自分のためだけに作品を創りたいね」
軽く手を振って去っていく。
私にならわかる、だなんて言われたせいで、重ねて問うことが出来なかった。買いかぶりだよ、と思っても買いかぶられて喜んでいる自分もいて、どうにもこうにも胸がくすぐったかった。
私は階段を上ってクラスへ戻り、タマちゃんたちがいる辺りに近づいて行く。タマちゃんは、美術部の方はいいの、と尋ねてきたので、うん終わった、と答えた。静香ちゃんと紀子ちゃんは紙束を持った青野くんから何やら指示を受けている。彼はクラスで一番頭のいい男子なので、よくクラスのみんなから頼られていて、文化祭実行委員でもないのに、精力的に働いている。そんな姿を見て、私も彼に一つ頼ることにした。
「ね、青野君」
私が彼に話しかけると、青野君だけでなく、二人ともどうしたの、という顔で私を見つめた。
「はい、何でしょう?」
他の男子と比べて話しかけやすいのは、青野君が優しい人だからというのもあるし、女子の中では静香ちゃんと特に親しくしているからというのもある。
「青野君は『新しいぶどう酒は新しい皮袋に』って言葉知ってる?」
「何それ、クイズ?」と聞き返したのは静香ちゃん。
「あ、ううん。そういうことを言った人がいるからどういう意味かなと思って」
「それは……新約聖書の言葉ですね」と青野君が答えてくれた。
「聖書……キリスト教?」
「そうです。『新しいぶどう酒を古い皮袋に入れる者はいない』とも書かれていますね。新しい教えを受け入れるためには、それを受け入れる人間の側も考え方を新しくしていかねばならない、古い考えに固執してはいけない、というような意味です。それをワインと皮袋に喩えたんですね」
「……そうなんだ。ありがとう」
すると、薫くんの言っていたことはどう解釈すればいいだろう。共同製作の意義が新しいぶどう酒とすると、皮袋は、私たち……もうちょっと厳密に考えるなら、薫くん自身のことか、私のことか、それとも他の美術部のみんなのことか。いずれにせよ、それを古い皮袋とみなしたから、薫くんは完成した作品に不満がある、ということなのだろうか。
静香ちゃんは青野君に、すごいねぇとか言いながら会話を続けている。
私は、みんなで協力して物を作り上げることの意味をもう少し考えたくなって、タマちゃんたちの担当部分を手伝うことにし、あまり遅くならない時間まで教室に残った。