第二十五話・偶然だとしても
だけど、お父さんが怒鳴ったのは私のせいじゃなかった。大声で竦んでしまったが、耳に入った言葉は私の帰りが遅くなったことを咎めるものではなかった。お父さんは私に気づき、気まずそうな顔をすると肩を落とし、おかえりと呟いて居間を出ていった。お母さんもすぐそばにいたが、目の周りが赤くなって涙が滲んでいた。
お父さんが廊下を歩いていく音と、寝室の戸を開けて閉める音が聞こえた。
「おかえり。文化祭の準備?」
声が少しやつれている。
「うん、今日から遅くなることを言っておくの忘れてた」
「ごはん、温めるわね」
「うん。ねえ、お父さん、どうしたの?」
「……うん、さっきね、蓬田さんから電話があったのよ。やっぱり和美にモデルをお願いできないかって」
「えっ、それって断ったんでしょ?」
「うん。だけど、なんだか本物のモデルの人が都合が悪くなってしまったから、緊急でお願いできないか、って頼んできたの。ほら、本社はアメリカだから、日本のモデル事務所にそんなにコネがないのよ。だけどそこで、話を聞いてた大助が出てきて、こじれちゃって」
「……でも、なんであんなに怒ってたの? いくら仲が悪いって言ったって……」
「大助だって、心底蓬田さん……美佳を嫌っているわけじゃないのよ」
電子レンジの温めが終わる音が鳴り、お膳の上に私の分の夕食が並ぶ。
「大助は、私に服飾デザイナーの道をあきらめさせてしまったんだって、ずっと悩んでいたの。今でもね。だから美佳と会うたびに、つい感情的になってしまうのよ」
お父さんは昔、夢に破れて挫折した経験があるという。夢を見ること、夢を叶えようとすることを何よりも大切にしてきたから、お母さんの夢もまた同様に大切だったのだろう。お母さんが側にいてくれることを選んだのは嬉しかった筈だ。なのに、相反する感情をずっと抱えてきたのだ。
「和美にモデルの話を持ちかけたのを、当てつけのつもりだと思ってしまったのも無理ないかも知れない」
「それは……そんなことはないでしょ?」
私はお父さんと蓬田さんとなら、お父さん側の人間だが、それについては言い掛かりだと思う。
「そうね。大助だって頭では分かってる。でも、どうにもならない気持ちだってあるのよ」
「うん。……だけど、お父さんがお母さんを怒鳴りつけるのはダメだと思う」
そう言うと、お母さんは、ふっ、と苦笑いした。
「美佳が時々私に新作のデザインについて意見を求めてくるのも、ホントは嫌なんだろうね」
「お母さんは、悪くない、よ。お母さんにとっては、お父さんも蓬田さんもどっちも大切に思っているだけでしょ?」
あれ、なんか恥ずかしいこと言ってるかな、私? なんだか胸の中に、普段あまり感じない名状しがたい想いが渦巻いている。それにしても、最近私は蓬田さんにマイナスの感情を持っていた筈なのに、お母さんの親友であることを思い出すと、その気持ちが和らいでいた。
「ありがと、和美」と、こんどは優しく笑った。
次の日の朝、私が起きて降りていくと、珍しくお父さんも先に起きて食卓についていた。おはよう、と言い合って昨日の気分を晴らす。そう言えば早く寝たんだから早く起きるのも当然か。
「和美、ゆうべは済まなかったな」
「ああ、うん」
「つい怒鳴ってしまったけど、和美を悪く言うつもりじゃなかったんだ」
「え? 悪く、って」
「『和美なんかにモデルが出来るわけないだろ』ってのは、和美が人前で緊張するタチだから言ったんであって和美に……」と、言葉を濁す。
「あ、そんなこと言ったんだ。それ、聞いてなかった」
「え、あ、しまった。じゃあ、言わなきゃよかった。悪い」
お父さんが頭に手をやり顔を顰めて笑う。私は、いいよ、と手を横に振った。
なるほど、私にモデルは向いてない⇒だけど蓬田さんはモデルに誘った⇒何か他に考えがあるに違いない⇒当てつけ、という思考順序か。
私は、蓬田さんに誘われたのはほんの偶然がきっかけだということを説明してお父さんを納得させた。
お父さんはお母さんとももう普通に話している。ずっと悩んできたとは言え、私が生まれる前からの付き合いなのだ。ちょっとやそっとの衝突なんてあったって壊れるような関係じゃないんだ。
文化祭の準備の忙しさが、私の心を助けてくれた。彼と正面切って顔を合わせることは出来なくとも(昨日はどさくさにまぎれた感じだし)、美術部の活動として、展示物の一部を手渡しながら一言声を掛けることぐらいは出来た。多分だけど、薫くんは共同製作についてはわざとあまり口を出さない。その代わりに単なる雑用を引き受けてくれているようだった。
私も仕事と割り切って頑張ろう、そう思っていたら時計を見るのを忘れてしまった。
「関根、電車の時間、大丈夫か?」
「あっ」
牧瀬さんに声を掛けられたとき、乗ろうと思っていた電車の時間を過ぎてしまっていた。この後の電車でも帰ることは出来るが、乗り換え云々もあって家につくのはかなり遅くなってしまう。
「ええ、えっと、大丈夫です」
「何だったら健太郎の車に乗せてってもらうか?」
「車?」
「あいつ免許持ってるんだよ。家も近いし、言えばすぐ出せる」
「え、でも悪いですよ、星見さんに」
「健太郎! どうだ?」
「俺はいつでも」
と、すぐ返事が返ってくる。
「いえ、ホントに、悪いですから」
「こんな時間じゃ、駅から家までの道を歩かせるのも危ないだろう。ご両親にも心配かけさせるわけにはいかないじゃないか。遠慮しないで乗れ」
「う……」
そう言われると、強く断れなかった。お願いします、と頭を下げると、星見さんはすぐさま美術室を出て、しばらくすると牧瀬さんの携帯電話が鳴った。車で学校に来た合図だった。みんなに挨拶をして、生徒玄関に向かう。星見さんが手を振っていたので、そちらへ駆け寄った。
「吉祥寺駅までなら道は分かる。その先は関根がナビしてくれ」
「はい」
助手席に座ってシートベルトを締める。
星見さんは夜の道路を発進した。わたしはもちろんのこと、星見さんも口数の多いほうじゃなかったので、車内は会話と沈黙が交互に繰り返された。器用にギアを動かす星見さんの大きな手を格好いいと思って時々眺めた。
「関根」
「はい」
「今週末の文化祭で3年の活動はだいたい終わって美術部を引退する。後は、あー、みんなで美術館に行くくらいか」
「ああ、そうですね」
「それでだ、関根、お前、美術部の次期副部長やってくれないか」
「……え、ええっ?」
今まで当たり障りのない話をしていたので、その話にドドッ、と心臓が波打つ。
「野村にも、あいつ(牧瀬部長のことだろう)が次期部長を打診している。多分引き受けてくれると思うが」
野村さんなら、部長に相応しいだろう。落ち着いた物腰で真面目な人だから。でも。
「あ、あの、私、無理ですよ、そんな、私」
「無理だと思わないから頼むんだ」
「どうして私に」
動悸が止まらない。
「関根は1年の中で一番真面目に美術部に出席しているし、製作もよくやっている」
「……」
「2年は野村以外なら永山がいるが、あいつは漫画の方と兼業しているし、そっち寄りの活動で結構休むから駄目だ」
それは分かるけど、でも私なんて。
「それにな、何より俺は、今回のことに少なからずお前に感心している」
「今回のことって、え、え?」
「関根は普段おとなしいほうだが、ここぞというときにちゃんと動いてくれる。嘴本を引き留めてくれたこと、感謝している」
「!!」
彼の名前を挙げられて、一気に血が顔に上った。車内のランプはそんなに明るくないから、フロントガラスに映る私の顔色には変化は伺えなかったけど。
でも、どういうことだろう。どうして星見さんが知っているのだろう。そしてどこまで知っているのだろう。
「あ、あの」
「嘴本が、あの天才野郎が俺のところに頭を下げに来たんだ。美術部に戻ります、ってな。そして関根に説得されたからだ、って」
嘘……!?
「正直、あの時は俺自身のふがいなさに腹が立った。嘴本の言い分にカッとなって攻撃的な口を利いてしまったからな。関根のやったことは本来なら俺がやるべきことだった」
……だけど、あれは、部のためというより、私個人のために必死になってたからであって。
「嘴本、褒めてたぞ。関根のこと。共同作業に新しい世界があると気づかせてくれた、とかそんな意味のことを言ってた」
どどどどうしよう。喜びと痛みとが同時に私を襲う。
「美術関連抜きでも、俺はお前を副部長にしたいと思ったのはそんな理由だ。……いや、わかってる。関根は人前で喋るのとかそういうのは苦手なタイプだってことはな」
「……」
「分からないことがあったら野村に聞け。そしてあいつの部長としての行動をよく見ておけ。最初はただくっついて歩いているだけでもいい」
「そんな」
「まあ、一人になったらまた落ち着いて考えてみてくれ。そろそろ駅につくから、道順を教えてくれ」
「はい……」
時計を見ると、電車通学の時の60%くらいの時間だった。こんなに時間を節約できるのかと驚きつつ、誘導する。
家に着くと、星見さんも車を降りて、ドアチャイムを押した。出てきたお母さんに頭を下げ、遅くなって申し訳ありません云々とお詫びの口上を述べた。こういう挨拶をちゃんとするところが立派なところだと感じる。私も見習って、星見さんが車に戻るとき、ありがとうございますと深く頭を下げた。
お母さんがお父さんのいないところで「和美の大切な人ってあの男の子?」と尋ねてきたので慌てて否定した。ちょっと失礼な否定の仕方だったかもしれない。