第二十三話・最悪の幸運
薫くんのアトリエは、住宅街の中にぽつんとある何かのお店のような、白い外壁の2階建てのビルだった。それにしても、これを彼のための作業場として建ててしまうご両親も凄い。どんな仕事をしている方なのだろうか。65歳にしてバイクを乗り回す、彼のお父さんの姿を思い出した。がっしりした体型だけれど、顔つきは知的で学校の先生みたいだった。
「ようこそ、ボクのアトリエへ」
薫くんは入り口のドアを開けると、そのまま中には入らず、その場でドアを押さえて微笑みを浮かべ、優雅な仕草で私を招いた。そんなことをされるだけでドキドキとした。
「お、おじゃまします」
家――正確には家じゃないけど、そこから絵の具や粘土の匂いが混ざり合った空気が鼻孔に飛び込んでくる。私たちにはお馴染みの匂いだ。
彼の空間に入るのは、みねこ先輩の時よりもずっと緊張して、自分の装いがいつも以上に気になる。前回よりも考える時間があったので、服装は今日のために選んで買ってきたものだ。白黒のストライプのシャツにモカのジャケットを羽織って黒のケミカルパンツ。帽子は前回と同じ。うん、恥ずかしい格好ではない筈だ。靴を脱いで足を踏み入れる。
玄関を入ってすぐの部屋は、作業場所ではないようだ。フローリングの床で、部屋の隅にはパソコンとバインダーが置かれた机がある。中央にはガラスのテーブルを挟んで二種類のソファが向かい合っていた。応接室みたいだ。テーブルの上に吸い殻の入った灰皿があって一瞬ドキッとしたけれど、この間彼に抱き寄せてもらったとき、タバコの臭いはしなかったから、あれは薫くんのものじゃない。彼のお父さんか、仕事関係の人のものだろう。
床は綺麗に掃除されていたが、数カ所絵の具の垂れた跡も見つけた。
「嘴本くんが実際に絵を描いているのはあっち?」
私は部屋の、机がある場所とは反対側の隅にあるドアを指さす。
「そっちは倉庫だよ。ボクの作業場所は上」
そう言って薫くんは天井を指さした。
「あ、2階なんだ」
彼は私に付いてくるように促し、奥のドアを開けた。美術品の匂いが途端に濃くなる。それを送り込んだ冷たい空気に一瞬息が止まった。
「わ、」
ドアの先の光景に少しばかり驚かされ、私は歓声を漏らす。クリーム色の壁に、高い天井。この倉庫は、こちら側のような1階と2階を隔てる仕切がなく、ひとまとめの空間になっている。そしてその壁に大小幾多のキャンバスが掛けられ、それら以外にも部屋中に諸々の美術作品がもたれるように並んでいた。
「すごい……」
しばし見とれてぼうっとしていると、
「足下に気をつけて」
と注意される。
見ると、私たちの立っている場所は半畳ほどのカーペットが敷かれた床で、すぐ先はむき出しのコンクリートだった。そこは踏まれた絵の具の跡などで汚れていた。サンダルがすぐそこにあったところを見ても、この倉庫は土足で立つ場所なのだろう。壁の一方ではシャッターが閉じている。
「さあ、こっちだよ」
その狭いカーペットの床から、こちら側の壁に沿って階段が上へ延びていた。その先は2階への入り口であろうドアになっている。階段を上りながら作品を見るのもまた雰囲気が変わって面白かった。
薫くんが2階のドアを開け、私をカオティックな暖色系に彩られた部屋へと通してくれる。ここが彼の作業場所なんだ。広さはうちのお店(床屋)と同じ18畳くらい、壁には作業机と画材を置く棚が並んでいる。学校の美術室よりも充実していそうだ。
ここにもいくつもの作品が並んでいたが、倉庫と違うのは作りかけの作品があるところだろう。部屋の中央にはイーゼルが建てられており、そこに今日、私がここにいる理由である絵が描かれたパネルが鎮座していた。生涯で一番集中して手を入れた絵だけに、目が離せない。
「ねえ、嘴本くん」
「ん?」
「今日まで、完成させないで待っててくれたの?」
少し、尋ねる声が震えてしまった。
「ボクの初めての合作だ。完成させるときは二人で一緒のほうがいいだろう?」
「……うん」
彼は私に頷き返し、絵に向き直る。スッ、とその瞳が真剣になり、芸術家の顔になる。そしてイーゼルの横に準備していた絵筆を手にし、一気に花の絵を完成させた。驚くことに、私が覚えていた違和感は彼の手の動きと共に霧のように消えてしまった。それを見つめる私は息をつくのを忘れてしまった。
テレビ番組の一シーンみたいに、効果音が鳴るわけでもない静かな完成。彼が振り返り、私は思わず微笑み返してしまう。あはは、何だろう、この状況。
彼が場所を空けてくれたので私はその絵をよく見せてもらうために近づく。すると、ふわっと頭が軽くなったような気がして、驚いてそこに手をやる。帽子を彼に取られてしまった。
「つばが危ないよ」
「あ、ご、ごめんなさい」
また同じ過ちを繰り返しそうになる恥ずかしさもあったが、それよりも、彼に身につけているものを脱がされたという事実が、私の顔を紅潮させた。でもそのおかげで、絵がよりいっそう輝いて見えた。
今の気持ちは、生涯忘れたくないと思った。
「不思議」と、つぶやく。
「不思議?」
「うん、だって、私、もともと嘴本くんに迷惑かけたことから始まったことなのに、こうして嘴本くんから完成を披露してもらえるなんて」
「ああ、そうかもね。ボクもついこの間まで美術部には拘るつもりなどなかったのに、もう少しいてもいいと思うようになった」
「……!」
私は上手く言葉を発することができなかった。彼は、下で紅茶を振舞うよ、と言った。
「今日は、呼んでくれてありがとう」
階段を下りながら感謝の気持ちを詰め込んだ言葉を伝える。
「どういたしまして」
階段は急なので彼は振り返って答えなかったけれど、彼の微笑が見えた気がした。
「そこのソファに座ってて」
「うん、あ、お茶……いいの?」
男の子にお茶を淹れさせるのにちょっと抵抗を感じたのは、私の育った家庭環境のせいだ。
いいよ、と笑って彼はケトルのある流しの方へ向かう。私は待つ間、すぐには座らず、応接室にも飾られている作品を眺める。
「ここにあるのも嘴本くんが作ったの?」
「そうだよ」
そして私は一体の裸婦像を見とめ、ふとその意味を意識してしまう。やっぱりこれはモデルさんがいて作ったものなのだろうか。……薫くんは他の男子とは違う。見学旅行先で裸婦像を見つけただけでギャーギャー騒ぐようなバカな男子とは違う。これは芸術のためだ。そういう目で見ているわけではない。でも、モデルについて質問するのは(とても興味があるけど)恥ずかしくて出来なかった。 私は、落ち着くためにソファに腰を落とす。ところが、その途端、空間がぐるり、と回った。
「きゃあっ」
視線の先が天井になる。間抜けにも私はソファの柔らかさを見誤って後ろに倒れてしまったのだ。しかも変に斜めに座ったものだから背もたれで止められることもなくソファに全身を横たえてしまった。
彼の笑い声が聞こえた。恥ずかしい。今日は自分のベストの状態の姿を見せたかったのに。でもスカートじゃなくてよかった。
「ほら、大丈夫かい?」
寝そべった私の視界に、彼の顔が入ってきた。
ああ、どうして。
こんなときにこういうシチュエーションになっちゃったんだろう。
寝そべりながら誰かと顔を合わせるなんて、普通、ごく親しい間柄でだけだし。
恥を掻いたせいで緊張感がどこかへ飛んでいってしまったし。
勇気なんて、必要なくなって。
彼が私の身を起こすために伸ばした手を取った私は彼の目を見つめて、
「すき」
って言っちゃった。
でも、身を起こした私は正気に戻って、自分がどんなに早まったことをしてしまったかと気づいた。
だって彼が微笑みながらも眉が困ってる。
「ボクを好きになっちゃいけないよ」
ああ、と思う間もなく、彼はそっと手を離し、私の手から急速に熱が失われる。
「ボクの美はみんなのものだ」
そんな言い回しをしたけれど、分かってる。私なんかが、恋愛対象になるわけないって。分かってたのに。
どうしてあんなに自然に告白できたんだろう。そんな幸運なんていらなかった。
体内を巡る血液のスピードが速くなりすぎて、身体が揺れているような気がする。
「罪なボクを許してくれ。紅茶を飲んで落ち着こう」
そんな彼の言葉の向こうで、ケトルが蒸気を吐き出す音が聞こえる。
でも無理みたい。私の胸の中では熱いものがさっきから膨れ上がっていて、きっと紅茶なんて入らないから。