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第二十二話・自分のために頑張る

 ほわほわとした気分の中で、私は今日の彼との会話を思い出しつつ、もっと上手い受け答えをすればよかったと悔やみながら歩いていた。悔やんでいたといっても、惨めな気持ちではない。また訪れる機会のときのための反省としてだ。

 例えば、だ。ちっちゃい子が歩く練習をしているのを両親がビデオ撮影していたとする。子供にとって、一生懸命歩いているのに途中で転んでしまうのは、痛くて悲しくて恥ずかしいことだ。けれど、両親にとっては上手く歩けたことも上手く歩けなかったことも全てひっくるめて、愛おしい。彼の言った事はこれに近いのではないだろうか。

 私の絵の歴史もそうだった。以前、押入れのスケッチブックをパラパラと見直していたら、その下手さが恥ずかしくて、その場で絵を手直ししてしまったことがある。でも今では後悔している。思い出のためにも、自戒するためにも、あれはそのまま残しておけばよかった。


 薫くん。そう呼んでいいのかな。

 ついさっきのことなのに夢のように遠い出来事のように感じる。

 彼との時間にうっとりとしていたいけど、でも彼に好かれるように精進していかなければならない、とも思う。もっと綺麗にならなくちゃいけない? もっと美術的センスを磨かなければいけない? 彼と肩を並べて歩くことが恥ずかしくないように。

 ほわほわと、ほわほわと、今の気分だから前向きに考えられる。

 

 ああ、そう言えば、あの絵、どうなっただろう。


 昔のことを思い出したせいだろうか。帰り道の途中の三叉路で、中学校への道を示す色褪せた矢印のついた看板が目につくと、それを引き鉄に私の気持ちは中学の美術部へと飛んだ。あの日逃げ出して、描き掛けになったままのあの絵、どうなってしまっただろう。美術準備室におきっぱなしなのだろうか、捨てられてしまったのだろうか。

 思いに釣られるようにその道を2、3歩歩み、そして足を止める。


 だめだ、やめておこう。


 すうっと胸を通り抜けた冷たい風におびえ、私は中学校に背を向けた。

 今日ぐらいは、ほわほわした気持ちのままでいたい。

 嫌なことだらけの記憶はまだ蘇らせたくない。


 ごめんね。


 私の足は進路を戻し、自宅がある商店街へと向かった。タルカムパウダーの匂いを嗅覚の目印に、自宅へと戻る。

 お父さんもお母さんも店で仕事中なのでうちには誰もいなかった。けれど自室に戻って着替えて居間に下りていくと、お母さんが居た。お客さんが少なくなってくると、時々どちらかがこうやってうちで休憩するのだ。

「ねえ、和美」

 お母さんが少し変な顔をしている。おかえりただいまを言い合った後で気づいた。

「うん?」

「今日、蓬田さんに会ったの?」


 ――――ッ!


 顔の温度が急変する。

「な、なんで? 会った、けど……?」

「さっき……ちょっと前に電話が来たのよ」

「……」

「和美にモデルのアルバイトをしてみないかって」

 何、それ……モデル?

「……い、いや、いやだ」

 呼吸が乱れ、拒絶の意を声を発するのに数秒かかり、やっと出た声も震えた。こんな子供の駄々のような過敏な反応をする自分がわからない。謎の不安感が私の心臓と肺臓をざわつかせた。

「どしたの、和美。何かあったの?」

 私はぶんぶんと首を振る。

 何だろう、何を怯えているんだろう、私。

 今日、蓬田さんの前から逃げ出したのを責められると思ってるから?

 薫くんとの予定を邪魔されて、蓬田さんを疎んだから?

 蓬田さんを通じて、お母さんにまで薫くんと一緒にいたことを知られたような気になったから?

「だって、ほら、もうすぐ文化祭で美術部も忙しいからそんなことするヒマがないし」

 咄嗟に出任せを言う。でも今日、薫くんと過ごしたことはそれと相反する。ああ、早くこの話題を打ち切りたい。

「……うん、分かった。それじゃ、私から断っておくわね」

「うん」

 ホッとして少しは頭が回るようになる。もし私が直接蓬田さんに断ろうとしたら、きっと言いくるめられて承認してしまう羽目になりそうだから、そう言ってくれたのは安心した。

 私みたいな貧相な身体でモデルなんてどう考えてもおかしいのに、そんなことお母さんだって分かってるはずなのに。今日久しぶりに私を一目見ただけの蓬田さんがそんな事を言ってきたってことは、きっと、薫くんに関係することなんだ。

 ああそうか。私は、薫くんに、蓬田さん側の人間と思われたくないんだ。

 私はぐるぐると全身をめぐる血流を鎮めるために部屋に戻り、ベッドに寝転がる。胸がざわつくときにはいつもベッドにお世話になる私だ。

 せっかくの浮ついた気持ちはすっかりしぼんでしまって私は形のないものに八つ当たりする。今日一日くらいは彼との時間の余韻を楽しみたかった。目を閉じて、今日の彼の顔を思い浮かべて気持ちを再現しようと試みる。ごろごろしてたら1割くらいは再現できた。

 夕食は私の好きなものだったけど、どうせならほわほわした気持ちで食べたかった。




 それでも一晩寝て起きたら、朝の眠気と前日の夢心地とを混同して、心も温め直される。月曜日がやってきて学校へ行けば彼に会えることに気づき、顔が緩む。近いうちに彼からまた呼ばれる。その日付を聞くのが楽しみになった。日付は英語でdate。だからどうしたって話だけど。




 それからしばらくの間、私は急く気持ちに逆らえず、美術部で文化祭の準備をしながら、ついつい何度も彼の側を狙って行ったりきたりをしてしまった。間が悪くなりそうだったら文化祭の話題で適当に言葉を紡いでごまかす。そして彼からその日付を告げられてからは、私は今まで以上に作業に熱心になった。それというのも、その日付は文化祭前の最後の日曜日だったからだ。休日と言っても、自分の割り当てぶんの作業が遅れていたら、その日も登校して間に合わせなきゃいけなくなる。そんな自分の怠惰で約束を反故に出来るわけがない。

 だけど金曜日、牧瀬部長から声をかけられてしまった。

「関根、土日出てこられるか?」

「え、土日、ですか!?」

 とっさに取り繕うことも出来ず、あからさまに嫌な顔をしてしまったことに自分でも気づいた。

「ああ、何か用事あるのか?」

「え、あの、その……」

「いや、実はな、最近敷島休んでいるだろう? ちょっと製作が間に合わないかもしれないんだ」

「あ……」

 確かに敷島さんはここ数日美術部に姿を見せていなかったが、気にしていなかった。

「関根は作業、余裕持って進めてきたみたいだからな、悪いけど、ちょっと埋め合わせを手伝って欲しかったんだが」

「……」

「いや、用事あるなら仕方が無い。家も遠いし」

「どっ、土曜なら、大丈夫です。日曜日は……すみません」

 牧瀬さんの落胆する顔を見たくなくて、私はギリギリ出来る範囲まで手伝おうと思った。

「いや、謝ることはない。頑張っているお前がわりを食うのは理不尽だからな」

「すみません」

 美術部のみんなが直前で頑張っているときに、私は自分のためだけの用事をしようとしていることにうしろめたさを感じてしまう。薫くんはフリーダムな人だから気にしないだろうけど。

 でもお願い。こればっかりは、この機会だけは逃したくない。ごめんなさい。その代わり土曜日には2日分働きます。


次回、第二十三話「最悪の幸運」

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