第二話・美術部入部
「次は、美術部の紹介です」
司会進行の人の声がマイクを通じて体育館に響いた。
わたしはクラブ紹介のプログラムから目を上げた。
やっときたか、とわたしは首をぐるりと回転させて軽く凝りをほぐす。
お願いだから、美術部はマジメな人が出てきてほしい……。
クラブ紹介は、特に男子の運動系クラブのものが笑いをとろうとしていた。周りのみんなが笑っているのを聞き、わたしはそんなもんかと思いながら見ていたが、いい加減うんざりしてきたので、美術部の番になるまでプログラムを眺めたりあるいは目を閉じて、ステージに集中するのをやめていた。
そして、ステージの上手からマイクを持った女性が登場した。
クラブ紹介が始まってからしばらく経つと1年生席はひそひそと話す声で小さくざわめいていたが、彼女の登場によってそれらが一瞬シンクロし、そして静かになった。わたしが「女性」という言葉を使ったのは、彼女が濃いグレーのスーツに身を包んで青いネクタイを締めるという女子高生らしからぬ服装をしていたからだ。確かに、これまでの紹介でも受け狙いでコスプレをしている生徒はいたけれど、このパターンは初めてだ。
背をぴんと伸ばしてその女性はステージ中央まで歩いてくる。長いストレートの髪を首のあたりで束ね、レンズが横に細長い眼鏡を掛けている。口元が目立つのは薄く口紅をつけているからだろうか。
一見したその女性の印象は……大企業のエリート社員、だった。
「1年生の皆さん、遅ればせながら、桑学高等部へようこそ。私は美術部部長の牧瀬千秋です」
3年生……だよね?
スーツを着ているからとは言え、この人がわたしとたった2学年しか違わないなんて。すごい、オトナのヒト……。
一旦言葉を区切ると部長さんは上手の方を向いてさっ、と片手を挙げた。
それを合図に制服を着た2人の女子生徒と1人の男子生徒が画材や美術部で作ったと思われる作品を持って現れ、部長さんの後ろで作業の真似事を始めた。
「美術部は自由な発想と感性を磨く場です。新しい何かを創造したい、そう思っている方々はどうぞ美術部にいらして下さい。堅苦しいことを考える必要はありません。入部はいつでも大歓迎です」
部長さんは後ろの人達に背を向けたまま再び手で合図した。美術部の人たちがばたばたと動き出す。片付けか、と思っていると次には不思議なことが起こった。
キャンバスが、イーゼルが、石膏像が、パレットが、粘土の塊が、美術部員たちの手で1箇所に寄せ集められた。
あっ……!
また1年生席のざわめきがシンクロした。
まるで手品のようだった。
集められたそれぞれが組み合わせられて、モチーフの異なる全く別の作品になったのだ。
「共同で作業すると、このようなこともできます。大勢の仲間たちでお互いの感性を高めあおうではありませんか。美術部への入部はいつでも大歓迎です」
――ひょっとして美術部って凄くレベル高い?
わたしが美術部としての活動をやめていた1年半の間に美術の世界は大きく変わっていたのだろうか。
――そう言えば以前そんなことを聞いたような、聞かなかったような?
わたしは早くも自分が部活をしている様子を頭に思い浮かべた。ピリピリとした雰囲気の中で緊張しながら絵を描くわたしの姿だった。
放課後になった。
美術室は3階。校舎の端っこにある。
わたしは緊張で上がりっぱなしの心拍数を少しでも正常値に戻す為に、呼吸を整えながらゆっくりと美術室に向かった。
――大丈夫、だよね?
中学時代、美術部に顔を出すのをやめてからは、わたしは授業以外では自分の部屋でもっぱら鉛筆画とクレヨン画だけを描いてきた。
それは自己満足の為の行動にしか過ぎなかったけれど、でもわたし自身は満足させることができた。
それにわたしは入ったばかりの1年生だ。少しくらいなら下手でも大丈夫だろう。
すうっ……。
ドアの前に立って大きく息を吸う。
さあ、ここから、
ガララッ……。
「!」
不意に目の前のドアが開く。
「おっと。あ、入部希望の子? 入っていいよ」
そう言ってその女子生徒はわたしの横をすり抜けていった。
息を止めて立ち尽くしていた状態でいたところを見られてしまった。
変な印象を与えていなければいいけど…。
あっ、しまった。ちゃんと挨拶できなかった。
美術室では、大きな机を囲んで6人の女子生徒と1人の男子生徒が座り談笑していた。
わたしが入ってきたのに気づいて皆が一斉にこちらを向いた。わたしは無言のまま、ぺこりと頭を下げた。
わたしと同じ1年生であろう女子がわたしを手招きして空いている椅子を指し示した。わたしは頷いてそこに座った。
聞いてみると、新入部員は今のところわたしを含めて4人、全員女子だ。彼女達3人は中等部の時からの友達で一緒に入部したそうだ。
その1年女子の一人、小林さんは上級生の部員に積極的に話し掛けている。
「さっきのクラブ紹介面白かったですよ〜。あれってどれくらい準備したんですか?」
小林さんはどことなく日本人形を思わせる色白でボブカットの女の子だ。彼女の質問には男子の先輩が答えた。
「あれは…春休み入ってからだったか? 何かしらないけど、ウチはコンクールへの出展とかよりもこういうことに熱心になってしまうんだよなあ。全く」
「牧瀬さん、カッコよかったですよ」
「そうか? わざわざスーツ借りてきた甲斐があったってもんだな」
牧瀬さん?
わたしは小林さんにそう呼ばれた女子生徒を見た。
にっこりと笑った彼女は丸顔にポニーテール。女の子にしてはやや大柄な体型をしている。雰囲気的に「ねえさん」とか「かあさん」と呼ばれるのがふさわしいような人だ。
その顔には見覚えがあったような気がした。
「……あっ!」
わたしはつい声を出してしまった。視線を浴び、顔がカーッと熱くなった。
「どうした?」
「すいません。あの、部長さん、でしたか。クラブ紹介の時の、」
我ながら間の抜けたことを聞いてしまったと思ったが、牧瀬部長は嬉しそうに笑い出した。
「おい、聞いたか、健太郎! 私だと気づかなかった子がいたじゃないか。賭けは私の勝ちだな! 三里屋の雑炊おごれよ!」
「はいはい。まったく千秋さんは立派に化けましたよ」
と、健太郎先輩は面倒くさそうに手を振った。
何だかよく分からないけれど私の発言は牧瀬さんを喜ばせたらしい。
それにしてもわたしも情けない。
顔立ちも体型も変わっていない。よく見れば牧瀬さん本人を認識するのはたやすいことだったのに。
眼鏡やスーツという記号がわたしを惑わしていた?
いいや、そうじゃない。わたしは、人を覚えるのが苦手なんだ。
たぶん、無意識のうちにそれが不必要なことだと脳が命令を下しているから。
クラスメートだって、まだ顔と名前が一致しない人が多い。
やがて、さっきドアですれ違った先輩が戻ってきて、美術部のミーティングが始まった。
部員それぞれの自己紹介。
そして美術部の年間の活動の説明。
今年の美術部では、文化祭、高校美術展、蒼彩展への出展は既に決まっている。
それらの展覧会が近い日は全員同じような活動をするが、そうでない期間は自由に自分の好きなものを作ってよいそうだ。もちろん、展覧会に向けた作品をこの期間から取り掛かってもよい。
で、4月である今はその自由期間だ。わたしは他の1年生部員の話す声を聞きながら、自分の予定を考え始めた。
「関根さん、一緒に帰ろう? ちょっと寄り道していかない?」
ミーティングが終わって帰りかけたわたしは1年生部員の子達にそう声を掛けられた。
「うん…。でもわたし、電車通学だから……ごめんなさい」
「あれ? 遠いの? ねえ、関根さんは外部編入って言ってたけど、どこ住んでいるの?」
わたしは自分の住所を彼女達に告げた。案の定、目を丸くされた。
「うわーっ、大変だね。それじゃ、仕方ないか」
言ってからしまったと思った。これから美術部の活動をしていくのに帰りが遅くなるのは当然だ。今日のような日ぐらいは、ちょっと遅くなってもどうということはないのに。
いつのまにかわたしに悪い習慣が身についている。
彼女達の会話が、これから寄る店の話になっている。知らない店だ。もう、口を挟めない。
「あ、関根さん、ケータイの番号教えてよ」
一人(確か敷島さん)が振り返って自分の携帯電話を取り出しながらわたしにそう尋ねた。
わたしの胸がちくん、とした。
「ごめんなさい。わたしケータイ持ってないの」
せっかくわたしを置き去りにしないように話を振ってくれたのに、それに応えられないわたしにわたしは腹が立った。
「あー、そうなんだ。あー、うん。自宅のはさっき教えてもらったし、じゃあ、後で電話、するね」
「うん、ごめんなさい」
携帯電話はわたしには必要ない。普段はそう思っているけれど、こういう流れになるとなんとなく惨めになる。だからと言って買ってもらっても結局使わなければもっと惨めな気持ちになる。
わたしは校門のところで3人と別れた。
心の翳りを見せないように、笑顔で手を振って。
帰りの電車の中、わたしはわたしの代償行為として3人の顔と名前を頭に焼き付けた。
それから数日がたった。
わたしの高校生活は、おおむね良好だった。
クラスでは珠美ちゃんを介して珠美ちゃんの友達ともおしゃべりをしたり、屋上でバドミントンをしたりするようにもなった。
授業の方も、受験勉強をいっぱいしてきたおかげで今のところ付いていくことが出来る。
美術部では、わたしは水彩で静物画を描き始めた。
一番家が遠いので、一番早く帰ることになるのに少し罪悪感を感じることもあるけれど、 でも、それぐらいのことなら。
大丈夫。わたしはこの「桑苑」でやっていける…。
今日は最後の授業が数学だった。そのままHRとなり、音羽先生からの連絡もなし。
わたしが美術室についたときには、まだ誰もいなかった。部屋の隅から描きかけの絵と画材を取り出してくる。正直なところ、数学の時間の残り15分くらいはこの絵のことを考えていた。
準備を整えると、わたしは作業を再開した。
と。
「その色がいいね」
「ひゃ!?」
突然、後ろから声を掛けられて、わたしは思わず絵筆を間違えた方向に滑らせてしまった。わたしの絵に汚い線がはいってしまった。
誰!?
男の人の声。でも星見(健太郎)先輩ではない。
わたしはそれが誰でも、一言文句を言ってやろうと振り向いた。
………。
……。
…。
でも、言葉が出てこなかった。
わたしは知っていた。彼を。
顔を見ていなくてもわかる。
近付くかれてもわからなかったのは、美術室が絵の具の匂いであふれていたからだ。
あの芳香の男。悔しいくらいに髪のきれいな男。
あれから彼のことは頭から払ったはずなのに、彼を目の当たりにしたとたん、嗅覚と視覚がたちまち記憶を取り戻した。
「驚かせちゃったかな? 『ハシモトカオル』が美術部にいるなんて」
彼は落ち着いた態度でわたしの目を見、柔らかに微笑んでみせた。
わたしはカッとなり目をそらした。しかし、彼の名前を思い出したわたしは、驚きのあまり、つい向き直ってしまった。
嘴本薫。わたしはその名前を以前から知っていた。中学で美術部にいたころにその名前を初めて聞いたと思う。
そう、自分と同い年でありながら、日本の美術界に変革をもたらすだろうと言われた天才だ。
「嘴本薫、ってあの天才と呼ばれた……?」
その天才が今わたしの目の前にいる?
嘴本薫って、桑苑の生徒だった?
それがこの間見かけた彼?
そんな偶然が?
そう言えばどうしてわたしは彼だとすぐに判った?
わたしは人を覚えるのは苦手じゃなかったっけ?
ぐちゃぐちゃと、わたしは。
しばし、言葉をつむぐことができなかった。
しかし不思議と彼は何も言わずこちらを見ていた。




