第十九話・現実にするための理想
「おーい、関根、会議やるから来い」
「あ、はい」
牧瀬さんに呼ばれ、私はメモをパネルバッグの中に押し込んでファスナーを閉じた。あせってクシャッと折り目をつけてしまい、しまったと思った。
再び行われた会議で、共同製作の役割分担が再編成される。作業を分担するにしても、同じものを多人数で分断するのではなく、意味のある作業単位に分けて、部員が得意なものを選択していく。薫くんの意見を採り入れた形になったようだ。私は作業に取りかかる前だったので特に影響はない。
それはそれとして、私は会議中、ずっと別のことを心配して気を揉んでいた。
私服に自信ない。
笑わば笑え。
薫くんから、彼のアトリエにお呼ばれされて浮かれたのもつかの間、津波のように私を飲み込んでいるのはそんな不安だった。
彼に私服を晒したことは……合宿のときにあるけれど、あの時は特に意識していた訳ではなかったから。
私には縁のないこと、と自分に言い訳して、己を綺麗にすることを怠ってきた。醜い自分に注目されないようにと、目立たない色の服を選びそれに隠れて生きてきた。皮肉にも陰口で呼ばれていた、ネズミ、のように。
以前、たまたま入ったブティックで、偶然プロのファッションデザイナーから声をかけられたことがある。その人――有田先生からおしゃれに気をつかうようにと言われて、その人のWEBサイトを覗いたことがある。おしゃれコーナーが充実していたが、実践しているのは普段の心がけや身体の手入れといったもので、流行の服装を、となると私の脳はキュッと閉じてしまう。
華やかな服に身を包んだ私を想像するだけで、自分がバカな子みたいで鳥肌が立つ。可愛い服装だからこそ、自分の可愛くなさが引き立ってしまう。嫌だ、やめて、脱ぎたい。可愛くないと分かっていても、そちらの服のほうが落ち着けてしまう。
着る想像に耐え得る服の中で、一番可愛いのが……桑学の制服。ダメだああぁ……。
制服で嘴本くんに会いに行ったら、ものすごく軽蔑されそうな気がする。第一私自身がそれを許さない。なんて難儀な性格なんだ、私は。
助けて。誰か私に似合う服を見つけて。
タマちゃんの顔が思い浮かぶが、今サッカー部は地区大会で一番忙しい時期なのだ。今度の日曜日までの放課後に服選びに付き合ってもらえる余裕も見込みもない。というか私だって文化祭前にそんな私用で美術部の活動をおろそかにする訳にはいかない。家に帰ってからタンスを漁ってみよう、と、いったん自分を落ち着けようとするが、今度は頭の中のタンスが荒らされる。そんないい服あっただろうか。ズンタカズンタカ。
……心が迷うときは、とりあえず差し迫った義務を果たすのが一番だ。私は共同製作の担当分を開始した。
夕食を終えてお母さんとお父さんが下の階でTVを視ている頃、私は秋用(≒春用)の服を部屋に並べていた。
私の部屋には小さな鏡しかないので、これはと思ったら着てみてからお母さんたちの寝室に行って全身を映す。
どうやら私は自分を過剰に卑下してしまっていたようで、鏡に映る私の姿は頭の中でイメージしていたもの程酷くはなかった。買うときに最低一度は袖を通して選んだものだから当然と言えば当然ではある。
最終候補は、アイボリーの地に黒の柄が入ったスモックブラウスとグレーのワイドパンツ。やっぱりネズミっぽいけど、仕方がない。どうせネズミなら今の自分で出来る範囲で可愛いネズミになろう。よし、と拳を胸の前で握ったところで、お母さんが階段を上がってくる音が聞こえ、私は忍者の歩法で自室へと戻った。
腕を動かすとき、ちょっと脇のところが引っかかる感じがする。1年前に買ったものだから、その時から太った……というか、うん、最近下を向いたときの視界が狭くなっている、そういうことだ。
ひと安心すると、今度は時間を早く進めたくなった。次の不安が見つからないように。
絵を描くときに、頭の中で想定していたものどおりに筆が走るとスーッとした嬉しさがこころを走るように、私自身の容姿がそうありたいと、願う。
だけど逆風は吹いて欲しくない時にこそ吹くものだ。曇天で始まった土曜日。
ノートに文字を書くときの紙の違和感、そして、ブラシを入れるときの髪の違和感。湿度が高い。うねうね。
「お母さん、助けて」
「何?」
「髪が、爆ぜてる」
私は自分の髪を手で梳いて見せる。
髪を伸ばしたのは自分が決めたことだけれど、雨のときは、泣きたくなる。家が床屋だったのは不幸中の幸いだったというべきか。夜になって雨の音が外から聞こえてきた頃、とうとう許容範囲を超えた。
「うん? そんな、気にする程の跳ね方じゃないわよ」
「お母さんは気にしなくても、私は気になる」
少し感情的になって子供みたいに苛立った語気になってしまった。
「明日どこかお出かけするの?」
一瞬息が止まり、うん、と弱く頷き上目づかいをする。
「……ん、じゃあ、お風呂入って、お店の方に来なさい。準備しておくから」
私がお母さんに髪を切ってもらうときは、お客さんのようにお店でやってもらっている。うちの店は男の人やちっちゃい子が主なのだが、ある程度の道具はあるはずだ。
小さい頃から癖毛で悩んでいた私は、お母さんから髪を短くされていた。それが当然のことと思っていたが、いつの頃からかそれに不満を持つようになっていた。男の子に間違われそうになるとか、そんな単純な理由ではなく、もっと……。
お風呂から上がった私は濡れ髪をバスタオルで拭くと、私は一部だけ照明のついたお店へと足を向けた。その途中で居間にいるお父さんと目が合い、いいよ、と告げた。我が家ではお母さん、私、お父さんの順にお風呂に入るのだが、それが普通というわけでもないこともある程度の年齢になってから知った。
「アイロン入れるから」
ヘアアイロンを手にしたお母さんが、私に鏡の前の椅子に座るよう促した。
「でも、若いうちから髪を傷めるようなことはあんまりして欲しくないのよ。和美はそのままでいいのに」
胸の奥が軽く疼く。
「だからって、短いのは、もう、いや、だ」
語尾を発する声が小さくなる。お母さんに負の感情を向けることに罪悪感をおぼえる。
「そうね。私もいつまでも和美が小さいままのつもりでいたわね」
ヘアアイロンの熱気がじっ、と頭皮を心地よく温める。髪の毛には神経が通っていないけれど、鏡に映るそれに、まっすぐになれと念を込める。
「ねえ、明日は、和美の大切な人に会いに行くの?」
「!」
お母さんが言い当てたのは初めてだ。当たり前だけど。体内から発した熱がヘアアイロンとは反対方向から顔と頭を温める。
「今日は時間もないし、和美も気が治まらないだろうから、こうしてるけど、これからデートする度にアイロン入れたりしてたらホントに髪を痛めちゃうわよ。縮毛矯正するにしたって、時間もかかるし、高い薬品も使わなきゃいけないし」
縮毛矯正のことは前に何かの雑誌で読んだことがある。ストレートにすることは出来ても、髪が伸びてきたらその部分はまた改めてやらなきゃいけない。
「じゃあ、癖毛の人はあきらめなきゃいけないの?」
なんだろう、なんでお母さんにこんなに攻撃的な言い方をしてしまうのだろう。
「完全に治すことが出来ないから、むしろそれを魅力にしましょう」
お母さんは私の肩に手を置いて優しくそう言う。
「だけど、そんなことは、」
結局ダメだったから短く切ってきたのだ。
「もちろん、口で言うほど簡単に出来ることではないわね。でも私だって結婚してからは男の人の髪ばかりいじっているけれど、女の子を綺麗にしたいという願望がなくなったわけじゃないわ」
私が生まれる前にはファッションコーディネーターを目指していたらしいお母さん。お父さんがその話題を嫌がるのであまり詳しくは聞いてはいないけど。
「和美の、綺麗になりたい、っていう気持ち、最近よく感じる。だから私も協力は惜しまないわよ」
「……」
熱が、伝わってきた。
次の日の朝。目を覚ました時には雨は止んでいた。真っ先に鏡を見て髪をチェックする。ホッとする。でも、まだだ、まだ。待ち合わせ場所の駅前まで行って彼の反応を見るまでは。
本当、恋をしている女の子って凄い。こんな気持ちを何度も何度も抱えてきて、それを抱えることに吝かでないのだから。
決めておいた服に着替えて家を出る。行きの電車の中で、彼とあの絵の前に並んで立つことを想像する。願わくはこの想像通りに美しくありますように。