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第十八話・ステップ

「落ち着いた?」

「ん。ごめんね」

 私は彼の顔を見上げ、息をついた。嵐のような感情も、泣いたおかげでやがて凪となる。涼しい風が涙を乾かした。けれど体がポカポカと温かくなっている。

 身体を離して分かる、彼の残した温もり。もし私が彼の特別な人ならば、もっと甘えてもいいような体勢だ、と益体もないことを思った。

「それじゃ、これはどうしようか」

「え?」

「この絵をボクのアトリエに持って帰りたいけれど、キミのバッグは返さなきゃいけない」

「そんな、返すのなんていつでもいいよ」

「そうかい? それじゃ、明日、部室で返すよ」

「うん」

 明日も、部室に行けば彼がいる。

「えっと、嘴本くんのアトリエ、って? 家じゃないの?」

 身体が暖まって、口の滑りが容易になっていたためか、聞き逃せなかった言葉を聞き返す。

「ああ、何年か前に、ボクが作ったものが家からあふれそうになったから、この近くにボクのアトリエを建ててもらったんだ」

 建ててもらった、って……いや、そうしてもらえるだけの才能を持った彼だけれど、やっぱり彼の家はお金持ちなのだろうか。王子様っぽい扱いをされていると思っていたが実際王子様というのに近いヒトなのかもしれない。

 すごいね、と彼に言いながら、そのアトリエを見たいという願望が沸き起こる。もし、さっき、パネルバッグをすぐ返してほしいと言ったら、アトリエまで行けたのだろうか。

 ううん。欲張っちゃダメだ。私の絵が彼に認められたこと、美術部に留まって共同製作に参加してくれたことだけでも充分だ。

 私は彼と別れる。踏切のところから線路の奥を覗けば駅が見えるけれど、彼に道の心配をしてもらったのが嬉しかった。


 ここ最近、いろいろなことが立て続けにありすぎて、私の感情は波が立ちっぱなしだった。人前でぼろぼろ泣いてばかりで、恥ずかしいったらありゃしない。でもこれで一段落して、穏やかな日々になるだろう。美術部で共同製作を続けていれば、彼と自然に言葉を交わせる機会も多いだろうし。

 お願い、私の運命を司っている誰か。もう少し私にゆっくり恋させて。

 その日はもう、電車の中で気持ちの反芻だけをして帰宅した。



 お母さんが、おかえり、と迎えた。

「仲直りはできたみたいね」

「え?」

「いい顔してる」

「あ、うん」

 そうだ、昨日はお母さんが帰ってきてたのに、彼の絵のことで頭がいっぱいで、おかえりも言わず自分の部屋に籠もってしまったのだった。心配して部屋まで声を掛けてきてくれたのに、切羽詰まっていた私はおざなりな説明だけをしてて、態度が悪かったと後悔する。それでも私の心配をしてくれたお母さんに感謝する。

「なんとかなった。ありがとう」

 でも彼に軽く抱きよせてもらったことを思い出すと、恥ずかしくて、悪いことをしてきたみたいで、笑顔に後ろめたさが混じった。でもそんな気持ちを味わうこともまた心地よかった。

「電話が来てたわよ。柚木さん、って子から」

 タマちゃんだ。

 部屋に戻って鞄を置いてから、キッチンと居間の境界に置かれた電話から彼女に折り返しの電話をした。キッチンではお母さんが食事の支度をして、居間では店(床屋)の仕事を終えたお父さんが新聞を読んでいた。

 珠美ちゃんは、放課後の教室でのやりとりを見て、何があったのか気になって電話してきたそうだ。私は珠美ちゃんに、お母さんに対してしたものと同じ説明をしようとする。でも、お母さんには同じ美術部の人の絵を汚してしまったとしか言っていないけれど、珠美ちゃんには反対に嘴本くんとのことだと知られている。両親に内容を聞かれるのが恥ずかしくて、彼の名前を出さないよう意識しながら説明した。携帯電話が欲しくなった。


 

 美術室に行けば彼に会える。

 放課後のH.R.は音羽先生から掃除をサボっていたクラスメートに対する注意と叱責があったので遅くなってしまった。はやる気持ちも、先生の注意のせいで萎え、廊下を走る気にはなれず、静かに歩いて美術室へ向かった。

 入り口のスライドドアの窓から中が見えた。男子の制服の背中が二つ、美術部の男子は二人。よかった。

 中に入るとセナちゃんがトテトテと私に近づいてきた。

「和美ちゃん、薫サマ、美術部に戻ってくれたよ。よかったねえ」

「うん、よかった」

 笑んで頷く。セナちゃんの笑顔が見られて嬉しい気持ちと、ささやかな優越感が気分を高揚させた。ごめんね。

 彼と先輩は机に大きな西洋紙を置いて、メモや図を書きながら共同製作についての打ち合わせをしていた。怖いくらいの表情だったけれど、それは真剣さの現れで、むしろ格好いい。

 挨拶をすると、二人は同時に振り返って挨拶を返した。

「関根くん、あれは美術準備室に」

「うん」

 何気なく言葉を交わせる。そんなに胸にさざ波が立たない。帰ってきたんだ。


 美術準備室に入ると私のパネルバッグはすぐ見つかった。手に取ろうとすると、そのファスナーが大きく開かれていることに気づいた。

 嘴本くんってズボラな人だったっけ?

 変だな、と思いながらファスナーを閉じようとして私は異物に気づいた。


 あれ? 何だろう?

 パネルバッグの黒い裏地の中の白い紙片を取り出す。前にもこんなことがあったっけ。



 ――次の日曜日、あの絵を完成させたいから、僕のアトリエに来て立ち会って欲しい。



 …………えっ? えっ? えええっ!?


 どうやら、運命の神様はまだ私を翻弄するつもりらしい。


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