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第十七話・刻む日

 いつも、会話の輪の外側で、おとなしく聞いているだけだった。自分の意見は決して言わない。ただ求められたときだけ声を出す。そうやって自分を守ってきた。会話の輪を壊すのは、怖い。貧相なげっ歯類を観察するかのような目が怖い。

 でも、そんなこと言ってられない。

「嘴本くんっ」

 美術準備室で背を向けられた次の日、登校した私は、鞄を自分の教室に置くと、もう一つ持ってきたバッグを持って嘴本くんの教室に向かった。彼は相変わらず女の子に囲まれていたけれど、私の声のせいでその輪に乱れが生じた。

「ん?」

 嘴本くんの目と、彼を取り囲む女の子たちの目。耐えろ、私。高校に入るまでは、大抵こんなもんだったじゃないか。

 ……ただ声を掛けるだけで血の巡りが早くなるのは私くらいのものだろう。

「あのっ、昨日のあの絵のことだけど」

 私は持ってきたパネルバッグを軽く持ち上げて見せた。その大きさから彼も中身を察したようだ。

「その絵はもういい、って言ったよね?」

 彼の語気に、ぐっ、と胸が痛む。

 私は傷つける側の人間には絶対なりたくないと思っていたのに……嘴本くんを傷つけた。その絵を。心を。

 同じ美術部の部員として僅かでも彼の気持ちが私にプラスなのは嬉しかった。それで満足していたのに。満足していたからこそ、マイナスは嫌。ほんの少しでも嫌。つらい。

「見てっ! 見てくださいっ」

 大きく息を吸って。

「昨日のことは本当に悪かったと思ってる。だから、私なりに精一杯直しました」

 緊張して、ですます調とだである調が混在する。

 ファスナーを開き、バッグからキャンバスを取り出しかけたとき、彼の眉間に皺が寄った。ちょっと待って、と動きを止められる。

「関根くん。今は彼女たちと話してるから、そのバッグだけ受け取っておく。絵は後でゆっくり見せてもらおう」

 私に対する非好意的な視線に気づく。また彼に拒否された。でも、受け取ってはもらえる。これでもよしとすべきか。私は、ん、と言って頭を下げ、その場を離れた。



 昨日、嘴本くんは午後の用事を済ませると、学校に戻ってきて美術準備室の自分の絵を持って帰るつもりだったようだ。そこで私がそれを持ってゴソゴソやっているところに遭遇したというわけである。

 あの時の嘴本くんの目。忘れられない。怖くって、目をつぶっても消えなくて。逃れられなかった。否、逃れてはいけなかった。

 彼は私の謝罪の言葉にも背を向け、そのまま帰ってしまったので、その絵を持ち帰ったのは私になった。

 自宅に帰った私は修正作業のために、家にあった痛み止めの錠剤を飲み(普段あまり薬に頼るのはよくないと思ってるけど)、頑張って夜更かしした。そんなに時間を掛けたのは、修正するだけでなく独断で余計なこともしたからだ。

 冷静になって絵を見直せば、水張りもしていて、絵の具も乾いていたのだから、滲みなんて些細なものだった。でもそこが焦点ではない。

 描いている途中の絵に、勝手に手を入れられた時の気持ちは私が身をもって実感している。場合によっては殺意すら沸く。これは嘴本くんだって誰だって同じだ。上手い下手は関係ない。

 寝不足で頭は痛かったけど、心臓はばくばくと激しい鼓動を打って、授業を受ける私を眠らせなかった。


 そして彼が私の教室にやってきたのは放課後だった。彼は有名人なのでクラスメートの視線が多めに集まる。

 手には彼の鞄に加えて私のパネルバッグも提げていて、私の胸が引き締められた。

「ああ、関根くん、これから美術部に行くのかい?」

「え、う、うん。そのつもりだけど」

 ……ここで嘴本くんにバッグをそのまま突き返されたらそこでおしまいだ。

「じゃあ、その予定を変更して放課後はボクに付き合ってくれ」

「え?」

 ナニを言ってるんだろう。想定外の彼の言葉に、私の身体は固まり、思考も止まった。

「それじゃ、付いてきて。ほら」

 私が付いていくのが当然だとばかりに歩き出す彼。私は慌ててその後を追う。親切にも珠美ちゃんが私に鞄を渡してくれたのにお礼もそこそこになってしまった。

 廊下を悠々と進んでいく彼。付いていく私。

「あ、あの、どこに、行くの?」

「ちょっと見てもらいたい場所があるんだ。学校から歩いて10分ぐらいのところだよ」

「外なの!?」

 彼はマイペースな足並みで歩いていくため、私はペースを上げなければいけなかった。昇降口で靴を履き替えるときだけは少し待ってくれた。

「ね、嘴本くん、どこへ行くのか教えて」

「歩いてすぐだから、言うまでもないよ。付いてきて。ただ、付いてくる間、周りの景色をよく見ておいて欲しい」

 彼の表情は静かで、怒りは浮かんでいないようだったが好意的なものだとも言い切れなかった。

 彼は芸術に厳しい人とはいえ、鬼じゃないのだからひたすら謝れば許してもらえただろうとは思う。でもそれでは、私が許されてそれで終わりだ。だから私はある意味賭けと言える行為に出た。もしそれで彼の怒りを煽りたてていたなら――状況は変わらないけど私がより嫌われるだけだ。

 彼の歩く道は途中まで私の通学路と同じだった。駅までもう少しといったところで別の道に入っていく。その道はやがて踏み切りに至った。ちょうど黄色い電車が通過するところで、通り過ぎたところで彼は踏み切りを渡り、私を振り返った。

「ここで……いいかな」

「ここ?」

 首を左右に向けたり、遠くを眺めてみたものの、そこに目を惹くものは特に何も無いように思えた。ここは商店街の入り口で、錆びた看板に剥がれかけた赤いペンキで仲町商店街と書かれたアーチが道路の上に架かっており、新旧入り乱れた様々な店舗がその道の両脇に並んでいた。私の自宅がある古い商店街に雰囲気が似ていなくもない。ただ人通りは少ない。

「関根くん、ここまでの景色で何を感じた? 踏み切りを渡る前と渡った後ではどう差異がある?」

「えー、ええっと」

 彼の意図を量りかねて、答えに詰まる。

「感じたままに」

「う……ん、踏み切りを境界線にして、あっちとこっちで結構雰囲気が変わったな、って思う。こっちは、ちょっと古い感じ。昭和っぽい」

 なんて、昭和を知らないくせにそんなことを言う私。お父さんとお母さんの影響だ。

「そう。諫谷市の再開発対象外の地域だからね。関根くんは地元の人間じゃないから、その辺の事情はあまり知らないと思うけど」

「うん……」

「今年の文化祭のテーマがそれだったね。諫谷市の今昔」

「え、知ってたの?」

「昼、星見さんに聞いたんだよ」

 星見さんと嘴本くんの声を荒げた言い合いを思い出す。今にも殴りかからんとする勢いだったのに、普通に話せたのだろうか。というか、何故嘴本君は尋ねたのだろう。

「ボクが幼稚園に入るより前は、線路の向こうもこちら側と同じような、いや、もっと閑散としていた記憶がある。だから諫谷市の過去を描きたいと思えばこの辺りの景色で記憶を喚起させることもできるだろう」

 当たり前のことだけど、彼にも幼少期がある。さすがの彼も、その頃は今の私より絵が下手だっただろう。少し不思議。

「キミはどちらを描きたいと思った? 現在と過去とで」

「あ、私は『現在』を描くと割り振られて、」

「ああ」

 彼は苦笑いして手を横に振った。

「今何をしているかじゃなくて、どちらを描きたいか、だよ」

 私は即答せず考える。もし、過去と答えたら、描きたくないものを描いているのかと言われるのかもしれない。尤も、彼が訊きたいのはそんなことではないのかもしれない。

「描きたいか、というか、もし誰かが描いたら見てみたいのは『過去』……こっち、のほうかも」

 と、言いつつ、彼の機嫌を伺うような目つきをしてしまった。情けない。

「うん、キミのように地元出身ではない子の声を聞いてみたかったんだ。ボクや美術部の他の人はみんなこの辺りで育ったから、思い出で美化されている可能性が極めて高いからね」

「そう……」

 だとしたら、私も思い出補正が入ってしまったかもしれない。

「それで、キミがこちら側を選んだ理由は何だい?」

「ん……」

 私はまだ、それを巧く言語としてまとめられなかったが、新開発されている地よりされていない地のほうが、整頓されていないがゆえの美しさがあるというニュアンスのことを答えた。汚れた建物には経てきた時間が含まれ、様式の異なる建物が秩序立たず並んでいるのにはカオティックな魅力を感じる。

「それじゃ、向こう側、ボクらの高校がある地域には美を感じないかい?」

 そんなことはない、と私は答えた。中学3年のとき、受験で桑学に来たときから、ここなら気分を一新してやり直せる、と感じたものだ。調和を考えて作られた駅前広場とそこから延びていく道、そしてそれらを挟む建物は、本来の機能を損なうことなく美しくそこに在った。

 前に、美術部部長の牧瀬さんが、将来そんなランドスケープデザインに携わる仕事に就くために進学すると聞いたことがある。その時はなんとなく聞き流していたが、今こうして自分が口にするために思い出してみると、それはとても重要な仕事であると実感する。

「それじゃあ、あの駅前広場を実際に作った人たちに、美を作ろう、という意志はあったかな?」

「え?」

 ……なんとなく、彼が言わんとする事が見えてきた気がする。

「それは……無いんじゃないかな」

「そう、彼らは設計図に従った仕事をしただけだ。仕事に要求されるのは正確さと丁寧さであって、現場の人が自らの美意識に従って勝手なことをしてしまっては調和も秩序もない『作品』になってしまう」

「……芸術と仕事とは違うね、うん」

 でも、嘴本くんは自分の作品を既にお金にしているけれど、そのへんはどう考えているんだろう。そんなことをふと思ったけれど、話の腰を折りたくなかったのでその疑問は口にしなかった。

「キミもこれまで、展覧会などで小学校や中学校、高校の美術部の共同製作作品を観てきたことがあるはずだ」

「うん」

「ボクは昔からそれらが大嫌いだった」と、眉根を寄せる彼。

 私は目で、どうして、と問うようにして続きを促す。

「一人ですべきことを何故わざわざ多人数に分けてやらなければいけないのか、とね。キミは嫌な気持ちになったことは無いのかい?」

「……嫌、なんてことはなかった、よ?」

 また、機嫌を伺うような態度をとってしまう私。

「みんなで作っただけのことはある大作を見て、感動したこともあるし」

「大作、空間占有という意味で大きな作品ということならばそれはその通りだろう」

 多分に嫌悪感を含んだ声に、ギョッとする。ここは大人しく同意しておけばよかったのだろうか。でも、自分の意に反する答えは絶対ボロが出るからしたくない。

「そこに創作性はあるのか、芸術性はあるのか。最初に設計図をひいた人にはあっただろう。でも、ただノルマを果たすことには何の喜びがある?」

「ま、待って」

 畳み掛けるような彼に気圧されそうになり、私は大きめの声を出して遮る。

「私にとっては、少なくとも私にとっては、共同で作業するということ自体が、楽しいことだから」

 そういう形でないと、他人との繋がりを持つ喜びを得られない人だっているんだよ?

「ノルマだから仕方なくやるんじゃなくて、その範囲内で自分が出来るだけの表現をすることも合作の面白いところだ、と、思う」

「だからキミはあの一輪のクロッカスを描いたんだね」

「!!」

 ついに彼の口からその花の名がこぼれ、息をつく間もなく、カーッ、と顔に血が上った。

「ただボクの絵を直すだけだったら、ここまで描き込んだりしないよね」

 手に持っている私のパネルバッグに手を触れて微笑む彼。ドドッ、と心臓の鼓動のテンポがアップする。

 解って、もらえた!

 彼の描いた花の束に添えた、クロッカスの花。彼とは技量に大きな差があったから、必死になって描いた一輪。

「ボクが使おうとした色とは違っていたけれど、青系統はキミの得意な色だったね。いい自己主張だった」

「あ……」

「あれで少し、合作の可能性を試してみたくなったよ。だから星見さんにそう言って参加させてもらうことにした」

「あ、あ……」

 まずい。何か最近、涙腺が弱くなりすぎてる。

「それから」

 まだ何かあるの!?

「この絵を、ボクに返してくれないか。キミにとっては何度目かの合作、でもボクにとっては記念すべき初めての合作。是非完成させたいんだ」


 あ、決壊。


「わあああああん」

 一瞬にして溢れだした涙が視界をゼロにする。拭いても拭いても無くならない。そのせいで、私は目の前の彼がどういう動きをしているか、全く気づけなかった。

「あ、う……!」

 後頭部に触れられた。そして彼の胸とその手の間に頭を挟まれた。あの日から伸ばしていた髪がクシャリと押さえつけられる。

「そんなに、気を張ってたのかい」

 嘴本くんにはわからないかもしれない。ずうっと、天才って呼ばれて来た人だから。溢れる才能をもって多くの人を虜にしてきた人だから。

 でも私は、生まれて初めて、自分の絵で人を動かすことが出来たんだもん。そしてその人が他ならぬ貴方なんだもん。

「落ち着くまで泣けばいいよ」

 女の子を抱き寄せるのに何の戸惑いもない。

 きっと、こんなこと何度もしてきたんでしょ?

 でもいい。それでもいい、私にはこんなこと、二度と無いかもしれないんだから。今だけは、こうしていて欲しい。

 クロッカスの花言葉……いいや、もうそんなこと。

 髪を撫でられてるだけなのに、ポンプを押されてるかのように私の目からは水が止まらなかった。



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