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第十六話・魔法の言葉

「お帰り」

 帰宅した私をそう迎えて、台所に向かい、鍋のコンロを点火したのはお父さんだった。

「あれ? お母さんは?」

蓬田(よもぎだ)さんのところ。この前言ってただろう?」

「ああ、あれ、今日だったっけ」

 何日か前に聞いていたが、日付は忘れていた。蓬田さんというのは、お母さんの大学時代の親友で、アメリカで服飾デザインの会社の社長さんをしている。その人が帰国するので久しぶりに会いに行くという話だった。

「早く着替えてこい。晩飯にしよう。腹が減ってるんだ」

「先に食べててよかったのに」

「一人で食事は寂しいんだよ」

 私が部活で遅くなるときは、先に二人で食べているくせに。でもそんな寂しがりのお父さんに、今は優しくしたい気分だ。

 お父さんと蓬田さんは仲が悪い。かつて、蓬田さんが会社を興すときに、お母さんにも声を掛けたのだけれど、お母さんはお父さんと一緒にいることを選んだのだ。そのことで、お父さんはいろいろと蓬田さんから言われたらしい。この件に関しては、私は全面的にお父さんの味方だ。

 お父さんの作る食事は、まずくはないけど美味しくもない普通の味。私の涙はもう乾いていたけれど、胸にまだ少し溜まっていて、美味しい食事も美味しくなくなってしまいそうだったから不満はなかった。

「お父さん、冷蔵庫にビール入っているけれど一杯いく?」

 と、お母さんの真似事をしてみると、お父さんは、ほう、と嬉しそうな顔をした。うん、家の中でなら私もこれくらいできる。


 その晩はえっちくさい夢を見た。そこでの私は驚くほど饒舌で、思うことを整然と言葉に変換できていた。

 あなたにそばに居て欲しい、私にはあなたが必要だから。そんな意味のことを伝えたように思う。

「ボクも好きだよ」

 と答えられたとき、夢でなければいいのにと思ったせいで目が覚めた。

 ずずぅん、という擬音がお腹から全方向へと走る。私は生理が重い方ではないけれど、昨日のことがその部分にのし掛かっているようだ。それでも頭の方はむしろ冴え冴えとしていて、いつもよりも早い時間に家を出た。

 夢の中で言えた台詞は、反復しようとしても、もう思い出せない。淀みなく言えたことは覚えている。恥ずかしい台詞だったことも覚えている。だからそれは、私に都合よく、嘴本くんが私に好意を抱いている場合の会話だったのだ。さすがは夢。無意味な思考のリピートをしているうちに学校に着いた。

 自分の教室に向かうとき、廊下から通りすがりざまに嘴本くんのクラスを覗く。彼はいつものようにクラスメートの女子たちと談笑していた。その空気は私の苦手とするもので、そのまま私は通り過ぎた。

 一時間目が終わると、私はトイレに行くついでに、彼の教室を覗いた。彼はいつものようにクラスメートの女子たちと談笑している。や、今はトイレに行くところで別に話しかけるわけじゃないから別にいいけど。

 二時間目が終わると、特に用事はないけれど、気晴らしのために教室を出て、彼の教室をそっと覗いた。彼はいつものようにクラスメートの女子と談笑していた。二時間目は退屈な授業だったから、いろいろ考えることができたけど、まだまとまらないので話かけられない。だからまだいいや。うん。

 三時間目が終わったときも、特に用事はないけれど、やっぱり気晴らしのフリをして教室を出て、彼の教室をそっと覗いた。彼はクラスメートの女子たちと談笑していた。いつも通りに。

 ……おなかがキリキリする。こんなときに女の身体を疎ましく思う。じれったい。彼にどういう言葉を掛けようかと頭の中でシミュレートを始める度に、痛みが走って邪魔をする。しばらく忘れていた重みだった。

 それに引きかえ、どうして彼はいつも通りのように振る舞えるのだろう。彼にとって、退部宣言とは、大したことではないのかもしれない。それもそれで私にはつらい。それにしてもどうしていつも女の子に囲まれているのか。


「和美ちゃん、どうしたの?」

 昼休みになると、珠美ちゃんに心配されてしまった。

「今日の和美ちゃん、なんかソワソワしてる」

「……別に、どうしたわけでもないよ」

「そう?」

 どうもしないけれど、昼食が終わったら、彼の様子を見に行くときは不審がられないようにしよう。そう思っていたら、セナちゃんが教室にやってきて、一緒に行こうと誘ってきた。感謝、感激。


 だけど胸をドキドキさせて行った彼の教室では「やあ」だなんて、拍子抜けするくらい軽く挨拶されてしまった。

「どうしたんだい? 二人とも」


 ……信じられない。


 私たちは彼の座る席の机の前に立つ。

「ね、薫サマ、昨日のことだけど」

 セナちゃんが口火を切る。

「美術部、辞めたりしないで。戻ってきて、ね?」

 くっ、とこぶしを固めるセナちゃんにそう言われたのに、嘴本くんはまるで初めてそのことに気づいたかのように、ああ、と声を漏らした。

「そんなことを言うためにわざわざやってきたのかい?」

「薫サマが辞めちゃったら、美術部が寂しくなっちゃうよ」

 嘴本くんは表情を崩さず両手の指先を胸の前で軽く合わせる。無意識に取ったポーズみたいだ。

「辞める辞めないは大した問題じゃあないよ。ボクはどこに居ようとボクだからね。ボクに会いたいならこうやっていつでもボクのクラスに来ればいいさ。歓迎するよ」

 そう言って微笑む天才少年芸術家。ええい、いちいち美しいヒトだ。

 でもね、どこへ行っても自分が変わらない、なんて、言うのは簡単だけど、それはとても難しいことだと思うよ。だって私は、桑学に来たから、美術部に入ったから、あなたに会えたから、自分のことを、そんなに嫌わないでいられるもの。地元の高校に行ってたら、どうなってたか。

「でも、あんなケンカ別れしたまま辞めるなんて後味悪いよ。嫌だよ」

 セナちゃん。こうやって気持ちをハッキリ言葉にできる力をうらやましく思う。

「ケンカじゃないよ。星見さんは美術部の副部長として職務を果たしただけさ。ボクは受け入れられないから美術部を離れる。それだけだよ」

「それじゃ、今、嘴本くんが描きかけてる絵、どうするの?」

 そうだ、彼は今、水彩画を描いている途中なのだ。

「ボクのアトリエで描き続けるさ。もちろん」

「じゃ、じゃあ、その絵、返さないもん!」

 えっ!?

「辞めないって言うなら隠しちゃうもん! そしたら薫サマ、困るよね?」

「ちょっと、セナちゃん、それは」

 今まで黙っていたけれど、私は思わず彼女にツッコミを入れる。嘴本くんの方を見ると、眉根をひそめ、そして苦笑いした。

「それは……困ったね」

「でしょ、でしょ!? 描きかけのままじゃ、気持ち悪いもんね?」


 ……。


 ふと。私は中学時代、描きかけのまま美術室に放置した絵のことを思い出した。葛名くんにまつわる苦い記憶を思い出さないようにしていたら、いつのまにか今の今まですっかり忘れていた。あの絵、今どうなっているんだろう。

「困った……けれど、共同製作はやっぱりダメだ」

「え」

 その彼の声に人間くさい陰りがあって、私はゾクリと怯えると同時にちょっと安心してしまった。

「ならばボクのこの身が覚えている範囲であの絵を最初から描き直すよ。ボクの判断が気に入らないのなら、あの絵を隠すなり処分するなり好きにしていいよ」

「そんなつもりで言ったんじゃないよぅ」

 泣きそうな声に、私は助け船を出さなきゃいけないと自分をせき立てる。が、うまい言葉が思いつかない。でも、何か言わなきゃ。

「ねえ、嘴本くん。美術部にいることが嘴本くんにとってメリットにならないことは分かってる。だからこれは、ただのお願い。だけど、聞いて」

 と、息を吸い込んだとき、他ならぬ嘴本くん自身に出鼻をくじかれる。

「悪いけど」

 キリキリッ。

「ボクは午後から打ち合わせで早退するんだ。そろそろ解放してくれないか」

 冷たい流体が、胸を通り抜けて、おなかの痛みに追い打ちをかける。聞く前から拒絶された。私が拒絶された。違う。ただ、嘴本くんは本当に忙しかったから。でもセナちゃんの説得は聞いたのに私は全部拒絶された。違う! 打ち合わせ、打ち合わせってなんだろう。デザインの仕事の打ち合わせかな。仕事だよ。私を避けるために都合がよかったから仕事という口実を使った。脆弱な私の心が悲鳴を上げる。

 そんな私の表情を見ているのかいないのか。嘴本くんは立ち上がって鞄をつかみ、じゃあね、と言って教室を出ていった。


 魔法の言葉、なんて無い。

 私がよく読む漫画での世界では、主人公の女の子が、好きな男の子の苦しみを、何気ない、それでいて思いやりにあふれた言葉で癒してあげて、それを機に親密になる展開なんてのがある。

 だけど私には、そんなステキな魔法の言葉なんて思いつかない。意味ある文にして口から発することができない。

 午後の授業も、もう必要ないのに彼を説得する方法をウジウジと考えていた。


 それでも放課後はやってきて、部活の時間になる。美術部の活動は強制ではないから、体調もよくないし休んでもよかったのだけど、文化祭も控えているし、なんとなく出ようと思った。共同製作は、この桑苑学園高校のある諌谷(いさや)市の過去と現在ということになった。この地域は、ここ数年再開発が進んでいて、高校生ぐらいの人でも変化が明瞭だそうなのだ。地元の人間ではない私は過去の姿に馴染みがないので「現在」のパートを担当ということになった。

 作業中の絵を取りに行った美術準備室で、水彩紙が貼られた嘴本くんの描きかけのパネルを目にした。秋の花々が盛られたカゴの絵で、塗りの途中だ。彼にしては珍しくゆっくりした作業かもしれない。

 美術室のほうで物音がした。私は絵から目を逸らし、自分の作業の準備を再開した。


 夕日も沈みかけた頃、私は道具をしまいだした。自宅が遠い私は皆より先に帰ることになる。今はまだ余裕があるからいいけど、共同製作の詰めになるところで早く帰らなきゃいけないことになると、罪悪感が襲うだろうなと今からモヤモヤした。

 帰りに、元気回復のために、もう一度美術準備室の彼の絵を見た。ちょっと失礼してパネルを抱え、間近で見つめる。

 バランスのよい配置に、迷いのない塗り。未完成ながらもこの時点で既にオーラが漂っている。なのに、これを放棄してしまえるなんて、なんて――なんて怖い人なんだろう。

 やっぱり嫌だな。もっともっと、彼から学ばせて欲しい。ううん、ホントのホントのところでは、学べなくたっていい。顔を上げれば、すぐそこにいてくれる。それだけでいい。


 ぽたり、と。……って、しまった!


 こぼれた雫に水彩絵の具が滲み、サーッと全身の血の気が引く。パネルを床に下ろし、ポケットに手をやって、ティッシュを探したが手に当たった感触はハンカチの布地だけだった。いいや、嘴本くん程の人の絵ならケチってられない。上から当てて水分を吸い取る。でも、滲んだところは取り返せない。どうしよう。

 

「好きにしていいと言ったけれど」


 ヒャッ!!

 その声に私は肩がすくみ上がった。反射的に振り返ってその声の主を確認をするが、その一瞬で後悔する。どうして、何で? 早退したんじゃなかったの!?

「本当にするとは思わなかったよ」

「嘴本くんっ、こ、これはっ。違う、違うの。ご、ごめんなさいっ」


 アーメン。


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