第十五話・「好き」
セナちゃんから、一緒に帰ろう、と声を掛けられた。まだ胸がドキドキしていたけれど、彼女がとても切実な顔をしていたので、私はそれを承諾した。
私自身、とても弱い人間なので、無意識に私の中のセンサーは弱っている人を捉えてしまう。そういう自分の性格はちょっと嫌い。でもセナちゃんを元気付けてあげたいと思うのは正直な気持ちだった。そしてそうすることで自分の気持ちも整理したいと思っていた。
このまま彼がいなくなってしまうのは嫌だ。でも、臆病で口下手な私が、どうやって彼を説得できるというのか。会議の時のあれが精一杯。もう、彼のあの冷たい瞳を覚えてしまった私には、起動エンジンを温めることも出来そうになかった。
「薫サマ、怖かったね」
と、校門を出たところでセナちゃんは呟いた。既に赤みがかった太陽光が彼女の髪と唇を輝かせていた。残暑は厳しいが、日没の時間は日々早くなっている。
小柄でぽっちゃりしたセナちゃんが落ち込んでいる様子は保護欲を掻き立てられる。ピュアな笑顔を見せることの多い彼女にとって、彼の負の感情は厳しかったのだろう。
「男の人って怒ったとき本当に怖いよね」
「うん」
嘴本くんが美術室を出た時、何人かが彼を追い掛けようとしたけれど星見さんの一喝で会議が続けられることになった。星見さんは普段は穏やかな人なので突然大きな声を出されたときには更なるショックで抵抗する力も失われてしまった。女の人に怒られたときでも胸にズキッとくるけど、男の人の場合、それに加えて肉体的な危険も感じてしまうから余計に怖い。他のみんなも同じように感じたせいか、続けられた会議はそれまでと一転して物凄く暗い雰囲気になってしまった。
「和美ちゃん」
「ん?」
「和美ちゃんは薫サマのこと、好き?」
「……えっ、えっ、ええっ!?」
セナちゃんは自分の事を話すかと思っていたのに不意打ちで私の事を訊かれ、声が上ずってしまう。顔の血管がぶわっと拡がったのが分かる。
「セナは、薫サマのことが好き」
「え、あ、うん」
改めて言うことでもないと思ったけれど。
そんな私の気持ちが表情に出たのか、それを見たセナちゃんは首を横に振った。
「ううん。和美ちゃんの思っている『好き』じゃなくて、薫サマのファンとしての『好き』じゃなくて、セナが薫サマの唯一人の人になりたいっていう『好き』なの」
セナちゃんは一応わたしの恋敵になるはずなんだけど、彼女に対しては敵愾心と云うものが持てなかった。情熱を言葉にできる彼女が羨ましかった。
「ホントはね、みんなでキャーキャー言っているだけじゃ不満なの。二人になりたいって思うことがよくあるの。だから前に羽織ちゃんが薫サマに嫌われたと聞いたとき、心の中ではこっそり喜んでいたんだよ。汚いでしょ。セナって」
「それは」
そう思ってしまうのは仕方の無いことだと思う。
「誰だって好きな人を独占したいと思うよ。セナちゃんは何も汚くなんてないよ?」
「……もっかい訊くけど、和美ちゃんは薫サマのこと、好き?」
どうしよう。正直に言うべきか。心臓が縮み上がる。でも、セナちゃんが本音を語ってくれたのに、こちらが黙っているというのもフェアじゃない気がする。
――ええい、彼のことを好きだっていう女の子は既にたくさんいるじゃない!
「うん、好き」
――これでもう、引き返せなくなった。
心臓が縮み上がったせいで、その圧力で勢いを増した血流がドドーッと顔を中心に全身を駆け巡る。誰かを好きだと他人に言うことは、こんなにも緊張を強いられるものなのか。
しんどい。
「好きだよ。でもセナちゃん、お願い。誰にも言わないで。そういうことで他の人からあれこれ言われるのは嫌なの」
「うん、分かってるよお。そんな、触れ回るような酷い事しないよ」
セナちゃんは小さく笑った。ごめんね。私の嫌な思い出のせいで、セナちゃんを信頼していないみたいな言い方をして。
「でもね、最近そうじゃないかって薄々感じてたんだ」
「そ、そうなの?」
「うん。和美ちゃんの薫サマを見つめる目がね」
――また私の気持ちはバレバレだったのか。
「会議のとき……和美ちゃんが羨ましかった。オロオロしてる私と違って、真っ先に薫サマを止めようとしたでしょ?」
「あれは……」
羨ましがられるような事じゃない。
「どうして私が、和美ちゃんのように出来なかったんだろう、って、自分がもどかしかったよ」
――それはたまたま、私がテーブルの端っこにいたから。
「でも、嘴本くんを少しも止めることが出来なくて、全然意味が無かったけどね」
「……薫サマ、もう美術部に来ないのかな」
「あんな風に言っちゃったら……」
言いかけて、駄目だ駄目だと自分を叱咤する。気休めでもいい。私は自分にも聞かせるために言い直す。
「でも、嘴本くんだって感情的になって言ったことだと思うから、落ち着いたら戻ってきてくれるかもしれない」
「うん……そうかな。うん、私も、気持ちが落ち着いたら、薫サマを説得してみる!」
その表情は、憧れるほどに純粋で、自分とセナちゃんの立場も忘れて応援したくなるくらいだった。
駅へ続く道のところでセナちゃんと挨拶をして別れる。付き合ってくれてありがとう、とお礼を言われた。わざわざ遠回りしてまで私と話をしたかったのは何故だろう。内容もほとんど無く、似たような話を上辺だけ変えて繰り返すだけ。
でも何故か私も話ができてお礼を言いたい気分だった。暖かかったから。
帰りの電車に乗り込んで車体が外に出ると、空が日没直後の色に変わっていた。
いつぞやの彼の言葉を思い出す。
『明日からもっと楽しくなるよ』
『このボクも美術部に正式に入部することに決めたからね。間近でボクとボクの作品に触れ合えるよ』
まるで予言のようだった。私は彼の作品に触れて感性を刺激したいと思うようになった。
彼の近くに居たいと思うようになった。
だから、あなたがいなくなると、楽しくなくなります。
窓の向こうに市立美術館の屋根が見えた。文化祭の後で、部の皆で美術館に行く予定があったんだった。
だから、あなたがいなくなると、楽しくなくなります。
差し込む夕日が熱い。どうして目の下に集中して差し込んでくるんだろう。
好き、と、窓に向かってかすれ声で呟き、セナちゃんに言った、独り言ではない意味ある言葉を思い出す。その時の胸の高鳴りと熱さだけが今の私の救いだった。