第十三話・私はヒロイン
わたしは手の甲で目を拭って受付の席に戻ろうとしたが、敷島さんに押し留められてしまった。
「!?」
彼女はわたしの胸を右手で押さえたまま左手でトイレの方向を指差した。
「か・お! ただでさえお客さん少ないんだから、そんな顔している人が受付にいたらみんな逃げちゃうでしょ」
「んっ……」
一瞬ムッときたけれど、すぐに敷島さんの言うことは尤もだと気づき、わたしは顔を洗いにそちらへ向かった。
洗面台の鏡に映るわたしの頬に涙の跡が残っていた。
――泣いたって意味無いのに。
じゃあじゃあと水を出して顔を洗うと少しはスッキリしたが、鏡に向かって笑顔のおまじないをする気にはなれなかった。
そのかわり、鏡に向かって悪態をつく。
『凍ってしまえ。わたしの心』と。
ふっ、と息を吐き顎を反らす。
そして何もかもを見下した目つきをする。
…………。
ほら、簡単だ。こうすれば何もつらくなくなる。
展示室に戻ってきたわたしに敷島さんがちらりと視線をよこしたが、それ以上何も言わなかった。
その後は特に何事も無く受付の仕事の時間は終わった。
明日は美術館の休館日だが、わたし達美術部は高校美術展の後片付けを丸一日かけて行うことになっている。のんびりできるのはもう少し先だ。
帰りの電車はいつもより早く着いたような気がした。
電車の中でわたしはは同じ事をぐずぐずと何度もリピートさせていたように思う。
夕食の席ではお母さんにまた「背中が丸いよ」と注意された。
自分の部屋へ戻ってきたわたしは深呼吸を一度すると身体から力を抜いてベッドに寝転がった。
ごろごろ。
――わたし、進むべき道を間違えちゃったのかなぁ。
ごろごろ。
――もしもあの時、わたしが美術室で噂話を聞いたりしなかったら。
ごろごろ。
ごろごろ。
ああっ、もうっ!!
何度同じことを考えれば気が済むのよっ!
わたしは、ぼふっ、と枕に向かってうつぶせに顔を沈めた。
……わかってるよぉ。
心の中で呟く。でも誰に向かって言っているんだろう。
今日、葛名君に髪を褒められた時、本当は嬉しかった。凄く嬉しかった。
……認めるしかない。わたしは葛名君が好きだったんだってこと。
だけど、遅すぎる。
葛名君の言葉は中学の時に聞きたかった。そうしたらきっとわたしの人生は変わっていた。
……ああ、違う違う。きっと中学の時には絶対聞けなかった。そしてわたしも自分の想いに気づくことはなかった。
たとえ葛名君の言葉が真実だったとしても、彼がわたしの側にいたならば、わたしだけに向けられるはずだった悪意が葛名君にも波及するようになっただろう。
人間の悪意は底なしだから、一度悪い方に考えたいと思えば何が何でもそう思うために周りのものも平気で飲み込んでいく。
そんなことにはなってほしくなかった。わたしが葛名君に対してどういう想いを持っていたかに係わらず、それだけは避けておきたかった。
だから、わたしが美術部を離れたのは間違ってなかったんだ。
………というのは言い訳か。
もっとハッキリ言えば、わたしのせいで葛名君がからかわれ、そのせいで葛名君がわたしを避けるようになることを恐れたんだ。
もともとわたしは、呼ばれたくないあだ名を一番好きな人から言われたときから恋心を持たないフリをするようになった。
嫌いな人から嫌われるより好きな人から嫌われる方が何倍も傷つくから。
そう、わたしの行動の基準は「嫌われるか・嫌われないか」だった。だから「好き」という概念なんて考える余裕はなかった。
けれどそんなわたしが葛名君への想いに気づけたのは「彼」がわたしに恋を思い出させてくれたからだ。
『嘴本くん……』
枕から顔を上げると呼吸ついでに呟く。目がチカチカしたのは闇の中から光の中へ急激に戻ったからだけではない。
珠美ちゃんがどうしてあんなに悩んでいたのか、今頃になって実感した。
いっぺんに二人の男の子のことを思い浮かべると、頭の中がはちきれそうになるんだ。
わたしの場合と珠美ちゃんの場合とはちょっと違うけれど、気持ちは分かった。
罪悪感と甘美な妄想とがごちゃまぜになってわたしの胸をくすぐる。
こらえきれない感触にわたしは右手でシーツをきゅっ、と掴んだ。
好き、好き、好き、好き、好き、好き!
好き好き好き好き好き好き!
嘴本くん……。好き……。
心の中で叫びながら、同時に別のわたしが彼にごめんね、と言う。
今のわたしは嘴本くんを想って叫んでいるだけとは言い難い。
胸のざわめきを押さえるために、もう一人の男の子を頭の中から追い出そうとして、嘴本くんの名前を使っている。
好き、好き、好き、好き、好き、好きだよう……。
好き、好き、好きぃ……。
強引なやり方だけど「好き」の連呼でわたしは昂ぶっていく。
嘴本くん、……薫くん。
わたしの背中が曲がる。
強く目をつぶると涙が滲んできたがわたしはそれを拭わない。
浸ってみたい。少女マンガに出てくるヒロインになりきって世界にどっぷり浸かりたい。
好き、好き、好き、好き……。
カオルくん、カオルくん……カオルゥ……。
呼吸が激しくなる。
ただただ「好き」という言葉と彼の名前とを胸の中で何度繰り返しただろうか。
呪文のように言葉だけを繰り返す。
ヒーーッ。
変な音が聞こえる、と思ったらそれは私の嗚咽だった。
体から力が抜けるまで想いの限りわたしは続けた。
……。
わたしはベッドから身を起こす。
気分が醒めていく。
そしてむなしくなってくる。
嘴本薫くん。
彼は何よりも美しいものを好む。それはわたしに一番縁遠いものだ。
彼を好いている女の子は多い。誰もがわたしよりきれいでわたしより積極的な女の子だ。
どう考えても適わない恋だから一緒のクラブにいられるだけでいいと思おうとしていたのに。
わたしはとうとう現状に満足できなくなってしまった。
葛名君の言葉のせいで、自分みたいな人間でも好かれる可能性はゼロではないと思ってしまったんだ。
馬鹿みたいと言われるかも知れないけど、そのちょっぴりの可能性に期待しているわたしの感情が消せない。どうしても消せない。
「んっ」
涙が喉に落ちた。
わたしはぎゅっ、と目をつぶって頭をぶんぶんと振ると鞄からペンケースとノートを取り出した。
わたしは時々気晴らしのためにノートに落書きをすることがあるのだ。
おまじないというわけではないけれどある程度気は紛れる。
パラパラとノートをめくっていると中に折りたたまれた紙片が入っているのを見つけた。
「?」
わたしは不審に思いながらその見覚えのない紙を開いた。そこには女の子の文字が書かれていた。
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せきねさんへ
私はせきねさんと同じ美術部だけど、
特に友達と言う訳ではないから忠告させてもらうね。
今日みたいな、いかにも「強がってます」なんて顔は
友達の前では見せないほうがいいよ。
心配させるだけだから。
何気ない表情とっているつもりだろうけど、
顔が固まっててバレバレだった。
今日、受付を一緒にやったのが友達でない私で
ちょうどよかったのかもね。
昔あなたに何があったなんて聞く気はないし、
聞く権利もないからね。
友達に甘えるなら同情引くような顔して甘えればいいし、
隠したいならもっとうまい演技をしてね。
今日みたいな中途半端なのが一番悪いと思うわ。
明日はみんなで片付けだけど、
もうみんなの前で今日みたいな顔はやめてね。
それじゃ、また明日。
はおり
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敷島さんだ…!
頬がカーッと火照るのがわかった。罵声や嫌みなら大抵耐えられるわたしだけれど、こんなふうに気を遣ってもらうことには抵抗力がない。
……でも、思いっきり見透かされていたんだ。
何かの本に「嫌がらせを受けても平気な顔をして無視していれば向こうもやる気をなくしてしまう」って書いてあったからそれを実践していたつもりだったのに。
駄目じゃん、わたし。中学の頃からずっと恥をさらしてきただけ?
ますます昔を思い出すのが嫌になったけれど、でも。
逆に言えば今のわたしは凄く幸せなのかもしれない。どうしてみんな優しいんだろう。不思議。
わたしが恋を思い出せたもう一つの理由は、クラスメートや美術部の皆が、わたしの「嫌われないだろうか」という不安を忘れさせてくれる人達だったからだと思う。
心を閉ざすことに憧れていた。
何を馬鹿なこと言ってるんだ、と思われるかもしれない。
でも、そうだった。
友達がいなかったら心を閉ざしたフリをすることができる。
おしゃべりする必要がないから。
でも本当は心を閉ざすことができるのは強い人だけなんだ。
わたしは誰からも話し掛けられたくないと思う一方で誰かが話し掛けてくれるのを待っていたのだ。
憧れていたのは心を閉ざした後のことだった。わたしが今まで読んできたマンガの中にもしばしば心を閉ざしている女の子が登場した。
彼女の心の扉が開かれる過程を見るのが心地よかった。
その役を果たすのは、その子がサブヒロインなら主人公の女の子で、その子が主人公ならカッコいい男の子であるというのが定石だった。
その人に。
……向かい合うことが出来なかったその人に、わたしは心の中で「さよなら」と呟いた。
第1話の前書きで述べたように、本作は以前にも公開していましたが、それは今話(の途中)まででした。次からは新規で書いていくので文体が変わっているかも知れません。違和感があるかもしれませんがご了承ください。