第十二話・再読
恋すてふ わが名はまだき 立ちにけり 人しれずこそ 思ひそめしか (壬生忠見)
県の高校美術展は10月2日(水)〜6日(日)の5日間一般公開される。
今年の当番校である桑苑学園の美術部であるわたし達は、開催を明日に控え、市立美術館の展示室を借りて、入選した作品群を指定の位置へと配置していった。
かくいうわたしの描いた作品も「入選」の栄誉を受け、展示室の片隅に飾られることとなった。
美術室で描いている間は他の部員の人たちにさんざん見られていたのに、壁に掛けられた状態で見られるのはなぜか新鮮に恥ずかしい。
これでまた一般のお客さんが来たらわたしの絵をどんな目で見るのだろうか。想像するだけで全身がむず痒くなる思いだった。
「和美ちゃん。手離すから気をつけてー」
「あっ、うん」
セナちゃんの声に、わたしは額 (がく)を持つ手に力を入れ直した。
「離すよ……。ん、よし」
水彩画をまた一品壁に掛ける。
「嘴本くん! その位置から見てどう?」
「OKだよ。うん。いいバランスだ」
「それじゃ、次。あっと、これ、野村さんのだ」
「わー、ほんとだ!」
「こらー、稲城、関根! 鑑賞するのは後にしろ! 作業が先だ」
「はぁい」
「ほら、二人とも。こっちだよ。急ごう」
共同の作業っていうのはとてもいいと思う。『作業』だから何も緊張することなく普通に何度も嘴本くんと話をすることができる。それがたとえ事務的な内容だけだったとしても『共同作業』だから息を合わせることが多いわけで。大きくて重い絵を苦労して彼と一緒に掛けたときに微笑みあえたのは美術部に入ったことによる最大の役得だった。
すべての作業が終わったのは午後八時半ごろだった。
「よし、それじゃ全員1階ロビーに集合!」
牧瀬部長の声に皆はほっと息をつき、ぞろぞろとロビーへと向かっていった。
ロビーのテーブルの上にはいつの間に用意されたのか、コンビニエンスストアの袋に入った飲み物のペットボトルが用意されていた。
「はい、皆さんお疲れ様ーー」
それに応えて、全員の『お疲れ様でしたー』の声が重なる。
「あ、もう、お茶でもジュースでも好きなの勝手に取って飲んでいいからなー。もう夜も遅いので、飲んで一息ついたら速やかに帰るようにー。じゃ、その間に明日からの予定表を配るー。回せ」
回ってきたプリントには、高校美術展の展示会場前での受付と見回り役のスケジュール表が印刷されていた。
わたしの割り当ては……あ、日曜日のに当たってる。
受付の仕事をする日は学校に欠席扱いされずに休めることになっているが、それが日曜日だと損をしたような気になる。
……敷島さんと一緒かぁ。
わたしと一緒に受付をするのは敷島さんだった。目を上げると、おそらくわたしと同じ理由でこちらを見た彼女と目が合った。
わたしはプリントを指差すと、よろしく、と口パクして小さくうなずくように頭を下げた。
……そりゃ、嘴本くんと一緒の時間になりたかったという本音もあるけれど、そこまでわたしは欲張りではない。
嘴本くんの方はと見ると彼は飲み物に手もつけず、じっとロビーの壁を凝視していた。 そこには近々この美術館で開催される予定の展覧会のポスターが幾つか貼られていた。
「薫サマ、何を見ているの?」
嘴本くんの隣に座っていたセナちゃんがわたしの訊きたいことを代わりに訊いてくれた。「ああ、あのポスターを見ていたんだよ。あの絵を描いた人物……絵には見覚えがあるんだけど名が思い出せなくてね」
「うーん、どっかで見たような絵柄だよねぇ」
彼が指し示したポスターには人物画が印刷されていたが、ロゴは『第34回桑苑現代美術展』とだけ書かれていて絵の作者名はわからない。
でも偶々わたしはその名前を知っていた。
「……小川清明」
無視されたらそれでいい、ぐらいの気持ちでつぶやくと嘴本くんは顔をほころばせてわたしを指差した。
「そうだ、小川清明だね。思い出したよ。『太陽を射る少年』の作者だ」
「うん……。前に上野公園の美術館で見たことあったから」
はわぁ……。喜ばれている……。喜ばれているよ……。
「関根くん、彼の作品は好きなのかい?」
「うん……好き……」
「僕も好きだよ。彼は小さい子供の目の描き方に長けているからね」
――ああっ。
――あああっ、今の場面、録音だけでもしておきたかった……!
「ふむ……関根?」
「はイ?」
牧瀬部長がわたしに話を持ちかけた。馬鹿なことを考えていたのでちょっと声が裏返り気味になってしまった。
「それ。『桑苑現代美術展』。文化祭が終わったら美術部のみんなで行ってみないか? 時期的にちょうどいいし」
「美術部みんなで?」
「おう。文化祭が終わったら3年生は実質引退だ。締めに皆で遊びに行くのもいいだろ」
「あ、はいっ」
身体が震えそうになった。顔が熱くなってくるのがわかる。 牧瀬さん、それは……。
俗に言うデートというものではありませんか?
無理をしなくても、美術部にいるというだけでこんなに心地良い空気に包まれることができるなんて。
美術部は基本的に個人作業だけど、この間の合宿や今回の展示準備のおかげで部員同士の距離は大分縮まったような気がする。
――これでいいのかも。
片付けを終えて美術館を出ると、夜の外気が心地よかった。
「和美! 今日は美術館に行くんじゃなかったの?」
日曜日。お母さんの声にわたしはぼんやりと目を開けた。
「ん……。行くけど昼からだよ……」
「もう10時半だよ」
「えっ……あ、ホントだ」
「ごはんは出してあるから温めて食べなさい」
「ん……」
わたしはベッドから身を起こした。
今朝は遅く起きていいからと思って二度寝してしまったようだ。
眠い目を擦りつつ、机の上の鏡を手に取って中を覗き込む。
ニコッ。
……結局わたしはあの合宿の日以来、鏡に向かって笑顔を向ける練習を毎日続けていた。
もちろん恥ずかしいから一人でいることを確認してからでしかやらないけれど。
有田先生はこれが綺麗になるためのおまじないだと言うけれど、本当に効果があるのかはわからない。
実はわたしは誰にも言えない一瞬の自己陶酔を楽しんでいるだけなのかもしれない。 どうせわたしを美しいと褒める人はいないのだから、せめて自分だけでも褒めてやりたいという思いで。
高校美術展はやっぱりプロの作品展ではないだけに、あまり人の興味は惹かないようだ。
それでも美術館は平日よりは人の入りが多いようだった。
訪れる人は県内の高校生(多分美術部関係の人)が多く、他にはときどき美術ファンと思われるおじさんやおばさんがやってくる程度だった。
一緒に受付をしている敷島さんとわたしはそれほど親しい間柄ではないので、二言三言どうでもいい会話をしてはしばらく黙り込むという繰り返しの時間を過ごしていた。
「すいません……いいですか?」
退屈になってうつらうつらと船を漕いでいたわたしを、男の子の声が目覚めさせた。その人は左手に鞄、右手に高校美術展の案内チラシを持っていた。
わたしは顔を上げ、どうぞ、と展示室内部を指し示そうとした。
――しようとした。
……けれど、できなかった。
――できなかった。
その人の顔を見た瞬間、わたしの身体も表情も彫像のように固まってしまったのだ。
「あ、関根さん! あっれー。ひさびさー!!」
わたしは声も出せなかった。わたしの中の全ての時間が止まってしまったかのようだ。
「関根さん、こっちの方の高校に行ってたんだ……」
わたしは自分の二の腕を軽く叩かれる感触を覚えようやく緊縛から解き放たれた。
叩いたのは敷島さんだった。
「大丈夫? 関根さん?」
「あ……。ん……」
「知り合いなの?」
「う、うん…中学時代の同級生」
ちらりと彼を見上げる。
「葛名君……。久し振り」
そう、彼。葛名弘明君。
彼はわたしが中学生のとき美術部で一緒だった男子だった。
わたしは彼とはわりと仲が良かったのだが、ある時、彼に纏わるちょっとしたことがあって部にいるのが辛くなりそこから逃げてしまったのだった。それ以来彼との交流も絶たれていた。
彼のことを思い出す度にわたしの心は深く沈んでいったのに、今ここで本人と出会ってみるとそんな不快な感情以上の別の感情が胸を占めたみたいだ。
「高校どこ?」
「桑苑学園……」
「あー、そんなところ行ってたんだ」
「うん……」
すると、敷島さんが人差し指でわたしの肩の辺りを突付いた。
「関根さん、一緒に回ってきたら?」
そのままその指を展示室の奥に向けた。
「えっ。でも……」
「ちょうどいいでしょ? 見回り兼ねて。何か話したいこといっぱいありそうだし」
敷島さんはわたしと葛名君を交互に見やった。
「……」
彼女の申し出は、有り難いようでおせっかいなようで複雑な気分だった。けれどせっかくの厚意なのでわたしは葛名君の方をちらりと見た後、じゃあお願い、と言って立ち上がった。
わたしたちは展示室の壁沿いにゆっくりと並んで歩く。
「どうして葛名君、今日ここに?」
「うん。このあいだ美術部の顧問の先生からこれもらったんだ。今日、こっちに来る用事あったからついでに」
葛名君はピラピラと美術展のチラシを振ってみせた。
「美術部……葛名君、高校でも美術部入ったんだ」
「うん。そっちもだろ?」
「高校はどこ?」
「ああ、山祥高校。……あっ、この絵、結構いいな」
山祥高校はわたしがかつて進学しようと思っていた公立高校だった。
「そういえば関根さん、髪、伸ばしてるんだね」
「!」
振り向きざまに彼が言った言葉に息が詰まりそうになる。
――どうして、どうして一番最初に気づくかなぁ?
――クラスメートや嘴……美術部の人はまだ誰もその事に触れていないのに。
「中学のころめっちゃ短かったけど俺は今の方がいいと思うよ」
……考えてみれば当然かもしれない。
毎日見ているクラスメートよりもしばらく会っていない人の方が変化には気づきやすいものだ。
でも、最初の人がよりにもよって葛名君になるなんて思ってもみなかった。
胸の奥で小さな鈴の音が鳴ったような気がした。
……何だろう、この気持ち。
「あ……れ? ごめん。俺何か変なこといったか?」
わたしの表情を見たためか、葛名君は慌てたように言った。
「ううん。なんでもないよ。何も別に葛名君変なこと言ってない」
「そう……か? イヤ、マジな話、俺が変なこと言ってたなら遠慮なしで言っていいからな。中学の時もそれで嫌な感じになってしまっただろ?」
「え?」
「ほら、2年の頃だっけ? 関根さん、急に俺のこと避けるようになっただろ?」
え……? わたし「が」葛名君を……?
「俺が話し掛けようとしても睨み付けるしさ、美術室でもわざわざ俺の方に近寄らないように不自然に場所移動したりさ」
それは……。ちょっと待って。それは違う。逆。避けだしたのは葛名君の方だ。
「何か俺、関根さんを怒らせるようなことしてしまったかなって心当たりを探ってさ…」
「……」
「そしてとうとう美術部に来なくなったから、すげえ気になったんだ。『俺のせいか?』なんて結構悩んだんだぜ」
あの時のこと……。葛名君が友達にからかわれていたときのことをわたしは思い出していた。
あれがきっかけで葛名君はわたしを避けるようになったはずだ。
違うの? どうしてわたしが避けただなんていうふうに覚えてるの?
「あっ、これ関根さんのか。へぇー。いいねえ。水の感じよく出てて」
「……」
わたし達はわたしの描いた絵の前に来ていた。
けれど、幸か不幸か今のわたしは彼にそれを見られても何も感じなかった。
「あのさ、今だから言えるけどさ。俺、関根さんの事、ちょっと好きだったんだぜ」
「嘘ッ……!」
反射的に声が出た。
――いくら何でもそれは嘘だ。
――どうしてそんなことを言うの?
葛名君は苦笑して舌を出した。
――それは照れ隠しのつもり? それとも今言ったことは冗談だという意味?
「……それ、嘘でしょ? だって学校じゃわたし『ネズミ』って男子から呼ばれてて馬鹿にされてて……」
わたしは何かを否定したくて先に自分を卑下した。
葛名君は頭を掻いた。
「そのあだ名は俺が美術部に入ってからすぐにクラスの男子から聞いてたよ。なんかニヤニヤ笑いながら関根さんの悪口言っててさ」
「やっぱりそうでしょ? わたしと同じ小学校の男子だと思うけど。それ」
「だけどさ、クラブ活動しているとき見てても……あー、ごめん。最初のころ関根さんを噂のせいで興味本位で見ていたことは確かにある。でも関根さんって噂されているような、その……気持ち悪い女の子じゃなかったしさ。その……ブスでもないしさ」
彼は言葉を選んでくれているのだろう。
「それに、だって俺と話しているときとか全然普通だったじゃん」
葛名君は自分とわたしとを交互に指差しながら言った。
……ああ、そう言えばわたし、男子では唯一葛名君とまともに会話できてたかもしれない。
「俺のクラスにすぐ誰と誰が好きあっているとかいう奴がいてさ、俺もよくからかわれていたんだけど……。ん、まあ、それで関根さんのことも意識するようになっちゃってさ」
何、それ……。
「だから無意識のうちに関根さんに馴れ馴れしい態度を取って逆に嫌われてしまったんじゃないかとも考えたんだぜ」
「嫌ってた……ってわたし、そんな態度取ってた?」
葛名君は、そう思ったけど、と当時わたしが取った態度について繰り返した。
「美術部来なくなった理由とか聞きたかったけど本当に俺のせいだったら落ち込んで立ち直れそうになかったから結局話し掛けられなかったんだ」
……そんなことが。
避けるようになったのはわたしの方?
ぐるぐるとわたしの頭の中で記憶と感情がごちゃまぜになりながら巡った。
もしも、彼の言うことが本当なら…!
本当なら?
わたしはどうしようというのか。
わたし達は一回りして展示室の入り口に戻ってきた。
「なかなかレベル高い絵がそろってたな」
「そう?」
ごちゃごちゃ考えながらもわたしは適当に葛名君の言葉に相槌を打って歩いていた。
「(東京)都の高校美術展はもうちょっと後なんだけど参考になったよ」
「うん」
「あ、そうだ。ちょうどいいや。お返し。今度は都の高校美術展に来てくれよ……って山祥は当番校じゃないけどな」
「うん。時間が合えば」
「えーと、一般公開の日程は……ちょっと待って。鞄に入れておいたはず」
葛名君は鞄を開き、中を覗き込んだ。
その時わたしは彼の鞄にフェルトのマスコットがくっついているのを見つけた。
「あ……かわいい。何それ?」
「ん? ああ、それか?」
制服を着た男の子のマスコットだった。
わたしの目に狂いがなければその顔は葛名君によく似ていた。
胸の中にもやもやした変なものが走った。
「うん。同じ美術部の女の子からプレゼントされたんだ」
笑みを隠しもせず葛名君は語った。
「付き合っている人なの?」
――何でそんなこと聞いてしまったんだろう。もう、口が滑ってしまったから遅いけど。
「ん、まあ、そんなとこ」
……そうか、わかった。
葛名君がわたしのことを好きだったなんて言った理由が今わかった。
彼は今、幸せなんだ。だからそんなことを言っても心が揺らぐことがないんだ。
――わたしは揺らいだけど。
やっぱり彼がわたしに抱いていた感情は普通の友達感情だったんだ。
ただその過去をちょっと美化してみたかっただけなんだ。
もしも今恋人がいなかったのなら、それはわたしと付き合いたいという遠まわしな言い方に受け取られる。
当然彼はそんなつもりではなかったのだ。
そうだ。そうに決まってる!
わたしに東京都の高校美術展の日程を教えてくれた葛名君はそれじゃ、と別れを告げて美術館の出口へ向かった。
その背中を見つめながらわたしは彼と手をつないで歩く女の子の姿を想像していた。
もしも、あの時――。
Ifの世界を想像してしまうわたし。
そしてそれが全く意味の無いことであると分かりわたしは自己嫌悪に陥った。
――願わくはその恋人という人はわたしに全然似ていませんように。
自分の行動を正当化するための精一杯の願い。
どろっ……。
あ……分かる。自分の心に黒い墨が流れるのが分かる。
わたし、今、嘴本くんと一緒の受付になれなかったことを改めて悔しがっている。
彼がここに来た時に嘴本くんと仲良さそうに会話しているところを見せびらかしたかった。そう思ってる……!
いやな女だ。わたし。
……嘴本くん、ごめんなさい。わたし、あなたを利用しようとした。
「関根さん?」
敷島さんの声にわたしは振り返った。
そして、しまった、と思った時には遅かった。わたしは頬に熱い水滴が伝うのを感じていた。
敷島さんが驚いて立ち上がり、わたしに駆け寄ってくる。
ああ、ああ、ああ!!
馬鹿だ。わたしは馬鹿でどうしようもない女だ。
そして今、敷島さんにですら甘えたくなっているわたしが心底情けなかった。




