第十一話・恋愛指数
昨日から電車通学の行き帰りの時間を使って久し振りに小説を読んでいる。
今朝までで全体の3分の2とちょっとまで進んだので、帰りの電車の中で読了できるだろう。
学園恋愛ものだった。以前、わたしの好きなマンガをノベライズした作家さんのオリジナル作品だ。
主人公の女の子は、大好きな先輩がいるのにも関わらず、想いを伝えられず悶々とした日々を過ごしている。けれど親友や姉の励ましとアドバイスを受けて少しずつ勇気を得ていくというストーリーだ。
どこかわたしと重なる部分があった。
昼休み。いつものように机を寄せ合って昼食をとる時間がやってきたが、静香ちゃんはわたしの席にお弁当箱の入った包みを置くと、椅子には座らず片手をお祈りのように顔の前に立てた。
「ごめん。先に食べてていいよ」
そう言うと静香ちゃんは小走りにノートとペンケースを持って青野くんの席へ向かった。
たった今終わった四時間目の数学の授業のわからなかったところを教えてもらいにいくのだろう。
わたしは紀子ちゃんと顔を見合わせると、それじゃあ先に、と頷きあって二人で洗面所に向かった。
「勉強熱心だねぇ。静香は」
なんて、紀子ちゃんは悪意の無い皮肉を口にする。彼女の眼鏡のレンズがきらりと光った。
わたしは笑いながら、積極的なのはいいことだと思うよ、と応えた。
青野くんはこのクラスの中でトップクラスの成績の良さなので、質問しに行くことは不自然には見えない。
わたし達4人組の中で、想い人を明らかにしているのは静香ちゃんだけだ。
わたしは……まだ口外できるような段階ではないし(将来的にその段階にいけるかどうかは甚だ疑わしいが)、紀子ちゃんはその手の話題が好きなくせに自分のことは『ヒミツ』と言ってカワイコぶる。
珠美ちゃんは、言葉にこそ出していないがなんとなく態度で誰を想っているかわかる。授業中、その人の方を見つめていることがよくあるから。わたしですら分かるのだから他にも気づいている人はいるだろう。
現金なもので、わたしは最近他人の恋愛沙汰が気になるようになった。
これまで恋愛関係の話になるとさりげなく逃げていたわたしだが、今ではそういう話題になることを密かに待っている。あくまで待つだけ。
帰りの電車の中でも、いちゃいちゃしているカップルに目を奪われたりして――って、これじゃデバガメか。そのせいで今読んでいる小説を読み終える時間が1日半から2日に増えたのは内緒だ。
手を洗い終えたわたし達は教室に戻ってきたが、入り口のところに一人の男子生徒が教室の中を覗くように立ち塞がっていたのでわたしは小さく、すいません、と声を掛けた。
「ああ、悪い」
彼は振り返ってそう言った。その顔は……有名人のものだった。
この学校のもうひとりの王子様――風間圭。
人の名前を憶えるのが苦手なわたしでもそのフルネームは簡単に思い出せる。
彼はモデルの仕事をしていて、よく雑誌にその姿が載っているのを見かけるのだ。
「このクラスに柚木っているだろ?」
表情を変えることなく、ぶっきらぼうな物言い。
彼には友達が少ないと言う噂を聞く。これが普段の態度なら本当かもしれない。女子の間でも、彼を称えるおしゃべりが多い一方で、冷たくて近づきがたいという声も上がっていた。
「柚木――珠美ちゃん?」
「いるなら呼んで欲しい」
「珠美ちゃんは今日風邪で休みだけど」
「風邪? ……そうか。じゃ、出直すことにする。すまなかったな」
そう言って風間圭は手に持っていたハンカチをブレザーのポケットに入れて去っていった。
ハンカチは女物だった。その柄には見覚えがあった。
「なんだろうね」
紀子ちゃんが内緒話のようにわたしの耳元で小さな声を出す。
勿論わたしに答えられる筈もなく、さぁ、と言うしかなかった。でもいかなる経緯で珠美ちゃんが風間圭にハンカチを貸したのかは気になる。
青野くんの席では静香ちゃんがうんうんと何度も頷いていた。
2学期が始まっていた。
高校美術展も近づき、美術部には何となく慌ただしく緊張した雰囲気が漂っていた。
桑苑学園は今年の当番校なので会場設営や来客の受付の仕事も回ってくる。
特に2年生部員の永山さんや野村さんは、修学旅行が間に挟まっていて気分的にも大変だと思う。
わたし個人の作業はほとんど終了しているのだが、桑学美術部として活動して初めて部外の人に見てもらうということもあり、気分は高揚していた。
実は中学のときも一度だけ展示会に出品した覚えがあるが、あのときはわたしは学校の宿題のように提出して「はい、おしまい」という感覚だった。
時間と強制感にとらわれ、いかに自分がいい加減に絵を描いてきたかということは今にして分かる。
……そう言えば、もう一作、描きかけがあったんだけど、あれは中学の美術室に今でも置きっぱなしなのだろうか。もう捨てられちゃったのだろうか。
どんな絵だったか思い出せない。無理に思い出そうとすると余計なことを思い出しそうだ。
わたしは嘴本くんの後姿を見つめることが多くなった。何故後姿かというと彼の作品を見ているフリをすることが出来るからだ。いや、実際に作品も見ているんだけど。
美術部員として彼の作品を見ていることは不自然ではない。
気づかれても、作品の感想を言ったり、道具の使い方の意見交換をしたりすることでごまかすことが可能だ。……こうやって言い訳を作っておくところは静香ちゃんと同じか。
でもそれで気づいたこともある。
嘴本くんがペインティングナイフを構える手、針金を曲げる手、彫塑べらを返す手。彼の手に惹かれていた。手ばっかり見ているけど後姿だとそこが気になるのだからしょうがない。
わたしがコンプレックスを持つくらいに女性的な美しさを持つ彼だけど、決して華奢というわけではない。器用に動く大きな手を見ていると、ああ、男の子なんだなぁ、って思う。
小さい→繊細、大きい→大雑把、などという単純な先入観を持っているからなのかどうか、そのギャップは心地良い。
手に関して言えば嘴本くんだけでなく星見先輩でも素敵だなと思う。
帰りの電車の中野駅の辺りで小説を読み終えた。途中までは面白く読み進められたけれど、ラストが気に入らなかった。
主人公のあこがれの先輩には既に恋人がいたために、結局主人公は振られてしまった。
でも主人公は想いを伝えることができて満足した、スッキリしたというのだ。
わからなかった。
失恋したのに晴れやかな顔をしているなんて絶対おかしい。
主人公が苦しんでいたのは、好きな人と想いを交わせなかったからではなく、したいことができなかったからというだけなのか。
想いをただ伝えるだけで良いというのならそれは唯の自己満足だ。
叶わなくてもいい想いなんて、信じられない。
――信じられない。
だってわたしは苦しいのに。
わたしが人を好きになったって――その恋は絶対叶う筈がない。
だから苦しいのに。
家に帰ると珠美ちゃんの家に電話した。
もう身体は大丈夫だから明日は学校に行けるよ、という返事だったので安心した。
電話を切った後に今日の風間圭のことを伝えるのを忘れたことに気づいたが、明日言えばいい事だと思ってかけ直しはしなかった。
次の日の朝。教室に入るともう珠美ちゃんが登校してきていた。
「おはよー」
「おはよー。身体、もう大丈夫?」
「うん。もう全然大丈夫〜」
両手を振って珠美ちゃんはアピールした。
「あ、そうだ。珠美ちゃん。昨日ね、風間圭が珠美ちゃんに会いに来たよ」
「葉月くん!? ほ、ほんと?」
珠美ちゃんはぎょっとしたように大きく目を見開いた。思っていた以上に大きな反応だった。
「な……何て?」
「用件は言わなかったけど……ハンカチを返しに来たみたい」
「あ、そっか!」
珠美ちゃんはガタゴトと音をたてて立ち上がり、慌てて教室を出て行った。キュキュキュと廊下を走る上靴がリノリウムを擦る音が聞こえた。
わたしは彼女の行動に戸惑いつつ自分の席について鞄を置く。しばらくして珠美ちゃんは戻ってきた。
「まだ、来ていなかった…」
わたしの机に手をついてため息のように呟く。
「何か、あったの?」
ここまで極端な行動を取られては気になってしょうがない。
「うん……ちょっとね」
珠美ちゃんはわたしの机に両手をついたまま、沈みこむようにしゃがんだ。
「どうしたのー?」
半分笑ったような声を作って、珠美ちゃんの手の甲をさすさすと撫でる。
「ねえ、和美ちゃん。恋愛って積み重ねじゃないんだね……」
机の陰に沈んだまま、出し抜けにそんなことを言った。
「え?」
「ちょっと優しくされただけなのになぁ」
言っていることがバラバラで意味不明だった。
でも珠美ちゃんにものすごくドラマチックな出来事があったのではないかと妄想してしまう。ねえ、珠美ちゃん。わたし、ちょっとウズウズしてる。
「ねえ、和美ちゃん。二人の人を同時に好きになったことある?」
机の陰から日の出の太陽のように頭を上げると、珠美ちゃんはわたしの目を見てそう言った。
その「二人」っていうのが誰と誰を指しているのか容易に推察できるというのはまずいんじゃないでしょうか、柚木珠美さん。いや別にまずくはないか。
「ないけど……。そういうことは『わたしは』ないけど、そんなに珍しいことじゃないんじゃないの? むしろ普通?」
恋愛履歴書の記入欄がが空白だらけのわたしは、無責任な発言をしてしまう。
「二人でも三人でも、様子を見てどっちがいいかゆっくり決めればいいんじゃないの?」
「うーん。……あのね、和美ちゃん。一般論としてよ。一般論として考えて。片想いのうちに浮気するっていうのは許されると思う?」
「え? 片想いって、それは……浮気が成立しないでしょ。そりゃ恋人とか夫婦になってから他の人を好きになったらいろいろ問題が起きそうだけど」
「でもね。……えっと、例えばの話よ。ずっと前から『この人だ!』って決めていた場合はどう? もう一人の人とのちょっとした出会いで、ずっと積み重ねてきたと思っていた想いが、あっさり覆るなんてイヤじゃない?」
「……」
「思うだけなら、タダだよん」
「わっ」
「わっ」
突然(というかわたし達が気づかなかっただけだけど)、紀子ちゃんが登場して珠美ちゃんの両肩を揉むようにポンと手を置いた。
おはよー、と3人の声が重なる。
「なーんか面白そうな話してるじゃん」
「あはは……」と珠美ちゃんが変な愛想笑いをする。
「何人好きになろうが、思うだけならタダ。誰も文句は言わないよっ」
「むー」
何故か得意げな表情の紀子ちゃん。納得いかない表情の珠美ちゃん。
「黙ってれば、そりゃ誰も何も言わないだろうけど、だから本人の心の問題としてどうかと思ってるの」
「珠美ちゃんは恋愛潔癖症ね」
「えー? じゃなくて一般論としてよ。例え自分の心の中だけの事としても、誓いを破るなんて、それまでの自分の感情は何だったのかというコトになるでしょ?」
珠美ちゃんが口を尖らせる。
「ふむ。だからさ、思うだけならタダ。心に誓いを立ててたとしても恋愛指数が低かったら新しい恋にあっさり抜かれちゃうよ」
「恋愛指数?」
「ふふん、最近わたしが理科Iの授業中に気づいた法則」
紀子ちゃんはルーズリーフを一枚取り出して机の上に置くと、シャープペンシルでそこに数式を書いた。
W = F × s
「Wは仕事、Fは力、sは距離、ってことね。とりあえずベクトルは無視の方向で」
「うん」
理科Iの教科書どおりだ。物理分野の。
「物理で言うところの『仕事』というのは使った『力』に移動した『距離』を掛け合わせたもの」
紀子ちゃんは両手の人差し指で「×」の形をつくる。
「だから、同じ条件の下で100kgの物を1cm動かすのと、1kgのものを100cm動かすことは仕事としては同じ値。これはいいよね?」
「うん」
「問題なのはね、s=0のとき。移動していないときは。このときF……力がどんなに大きくても仕事量はゼロのまんま。つまり何も仕事をしていないのよね」
「ん……」
「二人の人がいて、100kgの物を動かそうとして失敗した人も、1kgの物を動かそうとして失敗した人も、どっちも仕事は0ということで同じなのよ」
「何か変ね、物理って。100kgの物を動かそうとした人のほうが頑張った感じがするけど」
私は疑問をそのまま口に出す。でも紀子ちゃんは不敵に笑った。
「わたしはそうは思わない。これって人間関係でも使える真理じゃないかと思ってる」
「どうして?」
「だから。『仕事』を『恋愛指数』に置き換えるのよ。『力』は本人の想いの力。『距離』は二人の間の距離……心の、ね。その縮まり具合。想うだけで実際に近づく為の行動に移さないなら距離が縮まるはずもなくs=0。どんなに想っても……つまりFが大きくても……掛けたら0だから恋愛指数はゼロにしかならないの。F=0の何も想っていない人の恋愛指数と変わりないのよ」
「……ねえ紀子ちゃん、じゃあ、こういうこと? いつまでたっても距離が縮まらない人よりも、想いは少なくとも恋愛指数の高い人を選ぶべきってこと?」
「それは当事者の自由よ。この『恋愛指数』っていうのは、そうだな……心が満たされる度合いの目安みたいなものね。あえてそれに逆らう生き方もわたしは否定しないよ?」
「……」
沈黙するわたし達に、紀子ちゃんは肩をすくめて笑った。珠美ちゃんは口をへの字に曲げて考え込むと自分の席に戻っていく。それを見た紀子ちゃんもわたしに向かって軽く手を挙げ自分の席に戻っていった。
紀子ちゃんの論理にはわたしもドキッとした。
『どんなに想っていても、距離を縮められなければ何もないのと同じ』
それは。でも、でも、でも……。
だって、そうだ。人と人との距離というのは縮まるだけじゃない。広がる事だってある。
そのとき、恋愛指数はマイナスになるんだ……!
始業のチャイムが鳴った。珠美ちゃんは風間圭に会いに行くことを忘れてしまったようだった。
今日もわたしは彼を背中側から見つめる。
だって。マイナスになるくらいならゼロのままでいい。
いくじなし。