第十話・小さな一歩
「ねえ、お母さん。お願いなんだけど……」
――わたしの綺麗に見える角度も探してくれますか。
洗い終えた手をハンカチで拭うと、わたしはそれをなんとなく目の上に当ててみた。
水で冷えた手のひやりとした感触が、彼の、
――って、何やってるんだか。
大体、あの千葉の海の一瞬のきらめきよりも、彼の手の感触の方を鮮明に覚えているというのは美術部員としてどうだろう。
――戻ろ。
わたしは食堂へ向かった。
今日は牧瀬さんと星見さんが食事当番だ。
おかずの焼き魚を食べながらわたしはテーブルの斜め向かいの彼を見やった。
嘴本くんは敷島さんと稲城さん改めセナちゃん(本人がそう呼んでと希望した)に挟まれて何かを楽しそうに話していた。
人を意識する、って怖いな。昨日まで何でもなかったその光景が今日は小さなストレスに変わる。でもだからといって、たとえ彼の隣に座ったとしてもわたしは話す言葉を見つけられず、余計にストレスがたまってしまうだろう。食事時の席なんて自由なのにわたしはわざわざ嘴本くんに近すぎず遠すぎずの場所を選んでしまった。
今日彼と過ごした時間に感じたものを、またわたしは感じたいと思っているのに。
たぶん今日が一番「彼と居たい」というテンションが上がっている状態だというのに。
あれは嘴本くんにとっては普通のこと。
わたしはたくさんの中のひとり。
勘違いしてのぼせ上がるな。
わたしに根付いていた卑屈な性格がわたし自身を諌める。
このまま気持ちがフェードアウトするのを待つだけになるのだろうか。
後悔している。でも後悔しないような行動をわたしが取れたかというと……取れなかっただろう。
夕食を終え、食器を流しに置いて戻る時に永山さんから声を掛けられた。
「和美ちゃん、お願いがあるのっ」
「何ですか?」
「夕食終わったら、遊戯室に来て」
「遊戯室、ですか?」
確かあそこは畳の部屋で、囲碁と将棋のセットが置いてあった部屋だと思ったけど。
わたしは将棋の駒の動かし方を知っている程度でどちらも全然出来ない。
「うん。夏コミの原稿落ちそうなの。助けて〜」
永山さんはわたしの腕に手を絡めてきた。
夏コミというのは同人誌即売会の中でも特に大きな規模のもので、永山さんはそれに参加するそうだ。何でも夏コミはプロの仕事と同じくらい重要なものなのだそうだ。
「それって、この間合宿前に仕上げるとか言ってませんでした?」
「ぐっ……。面目ない。恥を忍んでお願いします。バイト代はちゃんと出します」
「別にお手伝いは構いませんけど……ところで何で遊戯室なんですか?」
「徹夜してノムちゃん(野村先輩のこと)に迷惑かけるわけにもいかないでしょ」
「徹夜は既に予定に入っているんですか」
何だか着々とわたしを漫研…というかサークルに入れる計画が進行しているような気がした。
一旦部屋に戻って同室のセナちゃんに今夜はここに戻らないかも、と告げると彼女にエッチな冗談を返されてしまった。
遊戯室に来た時には既にマンガを描くための道具一式はそろえられていた。
わたしの仕事は、絵の中で×印のついたところを塗りつぶすことと、番号のついたところにその番号のスクリーントーンを探して貼り付けることだった。
「わたしって、悪い子よねぇ。美術部の合宿で違うことやってるんだもの」
「まあ、でもご飯作ったり、遊んだり、美術と直接関係ないことはみんなでやっているんですからきっといいんですよ。この時間ならみんなゲームとかおしゃべりとかしてますって」
「そうかな? まあ悪くてもやるしかないんだけどね。数は少なくとも、わたしを待っているお客さんがいるんだから期待を裏切るわけにはいかないのよね」
「やっぱりお客さんは嬉しいですか?」
「嬉しいよ〜。何で同人やってるかって、自分の作ったものを見てくれる人と顔を合わせるのが嬉しいからってのが一番だもん」
「ははあ」
「そして他の作家さんとの交流ね。ジャンルが同じ人は売る場所も近いから話が合うのよ」
「ああ、そういうのって永山さんに似合ってますね」
わたしはニコニコと周りに挨拶回りする永山さんの姿を想像した。
「やっぱりわたしってそういうキャラクターに見える?」
「え? ええ。だって永山さん、人と仲良くなるのが上手いな、って思いますもん」
「上手いっていうか、そうしないとわたしがやっていけなくなるのよ。だから必死」
「?」
「わたしって、独りでいるときは結構暗い性格なんだよ」
「ええ? そう……なんですか?」
「うん。自分でも嫌になるくらい暗ーい性格。他愛ない冗談の悪口でもいつまでも気にしてるし、あの人は自分を騙そうとしてるんじゃないかとか疑ったりね」
「全然そんな風に見えないですよ」
「他人と接してるときはキャラ作ってるからね、わたし。……独りの時の自分が嫌だから、出来るだけ他の人といる時間を多くしているの。他の人と一緒にいる間は自分を演じていられるからね」
「……」
わたしと話している今もですか、と訊こうとしてやめた。
独りでいる時に悪い方向へどんどん思考が傾いてしまうことがあるのはわたしも同じだ。
わたしはそれで人と距離を置くようになった。
でも永山さんはわたしとは違う生き方をした。
「わたしに彼氏がいる話したっけ?」
「ええ。話というか、ちょっと聞いただけですけど」
「彼の場合も同じで、独りでいるときは、わたしは彼のことが嫌いなの」
「嫌いって……。それじゃ彼氏じゃないじゃないですか」
「うん。欠点しか思い出せない人間と何でつきあってるんだろうってよく思う。でも会う約束取り付けると、おしゃれしなきゃ、って思うし、会ったらちゃんと楽しく過ごせちゃうんだよね。ケンカしても、熱くなれる自分が気持ちよかったりして」
「……わからないです」
「うーん、何て言うのかな。ほら、小学生の頃学校に行きたくない、とか思うことってたまにあったでしょ? でもお母さんに怒られるから仕方なく学校に行ったら、それなりに学校を楽しめた、みたいな」
「え、いや、その喩えも分からないです」
「あはは。まあ、結局わたしは独りじゃ絶対生きていけない人間なのよ」
正直なところ、永山さんの恋人に対する感情は理解不能だった。
それは恋人に対する感情ではない、などと偉そうに言うことはできない。
片想いをしている時の感情はともかく、両想いになってからの感情というのはわたしには未知の領域だからだ。
これからは永山さんを見る目が変わるな、と漠然と思った。
「永山さん、わたしそろそろお風呂に行きたいんですけど」
「ああ、もうすぐ時間になっちゃうね。じゃあ、一緒に行こうか?」
「……はい」
入浴時間ぎりぎりだったので、浴場には永山さんとわたし以外誰もいなかった。
二の腕の部分に日焼けの跡が見て取れたが日焼け止めを塗っていたおかげでヒリヒリするほどではなかった。
「ねえ、カズミン?」
「はい?」
「カズミンは髪伸ばしていたことないの?」
「わたしの髪はクセがひどいですから」
髪の毛をつまんでその手を上下させる。
「わたしだってクセッ毛よ」
「永山さんのは良いほうですよ。わたしのは酷いですよ。うねうね〜としてて」
「でもわたしは、カズミンはもう少し髪を伸ばした方が可愛いと思うんだけどなあ。その濡れた髪を見ていて今思ったんだけど」
その意見は初めて聞いた。わたしはずっとお母さんから、短髪の方が似合うよと言われて……ってまたお母さんだ。
服にしろ、髪にしろ、わたしはお母さんに任せっきりでいたんだ。
わたし、マザコン?
「でも、わたしは地が可愛くないですから髪を伸ばしたくらいで、どうってことないんですけど」
「うわー、関根くん。恋する乙女がそんな消極的なことじゃ駄目だなあ」
「わたしにはそんな人……いませんよ」
わたしは一瞬逡巡した後、言い慣れている返答をした。
「え? そう? この間、嘴本ちゃんとの関係を凄い勢いで否定していたから誰かもう決めている人がいるのかと思った」
「あ……」
ああ、そう言えばそんなことしちゃったなあ。
それは……ちょっと失敗だったかな。
言葉を途切れさせたわたしに、永山さんがごめんね、と眉を下げたのでわたしは慌てて手を振って気にしていないことを告げた。
夜も更けてきたせいだろうか。疲れるくらいのおしゃべりが適度に気持ちよかった。
そしてお風呂から上がると、わたしたちは深夜の部に突入した。
……………。
「よし、ここまで。とりあえずお疲れ様ー」
「ふう……」
作業が終わって時計を見ると、もう朝になっていた。
「ん……」
「永山さん……、今、寝ちゃだめですよ……。朝食の時間を寝過ごしちゃいますよ…」
合宿中の行動はほとんどが自主性に任されているが、朝食と夕食だけはちゃんと全員で取ろう、とは牧瀬部長のお達しだ。
「わたし……、顔洗ってきますね……」
「ああ……ズミちゃん。今から30分後に起こして……。仮眠とる……」
「はい……」
わたしは部屋の隅に干していたタオルを取るとぼんやりした頭のまま洗面所に向かった。
静かな廊下に朝日が差し込んでよけいに眠気をさそう光景になっている。
――まだみんな眠っているよね。あー、いいなあ。
――朝食が終わったらすぐ寝よう。
洗面所の鏡の前に立ってみると。
ぼけーっ、とした女の子の顔がそこにあった。
あれ、そう言えば有田先生のホームページになんか鏡の前でやるおまじないのことが書いてあったなあ。そうそう、鏡の向こうのわたしに向かって、
ニコッ。
わあ、わたしって可愛い…。
………………。
………………。
………………。
―――はっ。
出来るかーー!!
ジャバジャバジャバジャバジャバジャバ……。
ジャバジャバジャバジャバジャバジャバ……。
慌てて蛇口を全開にして顔を洗う。
疲れてたんだ。疲れてたんだ、わたし。
わああああぁぁぁ………。恥ずかしいったらありゃしない。
徹夜明けのわたしの顔は、とても人前にさらせるようなものではなかったのに。
魔が差してしまったとはこういうことをいうのだろう。
ジャバジャバジャバジャバジャバジャバ……。
ジャバジャバジャバジャバジャバジャバ……。
「ねえ、お母さん。お願いなんだけど…」
「何?」
準備中の「セキネ理容室」で。
椅子に座った鏡の向こうのわたしが、ハサミとクシを持った鏡の向こうのお母さんに頼みごとをした。
「わたし、今度少し髪を伸ばしてみたいの」
「あら、そう? わかった。じゃあ、そのつもりでそろえるわね」
お母さんは聞き返すこともなく頷いた。
拍子抜けするほどに、簡単だった。