34 薔薇を捧ぐ
議場に辿り着くと、既にレーヴェ皇帝が席に着いていた。
三ヶ月前となにも変わらない姿を見て、マリアは思わず笑みを零しそうになる。
このまま傍に歩み出て隣に立ちたい。この三年、ずっとそうしてきた。あそこがマリアの居場所だった。
だが、マリアは出来るだけ毅然とした態度を取るよう努める。
マリアはレデンの隣にいる資格を放棄したのだ。自分に言い聞かせながら、落ち着いて口を開いた。
「では、はじめるとしましょう」
颯爽と席に着き、真っ直ぐにレデンを見据える。レデンも表情一つ変えず、君主らしい態度で会談に臨んだ。
領土返還と国境の確認、賠償金、捕虜の引渡しについて……別段、変わった内容はなかった。ただ淡々と話が進み、問題が片付いていく。
レデンの表情や声の一つ一つを心に刻んでいった。
彼はこんなに遠い存在だっただろうか。円卓に阻まれた短い距離さえ、もどかしく思える。
そして、その想いを抱えたまま会談が終了してしまう。
何事もなかったかのように立ち上がるレデンの姿が胸に刺さる。本当に今まで彼と共に過ごしてきたのか不安になった。
あれは夢だったのかもしれない。
二度と見ることのない夢だったに違いない。
「マリア」
ユリウスに促されて、マリアは我に返って立ち上がる。胸を戒める鎖が解けず、息が苦しい。
しかし、これで終わりだ。
「わかっている」
踵を返す。
「出立の前に」
レデンの声を聞いて、反射的に振り返ってしまう。
相変わらずの仏頂面を刻んでいた夜色の瞳が、少しだけ笑みを浮かべる。
「この城の中庭は狭いが、とても美しい。帰る際に覗くと良いだろう」
手短に告げると、レデンはマリアに背を向けた。
マリアはその背を見送り、瞳を伏せる。
「ユーリ様、お元気で! 貴女のことは、生涯忘れません!」
レデンの隣で堪らず手を振るラウドン。
ユリウスが盛大な溜息を吐いて項垂れる。だが、すぐに憑き物が取れた清々しい笑みでマリアの後をついて歩いた。
石造りの議場の足音が寂しく、幾多にも響いて聞こえる。
「マリア」
議場を出て長い回廊を歩いていると、ユリウスが心配して声を掛ける。しかし、マリアは首を横に振った。
「大丈夫だ」
今の自分は、よっぽど酷い顔をしているのかもしれない。ユリウスが心配するときは、大抵そうだ。
渡り廊下をゆっくり進む。城を出るには、そのまま真っ直ぐ廊下を進めば良い。
だが、視界の端に小さな中庭を見つけるて、足が止まってしまう。
狭い庭の中心には、小さな噴水がある。泉のように滾々と水が湧き出る噴水は趣きがあり、いつまでも眺めていられそうだ。
四方を壁で囲まれた庭を覆う芝はよく手入れされており、ビロードのように滑らか。夏であれば、廊下の柱や壁が美しい緑の蔦で覆われるのだろう。
花壇には、冬薔薇が美しく咲き誇っていた。
なんとなく、レデンが好きそうな庭だ。もしかすると、ひっそりと手入れしたのかもしれない。皇帝のくせに、庭弄りを趣味にしているなんて呆れる。
「…………」
真紅の薔薇の中に一輪だけ、色の異なる花を見つけてしまう。
マリアはとっさに駆ける。ヒールが高いせいで転んでしまいそうになるが、構わない。
「これは」
ドレスが汚れることも厭わず、地に膝をついた。
見たことのない薔薇だ。この一輪だけ、明らかに新しく植えられた形跡があった。
明るい橙色の花弁が、ふんわりと広がっている。菊科のように幾多にも重る特徴的な花弁が愛らしく、リボン飾りのようにも見えた。濃い緑の葉は繊細で優雅だが力強い。
マリアは思わず唇を覆い、目尻に涙を溜めた。
「希望」
レデンが育てた薔薇だ。
一度枯れたようだが、また育てていたのか。あのときは何色かもわからなかったが、きっと、これに間違いない。
自分の名前のついた花に触れ、マリアは沈黙する。
頬を涙が伝い、雫となって花弁の上に落ちた。鮮やかな花弁が水滴を弾いて、宝石のような輝きを纏う。
「馬鹿野郎……馬鹿野郎! 私に花など似合うわけがないのに……なにもわかってない馬鹿男だ。本当に……こんなものを贈るくらいなら、馬や大砲の方がよっぽど、嬉しい。レーヴェの、馬は扱い易、いし、大砲だって、私が惚れ込んで、選んだ、優れものだぞ。こんなものよりも、ずっと……」
「マリア」
ユリウスがマリアの肩を掴む。彼は嗚咽を漏らして泣き崩れるマリアを無理やり立ち上がらせた。
「行くよ、時間がない」
「…………」
「なにしてるんだよ、間に合わなくて良いの?」
戸惑うマリアの手をユリウスが強引に引っ張って歩く。彼は荒っぽくマリアを前に立たせると、両手で強く背中を押した。
「早くしろよ。皇帝の馬車が出ちゃう」
「え」
なんのことを言っているのかわからず、目を見開くマリアにユリウスは溜息を吐いた。
彼はハンカチでマリアの涙を優しく拭う。
「あーあ、化粧が台無しだ。中身が兵隊馬鹿でも、顔だけは可愛いのに勿体無い」
「ユーリ……」
「行ってきなよ。女はね、少しくらい我侭で自分勝手な方が可愛いもんさ。男はそれに振り回される義務がある」
化粧崩れを隠すように綺麗に涙を拭いながら、ユリウスは明るく笑った。そして、マリアの頬をムニュッと掴んで口角を上げさせる。
「笑えよ。男は好きな女が笑うだけで幸せになれる、馬鹿な生き物なんだから」
マリアは掴まれた頬を押さえて、ポカンとユリウスを眺めた。もう涙は止まっている。
掻き乱された心を落ち着けるように、ゆっくりと息を吐いた。
「ありがとう」
やっとのことで笑顔を作る。
マリアはそのまま踵を返して、床を鳴らしながら廊下を全力で駆けていく。
「僕って、ほんっと馬鹿野郎だよな」
その背を見送って、ユリウスは小さく溜息を吐いた。
残り1話になります。
今少しお付き合いをお願いします。