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30 静寂を裂く

 

 

 

「愛しているわ」

「うん、ぼくも」


 眠る前には、毎晩必ず母がキスをしてくれた。

 軍国化で兄や姉が軍人教育を受ける中、ハインリヒだけは母親の方針で文学や芸術の教養を受けていた。

 戦争で兄弟を失くした母にとって、子供に軍の教育を受けさせるのは苦痛だったようだ。

 それでも、母はこう言った。


「どうして、軍人ばかり増やすの?」

「それが国家に必要だからよ」


 小国のアドラにとって、大国のようなバランスの取れた税改革や官僚制は望めない。軍事力ばかり肥大化した形での発展しか有り得なかった。

 軍を基盤に王権は国民を把握し、貴族たちの権力を抑え、税制を整えて力を伸ばしていくのだ。

 それを理解してからは、ハインリヒも国の在り方を納得した。


 人の歴史は争いで綴られている。力は絶対であり、無力は虐げられてきた。

 だから、理解出来なかった。強大な軍事力を保持しながらも、他国との戦争を避けようとする父王の方針が。


 姉を犠牲しにして、レーヴェと同盟を結ぶ必要が何処にあるだろうか。

 軍は単なる統治機関ではない。本来の役割があるはずではないか。

 大国ルリスもレーヴェの領地を狙って機会を窺っている。ハインリヒの呼びかけにも、すぐに応じた。


 好機だった。

 アドラが小国から大国へと昇格する大きな転機だ。これを逃す道理はない。


「姉上だって、わかっているんでしょ? ううん、わかってくれるはずだよ」


 ここにはいない姉に語りかけて、ハインリヒは静かな笑みを湛えた。

 シュトリーガウの平地に野営するアドラ軍。

 それを見下ろすように、丘陵に陣を敷いて朝を待つレーヴェ軍。

 夕刻にレーヴェ軍の到着を通告され、明朝にて開戦の合意をしたところだ。朝に備えて、レーヴェの陣地は寝静まっていた。


 軍事の才でハインリヒがマリアを上回ることはない。アドラの将でも、彼女に敵う者はいないのだ。


 ならば、他の力で勝つしかない。


 ルーデルスドルフでは、レーヴェに置いた駒が上手い具合に機能していた。

 流石に、もう馬鹿な皇子や従者は役割を果たしただろう。未だに、当たり障りのない情報を流してきているが、見え透いている。

 代わりに、「アドラ軍は明日の会戦に備えて休息をとっている」という情報を渡しておいた。


 飾り天幕の外へ出ると、闇夜に紛れてアドラ兵が迅速に隊列を組んでいた。

 夜風を受けて漆黒の黒鷲紋章が翻り、戦に向けての準備をしている。


 その数、六万五千。

 行動を悟られまいと、陣地の天幕は張ったままにしてある。音が漏れないように武器は布で包み、砲車の車輪には藁を括りつけさせた。相手を騙すなら、徹底的にしなければならない。

 虚偽の情報を流し、軍の大部分を森の中に隠させたのだ。疲弊したアドラ軍にレーヴェが止めを刺しに来ると踏み、罠を張った。


 これから、寝静まったレーヴェの陣へ一気に夜襲をかける。

 数の上では互角だが、虚を突かれたレーヴェ軍は軍としての機能を果たさないはずだ。

 いくらマリアでも、混乱する六万の兵を抑えることは不可能だろう。


「楽しみだね、姉上。どうする?」


 吹き荒ぶ夜風が銀に輝く髪を梳かす。天上に座する満月が星々の煌きを掻き消して、夜空を明るく照らしていた。

 進む先にあるのは栄華か、崩壊か――。

 この戦いで全てが決まる。アドラがこれから更なる躍進をするためには、ここで勝たなくてはならない。


「ハインリヒ様、準備が整いました」

「わかっているよ、ぼくも行く」

 アイヒェルに促され、ハインリヒは愛馬に跨って手綱を握った。白い馬の鬣が闇を蹴散らす光を放っている。

 休戦中にアドラの弱点であった騎兵も一新した。大きくて小回りの利かないアドラ産の馬ではなく、東方から仕入れた馬を採用している。更に、騎兵の技術も向上させた。

 まだ騎兵全体を揃えるに至っていないが、いくつかの精鋭部隊を編成することが出来た。今日は、その初披露の舞台となるだろう。


 暗闇の中では既に、命令通りにレーヴェの分隊と衝突する銃砲声鳴り響いていた。


 マリアは今頃どうしているだろう。

 銃声を聞いて作戦の失敗に気がついただろうか。


 レーヴェ軍は逃げられない。ハインリヒの張った罠は着々とレーヴェを侵食しているのだ。


「捕虜は要らない。先行部隊を叩いたら、一気にレーヴェ本陣を落とすよ」

 ハインリヒの命を受けて、士官が即座に走る。その背を見もせず、ハインリヒは天上を照らす月に向けて笑みを湛えた。


「良い夜だね」


 本来なら、静かに清らかに過ごす夜だ。しかし、広がる野は無骨な軍靴と銃声が奏でる音で満たされている。

 その音を指揮するつもりで、ハインリヒは静かに瞼を閉じた。




 † † † † † † †




 闇夜を裂く銃声に、マリアは薄く閉じていた瞼をゆっくりと開く。


「マリア」

 天幕の外からユリウスが声を掛ける。振り返りながら、マリアは脱ぎ捨てていた軍服の上着を持ち上げた。

「寝ていないだろうな?」

「起きている。今、行こう」

「よかった。陛下と駆け落ち(デート)して、頭に花が咲いていたらどうしようかと思ったよ」

「……誰に聞いた。撃ち殺すぞ」

「悪かった。真顔で怖いこと言うなよ」


 程なくして遠方から微かに乾いた銃声が響き、慌てて目を見開く。

 先程の銃声は気のせいではなかったようだ。間抜けな兵士が暴発させたとしても、深夜に立て続けに二発はおかしい。

「夜襲か……?」

「急いでくれ、他の将官たちも招集されてるよ」

 マリアはユリウスの後について歩く。


 ハインリヒの策だ。

 父の存命中、彼はまだ幼くてマリアほどの軍事教育を受けていない。頭は良いが、分野が違った。

 正面から勝負することは、まずないと思わなければならない。

 レーヴェに向けて虚偽の情報を流し、奇襲を仕掛けたのだ。


 本営の置かれた飾り天幕を潜ると、既に将官たちが集まっていた。

 熟練の将も若い将も混乱して、話し合いなど成り立たないに等しい状態だ。

「翌日に会戦の合意が成されている上での夜襲など、禁じ手ではないか。相手は国際法も知らぬ猿か!?」

「なにを仰っているのです、これは戦争なのですよ。そのようなルールを持ち出している場合ではありません。速やかに、状況を打開する策を出さなくては」

「そうは言っても、どうすればいいのやら」

「適当なことを……貴様は、それでも指揮官か!?」

 将官たちは慌てた様子だ。誰もアドラが夜襲を仕掛けるとは思っていなかったのだろう。


「陛――」

「陛下、申し上げます!」

 発言しようとしたマリアの声を遮って、若い将官が大声で叫んだ。その一声に驚いて、天幕の中が一瞬、水を打ったように静まり返る。

「突撃する騎兵隊を組んで、形勢の逆転を狙いましょう」

 彼が提案したのは特別に編成された騎兵による一点集中攻撃の敢行だ。混乱が生じた隙に後続の部隊が陣を突破し、後衛を撃破する策だ。

 勿論、先発した騎兵は全滅に近い打撃を受けるが、一発逆転を狙うには、このくらいの犠牲は必要だ。

 皆の眼差しが真っ直ぐ、天幕の奥に座るレデンに注がれる。


 しかし、そのときレデンが浮かべた表情を見て、周囲が息を呑む。

 レデンは椅子から立ち上がり、笑みを浮かべていたのだ。控えていたラウドンが、待っていたとばかりに指を鳴らす。


「もう策は講じてある」


 言葉と同時に、マリアが将官たちを掻き分けて前へ押し進む。緊張して固くなっている若い将官の肩を叩くと、マリアは手にした指揮杖を軽く振った。

 ヒュンと風を切る音が響く。


「敵を騙すには、味方から。という言葉をご存知でしょうか?」


 不敵な笑みを浮かべたマリアとレデンを、将たちが怪訝そうに見据えている。

 ユリウスとラウドン、更に数人の将官だけが、訳知り顔で腕を組んでいた。

 

 

 

 参考にしたのはホーエンフリートベルクの戦いです。

 

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