3 婚約破棄
レーヴェ皇帝カレル六世が遺体で発見された。
いったい、どういうことだ。
「これは面倒なことになったね」
ユリウスが腕を組んだ。
謁見が中止されたり、夜会の開始が遅れたりした原因は、夕刻から皇帝が行方をくらませていたからのようだ。そして、その皇帝が遺体となって発見された。
皇帝の誕生日を祝った夜会は中止され、一週間が経つ。
立て込んでいるのか、アドラへ書き送った手紙の返事は届いていない。皇帝が崩御した今、マリアの婚約はどうなってしまうのだろうか。それさえもわからない。
「皇帝は暗殺された可能性もある」
「可能性の話だろう?」
不意に放たれたユリウスの一言にマリアは空色の瞳を伏せた。
「まあね。でも、皇帝は行方を晦ませていて、遺体で見つかった。しかも、自室なんかじゃなくて宝物庫で。発表じゃ病死だったが、どうだか」
ユリウスの言う通りだ。皇帝の死は明らかに不自然だった。
マリアの脳裏に漆黒を纏った青年――レデン皇子が蘇る。
夜の闇を宿した瞳には険しい色が浮かんでおり、悲しみは読み取れなかった。
聞けば、レデンと皇帝は不仲だったらしい。一時期、レデンの帝位継承権を剥奪するという話も上ったようだ。
レーヴェ宮廷の詳しい内部事情はわからないが、大臣たちの中に皇帝への反感を抱いている者がいれば実行や隠蔽は簡単だ。
実際、宮廷内ではその噂で持ち切りで、皆レデンを疑っているようだった。
だが、本当にそうだろうか。
もしも、マリアがレデンなら、このような目立つ時期に不自然な暗殺手段を選ばないだろう。
旅先を狙うか、病死に見せかけた毒殺を行う。突発的な犯行に及んだとしても、もう少し工作する。
皇帝の死を聞いたとき、レデンが悲しみに暮れる様子はなかった。
しかし、代わりに、傲慢な言動からは想像も出来ないくらい不安げで、今にも崩れてしまいそうな表情をしていたと思う。
彼は二十二歳の身で巨大な帝国を継ぐことになる。
戴冠式はまだ先だが、実質は父帝が崩御した時点で彼が皇帝に即位したと同義だ。
その身に背負うものは大きいはずだ。
「あんまり、深く考えるなよ。犯人探しは僕たちの役目じゃない。ただ、今のレーヴェでなにかが起こっていることは確かだね。内部分裂か、クーデターか……いずれにせよ、面倒なことになったもんだ」
窓の外では麗らかな日差しを受けて庭の薔薇が輝き、小鳥が美しくさえずっている。遠くでは、教会の鐘音が鳴り響き、まるで一枚の絵画を鑑賞しているかのようだった。
急速な軍備拡張が行われ、天候も雨が多いマリアの故郷では、とても見られない光景だ。
レーヴェ帝国はここ百年余り、まともな戦争をしていない。東方で慢性的に小競り合いをしているが、それだけだ。
あまりに平和で美しい。皇帝暗殺などという血生臭い疑惑など似つかわしくなかった。
「どう致しました。落ち着いてくださいましッ!」
「うるさい、通せ!」
部屋の外で騒々しい足音が聞こえ、マリアは眉を顰めた。ユリウスが反射的に立ち上がると同時に、両開きの扉が弾かれるように開く。
影を纏ったような漆黒の衣装が揺れた。
「レデン殿下?」
突然の入室者に驚いてユリウスが声を上げる。
レデンはユリウスを押し退けて、詰め寄るようにマリアの前に立った。
マリアが睨むと、レデンは無表情のまま一枚の書簡を突きつける。
「どうなっている」
威嚇するような低い声で問われ、マリアは青空色の瞳を顰めた。
だが、書簡の内容を見て、驚きのあまり言葉を失う。
「いったい、どういうつもりだ。お前の国は!」
それを聞きたいのは、こちらの方だ。
書簡を投げつけられながら、マリアは我が目を疑った。ユリウスも床に広がった書簡を拾い上げ、信じられないと言いたげに首を振る。
「嘘だろ。どうして、アドラがレーヴェに仕掛ける必要があるのさ!」
正式な手続きを踏んだ書簡だった。
書面には、帝位を暗殺という手段で略奪したレデンの即位を承認しない旨と、帝国領シロンスク州の割譲を要求する内容が綴られていた。更に、それが出来ないなら、武力行使も辞さないと締め括られている。
事実上の同盟破棄と宣戦布告だ。文末には、アドラ王家の紋章印も押してある。
「そんなはずは……」
信じられずに呟くと、レデンが漆黒の瞳でマリアを見下ろした。マリアは素早い動作で、ユリウスから書簡を奪い取る。
「なにかの間違いだ。父上はレーヴェとの同盟を望んでおられた! それなのに、こんなにあっさりと破棄するはずがない」
「だが、書簡は事実だ」
なにも言えずに黙ってしまったマリアに、レデンは冷たい視線を浴びせる。
マリアは思わず、彼の腕を掴んで懇願した。
「アドラへ行って真偽を確かめたい。父上と交渉させてくれ」
だが、レデンはマリアの手を無碍に払う。
「そんなことが許されると思うのか。お前は捕虜だ。当然、婚約も破棄させてもらう!」
「お願いだ!」
「俺に口出しするな!」
尚もすがりつこうとするマリアの肩をレデンは乱暴に押して壁に叩きつける。
マリアは慣れないドレスと、踵のある靴のせいでバランスを崩し、そのままあっさりと床に倒れてしまった。
起き上がろうとするマリアの胸倉をレデンが掴む。
マリアは激昂しそうになるが、声は上げずに唇をキュッと噛み締める。ここで反撃しても、自分の要求は通らない。
その様子が気に入らなかったのか、レデンは拳を振り上げた。
「兄上、おやめください!」
マリアが痛みを覚悟して目を閉じた瞬間、何者かが部屋に足を踏み入れる。
恐る恐る目を開けると、マリアを殴りつけようとするレデンの肩を押さえる青年の姿があった。青年はレデンの手首を左手で掴み、動きを制止させる。
黒を纏ったレデンに対して、清廉な白い衣装が目に飛び込む。
レーヴェ王国近衛騎士団長の軍服だ。青色のカフスと金糸の刺繍が、清楚で控えめな印象を与えた。
年の頃はマリアと同じくらいだろうか。上品に結われたセピア色の髪が揺れる。優しげな色を湛える瞳の藍は黄昏のようで、何処か寂しげな孤独をはらんで見えた。
「……ヘルマン……?」
思わず口にしてしまった名前にマリアは自ら辟易した。
彼のはずがない。だって、あいつは――。
「ラーノ、お前は黙っていろ」
「大臣たちが探していましたよ。早く、謁見の間へ」
レデンは不満を露にしたまま青年――第二皇子ラーノを睨んだ。しかし、やがて、踵を返して部屋を出る。
「その女を外へ出すな。もうそいつは、客人でも俺の婚約者でもない。捕虜だ」
衛兵に言いつけて退室するレデンの背をマリアはじっと見据えた。
レデンは振り返りもせず、乱暴に扉を閉めてしまう。
「申し訳ありません。突然のことで、兄上も動揺しているのです」
ラーノはマリアを安心させようと、微笑みながら手を貸す。
儚げで優しい微笑を浮かべた顔が、記憶の中の幻影と重なって、マリアは視線を逸らした。
わかっている。ラーノは「あいつ」ではない。
自分に言い聞かせながら、マリアは首を横に振る。
それでも、視線を戻すと、嫌でもラーノと過去の記憶が重なってしまう。
今、目の前にいる青年と余りに似すぎている笑顔を思い出さずにいられなかった。
悲しみと同時に、あのときの迷いが、後悔が、光景が胸を締めつける。
どうして、私はあの時、なにも決断出来なかったのだろう。
心中で弱さを呪った一言が、鎖のように絡みつく。
人物紹介
・マリア……兵隊馬鹿のお姫様。現在、捕虜。生まれてきた性別を間違えた系女子。
・レデン……黒っぽい人。第一皇子。短気。もうすぐ皇帝陛下だよ! すぐハゲそう。
・ユリウス……女装の人。マリアの従者兼突っ込み担当。生まれてくる性別を間違えた系男子。
・ラーノ……白っぽい人。第二皇子。他人の空似。三人見たら死ぬ(ドッペルゲンガー