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28 姉上

 視点変わります。

 

 

 

 神聖暦一七四三年、四月――アドラ王国、首都ベルジーナ。


 ハインリヒは身を翻し、自ら玉座に座る。

 本来玉座に座るべき国王は寝台に伏せ、もう動けない状態だ。

 もう十五歳。幼いと呼ばれる歳ではない。背丈も伸び、丸みを帯びていた顔や大きな瞳も凛とした大人のものへと変わりつつある。


 シロンスク州割譲と引き換えに結んだ休戦協定から一年半。その間に、レーヴェ軍はリオン王国の首都を落とし、ルリス王国と交戦していた。

 アドラの軍事力を当てにしていたルリスは勢いが急激に落ちている。現在、レーヴェ軍は敗走するルリス軍を追撃して、南下しているところだった。


 軍を動かすなら今だろう。


 ルリスを追撃し、アドラとの国境付近は軍備が手薄になっている。休戦協定を破り、後背を突けば領土の拡大も望めた。


「今度こそ勝負だ、姉上」


 ハインリヒはもう子供ではない。

 自ら出陣して、戦場で姉に挑もう。

 そして、彼女が屈辱に顔を歪める様をこの目で見てやろう。


「ねえ、アイヒェル」

「なんでしょう」

 静かに寄り添う従者に語りかけ、ハインリヒは足を組んだ。

「ぼくの顔は姉上に似ていると思わない?」

 今朝、鏡を見ると、同じ歳だった頃のマリアに似た顔が映っていた。

 きっと、今も変わらず彼女は同じ顔をしているのだろう。並べば、一目で姉弟だとわかるに違いない。


 強くて、優しい姉が大好きだった。

 眩しくて、美しくて、気高い姉が誰よりも好きだった。

 愛していた。

 アドラを後にするときのマリアを思い浮かべる。

 身に背負った悲しみや苦しみを見せまいと、感情を押し殺した姿。ただ政治の道具として売られていくだけのマリアの姿は、酷く弱々しくて、人形のように感じられた。


 きっと、今のマリアは違うだろう。

 ハインリヒの記憶に残る、強くて美しい姉であるはずだ。

 国の駒になる弱々しい姉ではない。

 ハインリヒが愛しているマリアがそこにいるはずだ。


「ぼくさ、考えるんだ。姉上は今、どんな風に笑っているのか。どんな風に泣いているのか……ぼくを見て、姉上はどんな顔をするんだろうって。きっとさぁ、殺したいくらいぼくを憎んでいるよね」


 当然だ。ハインリヒはマリアから多くを奪った。

 実際にマリアはハインリヒに牙を剥き、玉座を狙っている。

 だが、アイヒェルは相変わらず無表情のまま首を静かに横に振ると、ハインリヒの前に跪いた。


「マリア様は陛下の姉君であらせられます。きっと、陛下を愛してくださっていますよ」


 アイヒェルの答えを聞いて、ハインリヒは唇の端を吊り上げた。そして、アイヒェルの顔面を踵で力いっぱい蹴りつける。

 顔を仰け反らせて玉座の下に転がるアイヒェルを、ハインリヒは冷たい視線で眺めた。


「はは。そうだった、お前はそういう男だったね……ああ、そうだね。その通りだったら、どんなに良いだろうねぇ」


 アイヒェルの両親は彼が幼い頃に死別している。家族を知らないが故に、そこに愛情があると信じたいのだろう。

 普段は決して感情を露にしない男だが、言動の端々に孤独を見て取れる。それでも、自分に忠義を誓って付き添う従者として、ハインリヒはアイヒェルを気に入っていた。


「でも、きっと駄目だよ。姉上は、ぼくを愛してなんかくれない」

「いいえ、そのようなことはありませんよ。陛下はお優しい方ですから」

「ぼくは優しくなんかないよ」

 ハインリヒは窓の外を見て、息を吐いた。ベルジーナの空は、今日も雨で灰色に染まっている。


 アイヒェルの言う通り、マリアはハインリヒを愛してくれるだろうか。

 以前のような優しい姉でいてくれるだろうか。

 それとも、激しい憎悪を募らせているだろうか。


 だが、どちらでも良い気がしてきた。


 愛していようと、憎んでいようと、結果は変わらない。彼女がハインリヒを蹴落とそうとしていることには変わりないのだから。

 ハインリヒの大好きな強い顔で、挑んでくる。

 レーヴェにいくつか布石を置いておいたが、機能しただろうか。

 死人に似た男や従者に裏切られたときの彼女の顔は、どんなものだっただろう。ルーデルスドルフで負けたとき、どんな気分だったのだろう。


 姉上、これからどんな顔をするの?

 今から楽しみだよ。

 楽しみだね、姉上。

 大好きだったよ。

 早く会いたいな。




 † † † † † † †




 アドラが休戦協定を破り、軍を動かした。

 ルリス軍を追撃していたレーヴェ軍は急遽、進路を引き返してシロンスク州へ戻ることになる。


「早かったじゃないか」

 レデンの声に答えるように、マリアは深く頷いた。

「だが、私でもこの時期に動かす」

 ルリスを追撃したために、アドラとの国境付近は手薄になっている。敗走するルリス軍が完全壊滅せずにレーヴェを引き付けているこの時期が、最も攻めやすいのだ。


 ハインリヒが機を見て協定を破ることは見えていた。


 これはアドラが領土を広げる契機になると同時に、レーヴェにとっても割譲したシロンスク州を取り戻す好機でもある。ここまで追撃していれば、ルリスはしばらく攻めてくることはないはずだ。

 引き返す時間で遅れを取るが、これでようやく、アドラと一騎打ちが出来る。

 狙い通りだ。


「ここからが勝負だ」


 アドラと対決し、シロンスク州を取り戻す。そして、ハインリヒを追い詰める。


「決着がついたら、――」

 レデンが言葉を言いかけて、口を噤む。彼がなにを言おうとしているのか察して、マリアは一瞬表情が固まった。

 だが、平気な振りをしてみせる。


「最初の契約通りだ。私はアドラへ帰る。兄上もそれを望んでいた」


 先日、国外へと逃亡していた長兄マティアスと合流することに成功した。

 マティアスはレーヴェ軍が勝利し、ハインリヒを排除した暁には王位に就くこと。そして、そのときはアドラに割譲したシロンスク州の返還にも合意してくれた。


 マリアは隣に立つレデンを見上げる。

 アドラの王位をハインリヒから取り戻せば、マリアはレーヴェにいる必要がなくなる。自分の国に帰らなくてはならない。

 兄のマティアスは無能ではないが、即位してすぐに戦後の政治を行うには荷が重いだろう。マリアが帰って補佐する必要がある。


 最初から祖国へ帰ることが目的だったのだ。

 それなのに、急に胸が痛んだ。

 寂しさとも、哀しさともわからぬ痛みが胸の奥底に突き刺さり、そこから流れた血が身体中に熱く染み渡っていく。


 レデンとマリアは協力関係にある。それ以外のものはいらないはずだった。

 けれども、わかっていながらも気持ちを抑えられない自分がいる。そして、抑圧からの解放を望みながらも、そうする勇気すらない自分に、マリアは激しい嫌悪を抱いた。


 なにを迷っているんだ。

 マリアは強く強く唇を噛み締め、拳を握った。

 

 

 

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