25 兄弟
「ルーデルスドルフの伏兵。私なりに考えてみたんだが……お前は、どの段階で情報が漏れたんだと思う?」
マリアが切り出した言葉に、ラーノが首を傾げた。
本当は、こんなことなどしたくない。ユリウスの言ったことも、今まで信じることが出来なかった。
だが、確かめなくてはならない。
「なんの話でしょうか?」
「ルーデルスドルフで、どうしてアドラは右翼に伏兵を置いたんだと思う?」
「はい?」
予期していなかった問いかけに、ラーノは眉を寄せていた。マリアは軽く息を吐いて、ゆっくりと椅子に腰掛ける。
「あの作戦は左翼に騎兵で奇襲し、陽動した後に右翼から一気に落とすもの。なら、最初から陣形を崩さないように騎兵を叩けば良い。それが出来なくとも、左翼が崩れないように対策は出来るはずだ。なにしろ、間諜によって作戦が向こうに漏れていて、奇襲があることがわかっているのだから」
「どういうことですか」
「考えられる理由は、こちらを安心させるため。深く切り込ませておけば、それだけ痛手を負わせ易い。だが、腑に落ちない。それならば、混戦になる前に決着をつけても良かった……あるいは、そうしたかったが、出来なかったということだ」
マリアはラーノを素早く振り返り、組んでいた腕を解く。
「情報が間に合っていなかったんじゃないか。つまり、あの伏兵は最初から置かれていたのではなく、攻撃がはじまると同時に移動させたんだ」
「……なにが言いたいんですか」
ラーノの表情が険しくなる。
「ユーリは後方部隊に就かせていた。情報を漏らす機会はいくらでもあったはずだ……だが、皇帝の傍に置かれた近衛騎士団だったらどうだろうな」
ラーノの顔から表情が失せていくのを感じる。
「ご友人を信じたい気持ちはわかりますが、その推理にはなんの根拠もありませんよ」
「そうだ。私の推測だと思っていたよ……この書簡を探すために、お前がここへ来るまでは信じられなかった」
マリアは手に持った紙を見せながら、ラーノを横目で睨みつける。
「これが欲しいか?」
ラーノはテーブルの上に投げ出された書簡を奪い取ろうとしたが、マリアが立ち上がって阻止した。
「書簡は私の部屋に隠してあった。ユーリはわかっていたんだよ。これ一枚では、お前の罪を証明出来ないと」
マリアはラーノの目の前で音を立てて書簡を開いてみせた。
だが、そこには、ラーノの署名を見ることが出来ない。雨に濡れたのか、水で字が滲んでいたのだ。
最初からそうだったのか、ユリウスのミスかはわからない。
「この書簡では証拠にはならない。だから、ユーリはお前を罠にかけたんだ。ここに署名したのがお前なら、必ず奪い返しに来るはずだからな」
「…………」
ユリウスはマリアを信じて罠を張った。
署名がラーノのものならば、彼が奪い返しに来ないはずがない。書簡と一緒に、マリアを葬るために。
実際にラーノが現れるまで、マリアはユリウスのことを信じ切ることが出来なかった。だが、今確信に変わった。
最初からユリウスのことを、もっと信じるべきだった。そうすることが出来なかった自分を恥じながら、マリアは精一杯、ラーノを睨みつける。
「皇子のお前が、どうしてレーヴェを裏切るようなことをするんだ。帝位が目的なら、もっと別の方法があったはずだ」
マリアは問いながら、徐々にラーノへにじり寄る。
ラーノは黄昏の瞳を逸らして口を噤んだが、それでも、マリアは突きつけるように書簡の紙を鳴らした。
「……帝位など、要らない」
ラーノの声が急激に低くなる。
だが、気づいたときには、マリアの身体は後方へ跳ね飛ばされていた。丸テーブルや椅子が派手な音を立てて倒れ、樫を組み込んだ床に転がる。
「どいつもこいつも、なにもわかってない……帝位は兄上のものだ。兄上を皇帝にしたのは、私なのだから。兄上こそ、君主に相応しい。それなのに、父上はなにも理解していなかった。自分の思い通りにならないという理由だけで、兄上の帝位継承権を剥奪しようとしていた」
「……それで、皇帝を暗殺したのか」
ラーノに胸倉を掴まれながらも、マリアは声を絞り出した。
「元々は、アドラに領土を割譲してそのまま手を引いてもらう算段だった。レーヴェはあまりに大きく、脆い国だからな。国政を安定させてから、改めて取り戻せば良い。何年も時間がかかるが、私が兄上を支えて行ける。兄上のことを一番理解しているのは私だけだ」
目の前にいる男が誰なのか、わからない気がした。
ヘルマンでも、ヘルマンの影を纏ったラーノでもない。全くの別人のように思えた。
「それなのに……お前が邪魔だった! 最初は戦果があれば領土の割譲も多少は有利に運べると思って泳がせた。でも、お前が兄上を惑わせたんだ……許せなかったよ。兄上の隣にいるのは、私の役目なのに。私のはずだった!」
ラーノは起き上がろうとするマリアの腹を蹴りつけ、首筋に手をかける。徐々に力が強くなり、首が締め付けられていく。
「お前などいなくなればいい!」
首が圧迫され、頭が重くなる。朦朧とする意識の中で、マリアは夢中になってラーノの腹部を蹴り上げた。
思いのほか力強く蹴られ、ラーノはバランスを崩して床に倒れる。マリアは受け身を取って立ち上がると、肩で息をしながら腰に帯びた軍刀を抜く。宮廷なので、儀礼用の装飾が施された脆い刃だったが、至近距離で頸を狙えば問題ない。
銀の刃を突きつけられ、ラーノは身動きを封じられてしまった。
「終わりだ」
宣言すると、室内へ流れ込んだ衛兵が二人を取り囲む。
ラウドンから借りた私兵だった。流石に、このような作戦に宮廷の近衛兵を使うことは出来ない。
「ラーノ」
静かに響いた声に、ラーノが首を上げる。
彼は視線の先に漆黒の衣装を纏ったレデンの姿を見て、小さな声を漏らした。
「兄上」
ラーノは兵士たちに得物を向けられているにも関わらず、レデンの前へ這うように近づいた。
彼は冷たい床から兄の姿を見上げると、幼い子供のようにパッと花が咲くような笑顔を作った。
「兄上は、わかってくれますよね。私は、兄上のために……全て、兄上とレーヴェのためなんですよ。私は、ただ」
「誰がそんなこと頼んだ」
「え?」
「……俺はそんなことを頼んだ覚えはない」
感情を殺し切った低い声が叩きつけられる。言葉を放ったレデンを見上げながら、ラーノは黄昏色の瞳を大きく見開いた。
「兄上?」
「俺は、帝位など望んでいなかった! 父上が継承権を剥奪するのなら、それでも良いと思っていた」
それだけ言い捨てると、レデンは素早く踵を返した。
その場を去るレデンの背を見て、ラーノが力なく頭を落とす。マリアは急いでレデンの後を追った。
「あんなことを言う必要はなかったはずだ」
「じゃあ、お前ならなんと声をかける」
問い詰めるつもりが、逆に問われてしまい、マリアは閉口した。
レデンの夜色の瞳が真っ直ぐにマリアを見下ろし、答えを待っている。
「俺は別に帝位なんてこだわっていなかった。それなのに、謀反を起こしたのは俺のためだと言われて、お前はなんと言い返す?」
「それは」
レデンは帝位など望んでいなかった。
恐らく、前帝が帝位継承権の剥奪を決定しても、黙って受け入れただろう。そうしたら、もっと自由な生活があったかもしれない。戦争で他国と戦うこともなかったはずだ。
単に皇帝になる自覚と決意がなかっただけだろう。
しかし、前帝が生きていれば親子の和解もあったかもしれない。こんな形ではなく、もっと穏やかな将来があったかもしれない。その可能性さえ奪われた。
今更、レデンの君主としての決意は揺らがないだろう。
それでも――それだからこそ、彼にはラーノにかける言葉が見つからないのかもしれない。
沈黙を守ったままのマリアを前に、レデンは乱暴に漆黒の髪を掻き毟る。そして、自分の言葉を悔いるように、やるせない溜息を吐いた。
「こんなこと、ただの弱音にしか聞こえないかもしれないが……わからないんだよ。俺にも、どうすれば良いのか」
肉親の裏切り行為。
実際のところ、マリアにもわからなかった。
ハインリヒは謀反を起こして、マリアから国を奪った。マリアは立ち上がり、弟に敵対する決意を固めた。
だが、実際はどうだろう。マリアは、ハインリヒのことをどう思っているのだろう。
許せない。
しかし、マリアの中で弟が消えたわけではない。家族を討たれた憎しみと同様に、楽しかった日々の記憶が頭の中に存在している。
マリアの戦いは敵討ちなのだろうか。そうであると謳いながら、答えを先延ばしにしているだけのようにも思えた。
立ち止まっていると、後ろから兵たちに連行されるラーノが追いつく。彼は疲れた顔で二人を見ながら、大人しく足を進めていた。
「ラーノ」
とっさに放ったレデンの一言に、ラーノは足を止めた。
迷いながら口を開閉するレデンの言葉を、ラーノは静かに待っていた。
「すまなかった」
たった一言だけだった。
他に言うべき言葉はあっただろう。言いたい言葉があったかもしれない。
それでも、レデンにはその一言を搾り出すことしか出来なかったのかもしれない。
「ありがとうございます」
ラーノはほんの少しだけ唇に微笑を描いた。
二人の様子を見て、マリアは眼を伏せる。
彼らの溝は、きっと埋まらないだろう。だが、それでも、少しだけ歩み寄れる気がした。
血の繋がった兄と弟なのだから。
「マ、マリア様ッ! 大変です! マリア様!」
ラーノが去った後、マリアを探す声が響く。
大袈裟な大声に溜息を吐きながら、マリアは駆け寄ってくるラウドンを振り返った。先にユリウスを迎えに行かせたのだ。彼の言うことは真実だったのだから、牢から出さなければならない。
しかし、ラウドンの隣には、ユリウスの姿はなかった。
「大変です! ……ユーリ様が脱獄しました」