21 夢と幻
鐘の音がうるさく鳴り響いていた。
城の敷地内にそびえる大聖堂の鐘だ。プラーガ城は歴史が古く、敷地内に様々な時代の建造物が混在している。
寝過ごした。
いつもは鐘が鳴る前に目を覚ますというのに。マリアは重い頭を抱えて身を起こす。
カーテンの隙間からわずかに差し込む光の筋が眩しく、思わず目を細めた。
「おはよう」
振り返ると、ユリウスが笑っていた。
相変わらずのリボンを揺らして亜麻色の髪をかきあげると、彼はカーテンを開けようと窓へ歩み寄る。
「マリア、ごめんね」
どうして謝るのだろう。寝ている間になにかあったのだろうか。
分厚いカーテンが開かれ、薄暗い部屋に朝陽が満ち溢れる。
その光が眩しくて、眩しくて……ユリウスの表情が見えない。マリアは恐ろしくなって、とっさに手を伸ばす。
しかし、窓辺に立つ友人には届かなかった。
「本当は、傍にいたいんだ。でも、ごめん」
「ユーリ?」
手を伸ばしても届かない。こんなに手を伸ばしているのに。彼の顔を見ることさえ出来ない。
「ユーリ!」
「ごめん」
ワケもわからず、マリアは友の名を呼び続けた。
行かないでくれ。
置いていかないで……。
「嫌だ……ユーリ!」
窓から射す光が強くなり、ユリウスの姿が見えなくなっていく――マリアの前から消えていく。
あのとき、どうしてヘルマンは死んだのだろう。どうして、彼が死ななければならなかったのだろう。
ヘルマンは私が殺した。
マリアが目を背けたからだ。
手を伸ばせば触れることが出来たのに、マリアはそうしなかったのだ。
大切なものなのに、守れなかった。
また失ってしまう。
そんな恐怖で胸が埋め尽くされた。
「…………ッ」
伸ばした腕が宙を掴む。
額から流れる大粒の汗が、涙のように目尻を濡らした。悪夢から覚めたと気づき、マリアは窓辺に視線を移す。
部屋の中には誰もいなかった。
汗で薄い夜着が湿り、空気が一層冷たく感じる。窓に近づいてカーテンを開けると、眩い光で部屋が満たされた。
まだ大聖堂の鐘は鳴っていない。
夢であったことに、マリアは安堵の息を吐いた。
しかし、不安を拭い去れなかった。胸騒ぎがする。
――マリア、ごめんね。
昨晩呟いたユリウスの声が蘇る。
マリアはすぐに着替えると、髪を結わないまま部屋の外へ出た。
「ユーリ」
ユリウスの部屋の扉をノックもせずに開けて押し入る。
いつもなら、透かさず苦情が飛んでくるが、部屋は静寂したままだった。寝台にいる気配もない。行軍中以外にユリウスがこの時間に起きていることは、ほとんどない。
壁を見ると、ドレスがかかっていなかった。彼はいつも、翌日に着るドレスを前日の夜に決めて壁にかけている。
既に着替えて部屋を出たということだ。
マリアはすぐに廊下へ駆け出る。
目ぼしい部屋を探したが、姿は見当たらない。
入り口で警備をしていた衛兵に尋ねると、少し前に外へ出たようだが、行き先はわからないよいだった。
マリアは広い庭に出て、ユリウスの姿を探した。あれだけ派手で目立つ服を着ているのに、肝心なときには影も見えない。
今は咲いていない薔薇のアーチを潜り抜ける。だが、蕾をつけた冬薔薇の前に人影を見つけて、足を止めた。
「あ……」
マリアの気配を感じたのか、レデンが振り返る。
恐らく、趣味の庭弄りでもしていたのだろう。あまり会いたくなかった顔を見て、マリアは青空色の瞳を伏せた。
「どうした。散歩にしては、表情が穏やかじゃないな」
マリアは構わず去ろうとした。しかし、レデンが彼女を追いかけて歩く。
「なにかあったのか」
「お前には関係ない」
「なにかあったんだな」
レデンがマリアの腕を掴んで引き止める。マリアは無理に振り払おうとしたが、レデンは押え込むように腕に強く力を込めた。
「放せ」
「嫌だ」
「強情な男は嫌われるぞ」
「強情なのはどっちだ、馬鹿女」
マリアは睨み付けるが、レデンは少しも怯まなかった。
「どうして、一人で抱え込もうとする。お前はいつもそうじゃないか。馬鹿みたいに一人で悩んで」
「うるさい、黙れ!」
「黙らない。ここは俺の城だ、城主が部外者の言うことなど聞くか」
レデンは無理やりマリアを押え込むと、襟首を鷲掴みにして自分の方に引き寄せた。
すぐそこに顔が迫り、夜色の瞳がマリアを射抜く。
「お前は俺が強いと言ったな。大間違いだ、馬鹿女。俺は強くなどない……一人ではなにも出来ないし、なんの力もない」
力の篭った声を叩きつけるように浴びせられて、マリアは口を閉ざした。
「何度も言わせるな……俺には、お前が必要だ。俺は一人ではない。お前だって、一人ではない」
「私は……」
「どうして、もっと周りを頼らない。俺を頼ってくれない。一人で抱えようとする」
「そんなこと」
「弱さは罪じゃない。強い必要などない」
違う……違う! 弱さは罪だ!
私が弱いから、なにも守れないんだ。
マリアは首を横に振って、レデンから離れようとする。しかし、レデンはマリアの肩を掴むと、そのまま自分の腕へと強く抱き寄せた。
「お前、本当に馬鹿だな」
しなやかで逞しい腕が頼もしくて、思わず肩の力を抜いてしまう。厚い胸板から心地良い体温が伝わり、髪にかかる吐息が熱く感じた。
レデンの胸から伝わる鼓動がマリアと呼応するかのように高く跳ね、抱き締める腕が微かに震えているのがわかる。
マリアは刹那の時に身を任せ、レデンの胸に深く顔を埋めた。
胸の内に立ち込めた霧が晴れ、奥底の氷が溶け出していくようだ。
「……ユーリを探して欲しい……」
力なくレデンの服を掴むと、マリアは小さく呟いた。