17 美しい思い出
視点変わります。
雨音が遠い。
身体が浮いたように、ふわふわと揺れている。
否、揺れている? マリアは朦朧とした意識の中で、薄っすらと瞼を開けた。
すると、見慣れた顔が浮かんだ。
「気がつかれましたか?」
優しい微笑み。
マリアはラーノに抱えられていることに気づき、ビクンと肩を震わせる。ラーノは思わずマリアを落としそうになるが、慎重に足を運んだ。
「こ、ここは」
「私に宛がわれた部屋へ。雨の中で倒れていらしたので……申し訳ありません。雨足も強いし、貴女の部屋よりも、私の方が近いと思って」
まだハッキリとしない視界の中で、扉が閉まる。程なくして、雨で濡れたマリアの身体が粗末な寝台の上に横たえられた。
「大丈夫ですか?」
ラーノの問いにマリアは呻くことしか出来なかった。
「良かった、今のところ熱はないみたいですね」
ラーノの掌が額に触れる。
思ったよりも硬くて冷たい男の手が、何故だか心地良く感じた。そのまま瞼を閉じるマリアの身体に毛布がかけられる。
「濡れた服をどうにかしないと。着替えられますか?」
マリアは曖昧に頷いて、緩慢な動作で半身を起こす。ラーノは戸惑ったように寝台を離れ、荷の中から自分の予備のシャツを取り出した。
マリアはシャツを受け取るが、室内にラーノがいることを思い出して、素早く毛布の中に逃げ込んだ。
「わ、私は外に!」
ラーノは逃げるように部屋を出た。それを確認すると、マリアは再び毛布の外に出て着替えを続行する。
自分より大きなサイズのシャツは違和感があるが、文句は言えない。レデンやラウドンに比べると少々小柄だと感じていたが、こうして見ると意外と逞しいのかもしれない。
「よろしいですか?」
扉の外から恐る恐る呼びかけられて、マリアは力なく返事をした。ラーノは着替えを済ませたマリアの姿を見て安堵の息を漏らし、寝台の脇に腰掛ける。
その頃には、頭痛も引いてラーノの顔を見ることが出来るようになっていた。
「少し顔色が良くなりましたね。心配したんですよ」
マリアは雨の中倒れたらしい。自分でもよく覚えていないが、ラーノがここへ運んでくれたのは確かだ。
「無理はしないでください」
「……すまない」
マリアが頭を下げると、ラーノは柔らかい笑みを作った。
見ているこちらが優しくなれるほど、心地良い笑みだ。
過去の幻影を纏った笑みがマリアの胸を抉る。
「どうして、あんな雨の中を歩いていたんですか」
問われて、言葉を詰まらせる。どうしてかは自分でもよくわからない。しかし、原因だけは鮮明に覚えている。
レデンから逃げたかった。
逃げることが解決になるとは思っていないし、なんの意味も持たないことはわかっている。だが、それでもマリアは逃げたかったのだと思う。
レデンと――自分と向き合うのが怖かった。
マリアがなにも言わないので、ラーノは困ったように眉を下げる。
「兄上のことですか」
「…………」
図星を突かれて、マリアは更に押し黙る。
「言いたくないんですか」
尚も黙るマリアに、ラーノは浅い息を吐いた。そして、寂しげに眼を伏せる。
「少し、兄上が羨ましいです」
マリアは首を傾げた。ラーノは躊躇いながらマリアに視線を戻し、ゆっくりと手を伸ばす。
わずかに頬を撫でた指先から熱が伝わる。そこから全身に鈍い痺れが伝染し、身体が動かなくなってしまう。
「私では、貴女の支えになれませんか?」
揺れ動く黄昏色の瞳に、傅くヘルマンの姿が重なる。
そうだ、あのときも――。
「貴女をお慕いしています」
――ずっと、お慕いしておりました。
耳を塞いでしまいたかった。
幻聴が幾多にも重なり、頭の中を掻き鳴らす。
そして、あのときと同じくなにも言えないまま震えている自分に絶望する。
ラーノの顔を見ることが出来ない。
ヘルマンと同じ顔を見ることが出来なかった。それなのに、目を逸らすことが出来ない。拒むことすら出来なかった。
まるで、ヘルマンに呪われているような気がした。
いつまで経っても、お前は私を逃がしてくれないのか?
何年前だったか。あれは、アドラで行われる祭りのとき。
「頼むから、勝手に宮殿を抜け出さないでくれよ。陛下にバレないように隠すの、どれだけ大変だったと思ってるんだい?」
ユリウスが呆れて声をあげた。
マリアが市街の祭りを見物するために、宮殿を抜け出そうとしたのが見つかってしまったのだ。
マリアは、幼年学校で知り合った友人の説教を聞き流しながら、不貞腐れたように椅子の上で足を組む。その隣で、ヘルマンが黄昏色の瞳に曖昧な苦笑いを浮かべていた。
「まあ、いいじゃないか」
「君はマリアを甘やかしすぎなんだよ! だいたい、衛兵を当て身で気絶させて抜け出すお姫様が、どこにいるんだ」
「殿下にだって、祭りを楽しむ権利はある。少しばかりお転婆であらせられるだけで……」
「少し? 二人もやったんだぞ、この兵隊馬鹿は!」
「少し……まあ、少しやりすぎただけだ……マリア様もきっと反省しているから、それくらいにしてやれよ。ユリウス」
マリアを庇うヘルマンに対して、ユリウスが真っ向から突っかかっていた。
ユリウスの主張が全面的に正しいのは、理解している。
祭りには王族も参加するのだ。しかし、馬車に乗ってパレードを行ったり、高いテラスの上から楽しそうな民衆を見下ろしたりしているだけである。とても祭りの空気を楽しむことなど出来ない。
マリアがいくら幼年学校で好成績を修める風変わりな王女であっても、十三の少女にとっては物足りないものだった。
それを承知の上で、ヘルマンはマリアを庇い、ユリウスはマリアを諌めた。
彼女を支えてくれるヘルマン。彼女に厳しく接するユリウス。どちらの存在も大切であり、これ以上にない友人だと思っていた。
「すまなかった」
結局、ユリウスの主張が通ってマリアは宮殿の自室に連れ戻される。窓の外では夕陽が落ちて、暗い夜が静かに降っていた。
祭りが行われる三日間、王都ベルジーナでは、あらゆる家々にランプが灯され、イルミネーションが行われる。元々は聖人を讃えた儀式だったが、それが慣習化して定着したのだ。
そろそろ、街中が幻想的な光に包まれている頃合だろう。城壁の向こうから、賑やかな音楽が風に乗って運ばれてくる。
「殿下」
不意に、扉の向こうでヘルマンの声がする。
マリアがゆっくりと立ち上がって扉を開けると、ヘルマンは優しげな微笑を浮かべていた。
「こちらへ」
「どこに行くんだ?」
静かに手を差し出され、マリアは眉を寄せる。だが、ヘルマンは「内緒です」と一言呟いただけだった。
「わあ……」
連れて行かれた先の庭を見て、マリアは青空色の瞳を大きく見開いた。
箱のように狭い庭を彩るランプの灯り。
淡い光が幾つも煌き、穏やかな風に花の影が優しく揺れる。温かな灯火に包まれた庭を見つめて、マリアは両の眼をキラキラと輝かせた。
「内緒ですよ」
祭りへ行けなかったマリアのために、ヘルマンが用意したものだった。マリアが嬉しくなって振り返ると、ヘルマンは柔和で優しい笑顔を浮かべた。
思い出は美しい。
こんなに美しいのに。
どうして、こんなに怯えなくてはならないのだろう。
胸に絡みついた思い出たちが、無数の悲鳴を上げているようだった。
† † † † † † †
「申し訳ありません。殿下にご迷惑をかけてしまいました」
ユリウスがラーノの元を訪れたときには、マリアは既に眠りに落ちていた。
一見、穏やかそうに見えるマリアの顔をユリウスは軽く撫でてやる。
「いいえ、私は偶然通りかかっただけですよ」
控えめに笑うラーノを振り返って、ユリウスは瞳を伏せた。
「マリアは……彼女は、殿下になにか言っていましたか?」
ユリウスの質問に、ラーノは少しの間考えを巡らせる。だが、やがて静かに首を横に振った。
「いいえ、なにも」
「そうですか」
「でも……私は、マリアさんに嫌われているのかもしれませんね」
ラーノはヘルマンと似ている。まるで、生き写しのようだ。
彼の存在がマリアを傷つける一因となっていることは明白だった。恐らく、マリアは彼の顔を見ているだけでも辛いに違いない。
そのことを考えるだけで、ユリウスも胸が痛んだ。
「マリアは……きっと、殿下を嫌っていないはずですよ。ただ」
「ただ?」
ユリウスの言葉にラーノが首を傾げる。その仕草まで、ヘルマンと似ていて、ユリウスでさえ頭が痛くなった。
「なんでもありません。マリアの場合はレーヴェでの息苦しさもあると思います。あまり、殿下がお悩みにならないでください」
「そうですか……マリアさんが大変なのは、私も理解しています。祖国やハインリヒ陛下のこともありますしね」
ラーノは右手で濡れたマリアの軍服を掴むと、一纏めにしてユリウスに差し出した。
穏やかそうに見えるが、存外大きな右掌には硬い剣だこが出来ている。
「……ええ」
荷物を受け取ると、ユリウスはマリアの身体を抱き上げた。そして、そのまま部屋を去る。
全ての体重を預けたマリアの身体が、ユリウスに圧し掛かる。
この辺りで、だいたい物語が半分程度です。
いくつか張った伏線も回収しながら、物語の終結に向かいます。月日の流れが、やや駆け足かもしれません。