16 薔薇の名
ちょっと時間経ってます。
神聖暦一七四一年、十月。
ヒューネルンの戦勝で勢いづいたレーヴェ軍は、各地で目覚しい戦果を上げた。
アドラと手を結んでいた周辺諸国の動向も慎重になる。勝利した自信が兵士たちの士気を上げ、国民を大いに鼓舞した。
「気になるのはルリス王国の動きだが、冬に入れば大人しくなるはず。現状の戦線を維持するだけで充分でしょう。出来れば、アドラ軍は早いうちに戦力を削いでおきたい」
マリアはレーヴェ領と主な要塞が描かれた地図を指差して語った。
こうして、指揮を任されてから一年半が経つ。最初は違和感があった白い軍服にも、すっかり慣れた。
マリアの提案で軍内もわずかながら改善されている。
旧式だった武器は、皇族の蓄えや宮廷の銀食器の一部を溶かしたことで、ほとんどが最新式のものに買い換えられた。教練も見直され、兵の質も少しずつ上がっている。
また、大臣や将校などには、身分が低くても有能な者を積極採用しはじめた。大がかりな官僚制の見直しによって、今までやる気がなかった重鎮たちも、焦って協力的な態度を示している。
レーヴェ軍は着実に進歩し、以前のような脆弱な軍ではなくなっている。
「アドラと同盟しているリオン王国はどうする。ついに国王が出陣したらしい」
レデンの問いにマリアは唇の端を吊り上げる。
「リオン軍が国境を越えるのは問題ない。適当に小競り合いをして領地から遠ざけましょう」
マリアは指揮杖を振って、コツンと地図の上を叩いた。
彼女が示したのはリオンの首都だ。レデンはマリアの真意を理解して笑う。横で見ていたラウドンや他の指揮官たちも感嘆の声を上げた。
「リオンは首都を落とします。流石に国王不在の間に首都が陥落すれば、リオンは大人しく降伏するしかない」
「だが、経路はどうしましょうか? こちらが国境を越えれば、流石にリオン軍は引き返すでしょう」
ラウドンがもっともらしい質問をしたが、マリアはそれも計算済みだった。
「グリューネ王国領を通ってリオンへ入れば、首都は目と鼻の先。グリューネは中立を決め込んでいたが、ルリスやアドラの進路に使われています。同盟軍側に対する恨みがあるはずだ。交渉の余地は充分にあります……あわよくば、こちら側について援軍を要請出来るかもしれません」
「では、遣いを出そう」
マリアが手際よく指示を出すと、レデンが満足げに笑った。首尾よく運べば、かなりの負担が減らせる。
「やはり目下の問題はアドラか」
いくらレーヴェ軍が勢いづいていると言っても、アドラとの戦闘だけを見れば、一進一退の状況だった。
レーヴェではアドラ軍の補給源である略奪を防ぐために、進路の村や町に家畜を逃がし、穀物も隠すよう命じてある。これによって、アドラ軍は随分と衰退しているようだ。
とは言え、根本的な質の差もあり、実質的な力関係は五分五分と言ってもいい。
恐らく、ハインリヒはマリアがレーヴェ軍を動かしていることを見抜いているはずだ。
そのためか、大掛かりな会戦は避けられており、劇的な戦況の変化はないのが現状だった。
国王を操って権力を手に入れた彼だ。必ず、何処かで仕掛けてくる。
「近いうちに決着をつけることになりそうだな」
マリアの心を読んだようにレデンが呟く。マリアは小さく頷くと、指揮杖の先をリオンからアドラ側へ移した。
「アドラの進路を塞ぎ、会戦に持ち込む。援軍と合流する前に潰しましょう」
向こうが仕掛けるのを待っている義理はない。勢力を弱めつつあるアドラを一気に叩けば、しばらくは大人しくせざるを得なくなるだろう。
決戦の予定地を決め、会議は終了する。一年半前に比べると、レーヴェ軍は見違えるほど動かし易くなった。
ラウドンや他の指揮官が退出すると、マリアは部屋に居残る。
駐屯地として利用している村は小さく、宿屋に借りた部屋は居心地がいいものとは言えない。それでも、外に天幕を張るよりはいくらかマシだ。今夜は雨が降るかもしれない。
「こんなところにまで、花か」
部屋の隅に置かれた植木鉢を見て溜息を吐く。
東方風の絵柄模様で飾られたガラス製の植木鉢には、青い蕾をつけた薔薇が植えられていた。
マリアに指摘されてレデンは不機嫌に唇を曲げたが、開き直ったように植木鉢に手を添える。
「新種の花だ。他の人間には任せられない」
「ふん。咲いたら、どんな色になるんだ?」
「咲いてみればわかる」
「そのくらい、勿体ぶる必要なんてないだろ」
「後でわかるんだから、別にいいだろ。これだから、田舎娘は」
レデンが妙な意地を張っているように思えた。最近は妙に落ち着いていたせいか、こういった彼は久々に見る気がする。
「咲いたら名前でもつけるのか?」
「悪いか」
「自分の?」
「違う」
「じゃあ、なんだ」
「しつこいぞ、左遷されたいのか。お前には関係ないだろう」
あまりからかわれるものだから、レデンは頬をわずかに染めて顔を逸らせる。彼は横目でマリアの表情をうかがうと、はっきりとしない口調で低く呟いた。
「この戦争が終わったら……お前は国へ帰るのか?」
「その約束のはずだ。契約を破るなら、私にもそれなりの考えがある」
「破りはしない。ただ……」
唇を噛み締めるレデンの横顔を見て、胸が痛む気がした。
時折、どうしようもなく胸が痛くなる。胸が高鳴るたびに、傷口が広がって体内に熱い血が沁みるような気がした。
思わず、手を伸ばしたくなってしまう。触れてみたくなってしまう。
だが、傍らに置かれた植木鉢のガラスに映る自分の姿を見て、マリアは寸でのところで思い留まる。
今のマリアはレデンと同じ顔をしていた。
――だが、お前を見ていると、辛そうだ。
ヒューネルンの前日を思い出す。
あれは事故のようなものだと思って忘れ去ろうと努力した。実際、事故だったに違いない。
あのときの彼も、今と同じ顔をしていただろうか。
よく覚えていないが、同じだったのだろう。だとすれば、今のマリアの痛みは――。
「駄目だ」
おもむろに呟いたマリアの声にレデンが眉を寄せる。マリアはレデンの顔を見ないように素早く踵を返して背を向けた。
友人を失った。国を追われ、家族を失った。
これ以上、なにも失いたくないのに。失いたくなんかないのに。
それなのに、まだ失ってしまうものを抱えようとしている。
「どうしたんだよ」
急に変わったマリアの態度を不審に思って、レデンが立ち上がる。
「やめてくれ」
しかし、マリアはレデンの手を振り払って、逃げるように宿の部屋の外へ駆け出る。
丁度降り出した雨が衣服や髪を濡らし、白い頬を叩いた。
それでも、マリアは行く当てもなく、夢中になって走った。最後には、自分の宿への帰り道も忘れて、雨の中を一人でとぼとぼと歩いた。
「なにをしているんだ、私は」
大切なものが増えたって、弱い自分では背負い切れない。
私は、強くない。強くなんかない――。
白い頬を幾つもの水滴が流れ、シルバーブロンドが額に貼りつく。
どうして、私が泣きたいときはいつも雨が降っているんだろう。天が暗い雲で覆われているのだろう。
まるで、神が弱い自分を断罪しているみたいじゃないか。
「マリアさん?」
うるさく降り注ぐ雨音の向こうで名前を呼ばれた気がした。マリアは振り返ろうと首を回すが、あまり視界が良くない。
霞んだ景色の向こうの誰かが駆け寄るのを見ながら、マリアは自分の膝が崩れるのを感じた。
冷え切った身体を支えた腕が、やけに逞しく思えた。