15 白い面影
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バルコニーへ出ると、マリアは気を落ち着かせようと浅く息を吸い込む。冷たい夜風が肺を満たすが、少しも楽にならなかった。
どうしてしまったのだろう。
あんなに些細なことなのに、こんなに苦しい。
「大丈夫ですか?」
唐突に声をかけられて、マリアは大きく肩を震わせる。
振り返ると、ラーノが心配そうに歩み寄っていた。
「蒼い顔をして歩いていたので、心配になって……お節介でしたか?」
「いや……」
マリアは軽く首を振ると、バルコニーの柵に身を預けた。
大理石を削って作った冷たい柵に、ラーノも肘を置いた。彼は黄昏色の瞳に優しい笑みを描くと、水の入ったグラスをマリアに差し出す。
「どうぞ」
「すまない」
ラーノから受け取ったグラスに口をつける。
「ありがとうございます」
ラーノの一言にマリアが首を傾げる。
「ヒューネルンのことです。本当は心配だったんですけど、私の取り越し苦労だったようですね。貴女がいなければ、レーヴェ軍は負けていました」
「……私は、なにも……」
「貴女の指示がなければ、数の差は覆せませんでした。兄上もそれを認めたから、貴女を正式に軍へ向かえたんです。レーヴェには、貴女が必要だ」
はっきりと断言され、マリアは青空色の瞳を見開いた。
「勝利は兄上だけのものではありませんよ。マリアさんがいたから勝てたんです」
「そう、だろうか……」
ラーノが頷いた。その笑みがあまりにも明るく、優しげなので、マリアも釣られるように頷いてしまう。
「良かった。貴女は笑っている方が、ずっとお綺麗ですよ」
いつの間にか微笑んでいたことに気づいて、マリアは口元を押さえる。ラーノは軽く笑声を上げると、バルコニーの柵から身を剥がした。
「思い悩む女性は美しいと言いますが、思い詰めるのは良くありませんからね」
「……口が上手いな、兄とは大違いだ」
「次男というのはね、器用になるものなのですよ。無能ではいけないし、兄を越えてもいけない。微妙な立場なんです」
確かにそうだ。特にこの兄弟の事情を見ていれば、そうなるだろう。
レデンは親に対して少々反抗的で負けず嫌いの皇子だった。故に、弟であるラーノは器用に振舞わなければいけなかったに違いない。
ハインリヒもそうだったのだろうか。
自分の弟を思い浮かべる。
彼はとても頭の良い子供だった。無邪気に笑った顔の下になにを思っていたのだろう。
だが、マリアは決めた。
弟であろうと、彼を打倒して故郷を取り戻すと。父を貶め、兄と母を殺した彼を許すことは出来ない。武力に頼り、他国を侵略することで繁栄する外交など誰も望まないのだから。
「ハインリヒ」
弟の名を呟き、夜空を照らす月を見上げる。
紅い三日月が妖しげに笑っていた。
「きっと、大丈夫ですよ」
はっきりと呟かれた言葉に、マリアはラーノを顧みる。
「マリアさんだったら、大丈夫だと思います。なにがあっても、きっと」
ラーノはマリアの手を握り、柔らかく笑った。温かな指先から熱が伝わり、すっと胸に溶けていく。
だが、それと同時に言い知れない息苦しさが身体を蝕んだ。
ラーノに重なるヘルマンの影が消えない。
亡霊のように絡みつく幻影が、呪詛のようにマリアを縛り上げた。
「どうしました?」
いつの間にか、黙ったまま俯いていたマリアの髪にラーノが触れる。マリアは反射的に払い除けようと、ラーノの左手を叩いてしまう。
ヘルマンと同じ利き手を払われて、ラーノは目を伏せた。
「……すまない」
マリアは半ば混乱する。自分に対して手を伸ばすラーノの姿が、どうしてもヘルマンと重なってしまったのだ。
ラーノは赤くなった手を押さえると、急いで笑みを取り繕った。
「こちらこそ、すみません。女性に気安く触れるなんて、配慮に欠けていました。本当に、すみません。マリアさんを困らせてしまいましたね」
――申し訳ありません、マリア様を困らせてしまいましたね。
黄昏を宿した瞳が儚く揺れる熱を灯す。言葉にしなくとも溢れる感情が伝わり、マリアは唇を震わせた。
寂しそうに瞳を伏せる姿が痛かった。その表情も、仕草も、なにもかもがヘルマンの影に重なって見える。
「けれど、覚えていてください。私は貴女の役に立ちたい。少しでも、支えたいと思います。レーヴェや兄上のためではなく、私の意思で」
意志を固めた強い眼差しが突き刺さる。
マリアはなにも言えないまま立ち尽くすしかなかった。
ヘルマンがそう言ったときと、同じように。
† † † † † † †
ヒューネルン敗戦の報せにアドラ宮廷は騒然としていた。
出来の悪い一万四千のレーヴェ軍に、屈強なアドラ軍が負けた。
しかも、この戦勝は落ち込んでいたレーヴェの勢いを取り戻させているようだ。同盟関係にあったリオンやルリスからは不満の書簡が届いている。
しかし、そんなことなど気にしない様子で、ハインリヒは無邪気に笑った。
異国から取り寄せた上質な紅茶に砂糖を入れながら、書簡の束を後ろへ投げ捨てる。
「慌てる必要はないよ、想定内だもん」
側近を務めるアイヒェルは赤毛の下がる顔になんの表情も浮かべずに、淡々と書類を拾った。
「レーヴェに置いた玩具には、これから仕事をしてもらうよ」
ハインリヒは自信満々に語ると、ティーカップにもう一欠けら砂糖を落とす。赤みを帯びた茶の中で、白い塊がゆっくりと溶けて崩れていく。
砂糖を大量に使うことは王侯の贅沢だ。それは節約家であった父が禁じていた行為でもある。
「ぼくが必ず勝つ、そうでしょ?」
「はい」
ハインリヒは紅茶に浮かんだミルクを匙で混ぜながら、小さく笑声を上げた。
天使のような悪魔の微笑を見ても、側近の青年は表情を変えなかった。
「姉上は本当に素晴らしい人だ。馬鹿正直で、クソ真面目で……本当に素晴らしく馬鹿な人だ。本物の、真性の大馬鹿だ。ぼくは姉上が好きだったよ。愛していたよ。本当の本当に好きだったんだ」
レーヴェ軍を指揮したのがマリアだということなど、わかり切っている。
そして、その目的も。
今まで、女であることを理由に軍才を充分に発揮出来なかったマリアは、ハインリヒに似ている気がしていた。
次男という王位を期待されない境遇ゆえに存在を無視され、ただの子供として扱われ続けたハインリヒと似ている。
だが、そのマリアも今はハインリヒと敵対することを選んだ。自分の首を狙うことを選んだのだ。
ハインリヒはゆっくりと紅茶をすすった。茶の香りとまろやかなミルクが、口の中で甘みと一つになって広がる。
大人しく泣き寝入れば、ずっと傍に置いてやっても良かったのに――否、違う。
マリアは決して屈しないし、それだからこそ、彼女なのだ。
人形のように他国へ売られる姉など、本来の姿ではなかった。立ち上がらないと意味がない。
「やっぱり、ぼくは姉上が大好きだよ。大好きなんだ」
子供であるハインリヒにも本気でぶつかってくれるのは、マリアしかいないと思っている。
彼女も同じだから。
軍事力を強めながらも、他国との戦争を渋った父王とは違う。マリアは、きっとハインリヒと同じ人種なのだと、本能的にわかる。
口では無意味な戦争は反対だと言っているが、本質は違う。
マリアは戦いたくて仕方がないのだ。自分の才を発揮したい。男や女の垣根など関係なく、戦いで才を発揮したいと思っている。
闘争なしにはアドラの発展がないことも、わかっているはずだ。
「武器のない外交なんて、楽器のない楽譜と同じだ……姉上だって、わかっているんでしょう?」
だから、容赦なく潰してやろう。完膚なきまでに。最高の屈辱を味あわせてあげなくちゃならない。
それが、大好きな姉上への最高の持て成しでしょう? そうでしょう?
「ぼくは、ずっとね……姉上と戦ってみたかったんだよ。姉上なら、きっと、ぼくのことをわかってくれるから。ぼくと本気で戦ってくれるから。だから、いつか戦うなら、相手は姉上が良いなって、思っていたんだよ?」
ハインリヒの唇から漏れる笑声が次第に大きくなる。
ああ、なんて晴れやかな気分なのだろう。
「○○がない△△なんて、豆腐のない味噌汁のようだ!」
と、よく言いますが、わたしは豆腐よりもワカメがない方が寂しいです。