私の花嫁(希望)
サーシャ・ブラッドリーは不思議な女性。
私が彼女に抱いた印象はこれに尽きる。
いつものように戯れに女性との行為を愉しもうと休憩室で接吻を交わしていると、きぃと音を立てて扉が開いた。私とのキスに夢中になっていた貴婦人は気付かなかったようだが、私の方はあまり愉しめそうにないなと内心しらけきっていたので、この状況でどんな人が来たのかと期待してしまった。
扉を開いて現れたのは、若紫色の長い髪、白雪のような白い肌、紅い瞳のご令嬢だった。彼女を見た瞬間、私はどこか既視感を覚えた。だが、この年頃の令嬢であれば、どこか別の夜会かダンス・パーティーで見たことがあったのだろうと思った。
自分が私の注意を集めていないことに気付いた貴婦人は、私と同様に扉を見て、人の姿を目にすると急いで部屋を退室して行った。貴婦人は旦那が亡くなってしまった未亡人でもあったのだが、旦那の家系からは旦那が亡くなった後も、我が家に良くしてくれる貞淑な妻だと思われている。そう思われているからこそ、貴婦人は旦那との間に出来た子供の面倒だけでなく、自分の実家の方の支援もしてもらえている。
それなのに、私と休憩室に居たとなれば、旦那の家からの支援はなくなるだろう。そういったものを壊すのが好きな私のせいだが、誘いに乗ってしまったうえ、鍵もかけ忘れた彼女も悪いだろう。
彼女とはこれが初めてではない。そろそろ手を切る時期かと思いつつ、暇になってしまった時間を入ってきた令嬢と埋め合わせるかと誘いの文句をかける。急いで部屋から出ないのだから、自分が代わりにとでも言うと思ったから。
だが、予想とは反して、令嬢はスパンと断ってきた。
休憩室は基本的に非公式な場であり、私は名乗っていないから、断ってもなにも問題はないが、公爵子息だと分かっているであろうに、私の誘いを断る彼女に興味が湧いた。
一礼して部屋を出ようとする、彼女の細い腕を掴んだ。予想以上に細い彼女の腕が折れてしまいそうで、ほんの少し力を弱めたが、彼女にとってはどちらも敵わないと判断するレベルの力の強さだったらしく、無暗に抵抗はしなかった。私を真正面に見て、彼女はやや不服そうに言葉を紡ぐ。
「…なんですの? 邪魔をしたのは悪かったと思いますが、鍵くらいかけるべきですわ」
「それについては異論ないよ。今度からは気をつけることにするよ。でも、そうじゃなくて、私は貴方の名前が知りたいんだ」
「……私はブラッドリー侯爵の娘、サーシャ・ブラッドリーですわ」
彼女の名前を聞いて、ようやく既視感の正体が分かった。紅い、赤い、朱い瞳。ブラッドリー家のものであるなによりの証拠であるというのに、なぜ私は思いつかなかったのか、やら、酒に酔って思考力が鈍っていたのか、といったことが頭を巡ったが、一番思考を占めていたのは、彼女の兄のことだった。
アラン・ブラッドリー。ブラッドリー侯爵家の長男であり、天才とも呼ばれる男。その才能の片鱗は五歳から見えていたというのだから、本当に恐ろしい男だ。
そして、この男、天才ともあれば、少し年の違う私とも対等に話せるだろうとのことで公爵家にも時々連れて来られた。
一番最初に連れて来られたとき、私はそのような事情からアランが来たとはまったくもって知らなかった。だからこそ、年上ぶって家庭教師から習ったばかりのことを偉そうにアランに言えたのだ。
アランはというと、私が話し終えると、「まだそこまでしか習ってないんですか? それとも、公爵子息様の物覚えが悪いだけですか?」と言ってきたので、このクソガキ……という気持ちになりつつも、アランがどうせ話すならこれくらい分かりやすく話せよと言わんばかりに、というか言い方は違えど、実際にそう言ってから話した内容は、認めるのは不本意だったが……本当に、不本意だったが! 分かりやすかった。
私としては気に食わない場面のうちの一つに入っているのだが、当時の親からしてみれば、私が対等に話しているという当初の目的が果たせていたので、アランはそれ以後も私の屋敷にはよく来た。そのたびに、年上という私のプライドは思い切り砕かれ、屈辱を胸に刻みつけられた。
今にして思えば、公爵子息ということもあって、鼻高々だった私がアランとの出来事により変えられたことは良かったことだと思う。アランよりも年の近いものもいたが、頭の程度から言っても、アランは飛びぬけていた。悟られぬように切磋琢磨したために、私が公爵子息たれと言われているのに近づいたのも確かだ。
だからといって、アランに感謝するのは違うと思っている。というか、絶対違う。
私が公爵子息ということが本当に分かっているのかと言いたくなる態度に加え、私の屋敷の者が作った物を持ちだすこと幾数回。私の知らない間に私の屋敷を含めた諸々に色々工作していることなんて、数え切れない。
そんなアランの妹かと思うと、ちょっかいをかけるのは悪くない発想だと感じた。自分で言うのもなんだが、私の容貌は整っており、並の女性であれば簡単に靡く。今目の前にいる女性が私に靡けば、アランの鼻も明かせられるという軽い気持ちだった。
色々な気持ちを込めて、彼女の言葉に納得して見せる。
私の事をやはり知っていた彼女に、知らなかったことを謝るが、当然だと言われた。
彼女の言っていることは間違ってはいないが、間違っていないからこそ面白くない。なにか話の種になることでもないかと彼女を見ていたが、彼女の白い肌が最初よりも青白くなっていることにようやく気付いた。
私は普段、休憩室は行為の為に使うので、行為を行うための場所だという認識であったが、休憩室の主目的は名前のごとく休憩するためだ。お相手もいない彼女が何をしに来たのかだなんて、考えるまでもなく分かるはずなのに、引きとめてしまった。
彼女には悪いことをしたと思いつつ、次回あった時はどうやって私に恋をさせようかと企んだ。そして、私に溺れさせてしまってから、こっぴどく振るのも面白いと思っていた。
しかし、私は彼女がアランの妹だということを分かっているつもりだったが、本当の意味では分かっていなかったのだ。
それから、サーシャ・ブラッドリーの姿を目にする時に話しかけようとしたものの、彼女の隣には大抵兄であるアランがいた。アランは私に気付くと、彼女と共に移動していく。
兄の目を掻い潜って彼女に話しても、彼女の中で、私は女遊びが好きな人となってしまったらしく、話しかけてもつれないものしか返してくれなかった。まあ、実際それは間違っていないのだから、彼女の返しは適切であると言えるかもしれない。
だが、私の家は公爵家であり、それでもいいからという人も多いのだ。それなのに、彼女は私に靡かない。あのアランの妹なのだから、並の女性では無かったということか。
このことがようやく分かった時、私は彼女との関係が楽しくなっていた。つれなく返されることが多いが、彼女の返しはアランよりも険が無く、それでいて面白い。
これは恋ではないだろうが、彼女となら婚約してもいいと思えた。彼女も恋ではないだろうが、公爵家との婚約はノーとは言わないと思っていたころ。
ある夜会にて、彼女を見つけた。彼女はやはり兄と一緒だったのだが、兄と話す彼女は前よりもよく笑っていた。そして、彼女の纏う空気といえばいいか、雰囲気といえばいいか、よく分からないが、柔らかで、しかしどことなくピンと張りつめていたものが、しなやかで、甘いものへと変わっていた。
そんな彼女の笑みを見た時、私は今まで散々馬鹿にして来ていた一目惚れのようなものをしてしまった。これが初めて彼女に会うわけではないのだから、一目惚れなどという言葉を名づけは出来ないと分かっているが、彼女を可愛いと思う感覚がじわじわと身体へ浸透していく。この気持ちに名前を付けるなら、きっと恋か。それとも、愛か。
赤くなった顔を隠すため、手で覆うと、私が眩暈を起こしたと思った令嬢が「休憩室へ行かれては?」と心配そうに言ってきた。
休憩室へと向かうサーシャ・ブラッドリーが見えた私は、これは好都合と思い、私が心配だから着いて行くと言った令嬢を置いて、休憩室の方へ向かった。
屋敷の使用人にサーシャ・ブラッドリーの休憩室は分かるかと聞くと、たまたま見たものが居たらしく、案内してもらう。
今まで何回も話してきた彼女と話すというだけなのに、扉をノックするのが妙に緊張する。だが、ゆっくりしていては、彼の兄が戻ってくるだろう。内心の動揺を悟られないように、ノックする。
「おにいさま?」と言いながら鍵を開ける彼女の言葉に否定も肯定もせずに、扉が開くのを待つ。扉を少し開けて、兄ではないと分かると、ゆっくりと閉めようとしてきたが、それは困ると中へ入る。
サーシャはそのことに対して少し怒った顔をしたが、悪いと思うどころか、そんな顔も可愛いと思ってしまったのだから、私は重症だ。
その後も驚いて見せたりと彼女の表情はコロコロと変わった。そうか、彼女がこんなにも表情を露わにしていたことは今まで無かった。口角を上げて微笑んでいたり、眉を寄せて困っていたり、そんな彼女も嫌いではなかったが、私は今の彼女の方が好きなのだ。
今の彼女なら、ただ手元に置いておきたいという気持ちだけでなく、彼女が心から望む結婚を出来る相手になれそうだと思いつつ、愛の告白をする。赤くなっている彼女の表情に喜びながら距離を詰めていたが、良い所でアランがやってきた。
アランはサーシャの周囲の男を全て蹴落とす。どういうつもりでやっているのかは分からないが、サーシャの実の兄であるからと言って油断してはこちらがやられるだけだと分かっている。だからといって、素直に引くのも惜しいと思っていたが、最初に自分が言った言葉を思い出した。
名前で呼んでほしい。この頼みにサーシャは応えた。彼女の口から紡がれるだけで、なんとも自分の名前に価値があるように思えてしまうなんて、安いものだと恋に溺れてしまっている自分を悟られないように満足げに部屋から出て行く。
彼女を必ず私のものにするという誓いを胸に秘めて。
しばらくすると、両親にバレた。狸共が蔓延る世界に身を置く二人だ、私の気持ちなんて、目をつぶっていてもわかるといったところか。
だが、だからといって、「童話みたいにしたら、彼女も貴方にクラッときちゃうかも!」というのはどうかと思う。
あれは男の方は王子で、主人公は継母と姉から苛められている可哀想な子という設定では無かったか。
私の立ち位置はそれほど遠くはないかもしれないが、サーシャの方は姉の代わりに兄がいるが、苛めるどころか溺愛している。母の期待通りにはいかないだろうと思っていると、ダンス・パーティー参加者の名前に彼女の名が無かった。
なんと彼女は欠席とのことだ。母はがっかりするかと思ったが、反対に喜んでしまった。最初は来る予定じゃなかったというところまで似ていると。
魔法使いが現れるわけもないので、彼女の元へ公爵家から使いを送る。公爵家用の馬車ではあるが、彼女はこちらが頼むのだから、と特別に乗ってきてもよいと言っておいたのだが、彼女の兄からは、「自分たちは元から行く予定でしたから、一緒に行くので馬車は大丈夫です」と断られてしまったそうだ。
やはり、敵は侯爵家に有りかと、溜め息をついていると、パーティーが始まったらしく、参加者たちは踊り始めた。
私の姿を探している令嬢が居るのも分かったが、彼女に恋に落ちてからは、どうにもそういう気にはなれなかったので、その場に出て行かず、広間を一望できる場所から皆を眺めていた。
そのまま下を眺めていると、ブラッドリー侯爵並びにアランと共に、サーシャが来たのが分かった。今すぐにでも飛び出していきたかったが、アランが側にいては勝ち目がないと分かっていたので、好機をうかがった。
一曲踊り終えてからもらった飲み物を飲んでいるアランだったが、サーシャになにか話しかけると、広間から出て行ってしまった。運が巡ってきたかと思いつつ、急ぎ足で広間へと降りて行くと、サーシャはバーナード男爵に話しかけられていた。
彼は黒い噂しか聞かない男である。女性に対しての態度なんて、目に余るにもほどがある。父の耳に入るくらい事態は発展しているので、近々彼は粛清されることになるだろう。というか、サーシャに近づいたことが許しがたいので、粛清されてほしいという私事が入ってしまっているが。
男爵を彼女から遠ざける。彼女が注目を浴びてしまっていたので、場所を変えることにする。
彼女には聞こえないように、しかし、周囲には聞こえるように休憩室へと向かうと告げる。それを聞いて、具合の悪そうな彼女には適切な処置だと思う人もいれば、私が彼女と事に及ぼうとしているのだと思う人もいるだろうが、それはそれでいいのだ。
そんな噂が広がって、彼女自ら私の手に堕ちてくればいいと酷い事を思いつつ、部屋へ向かう。休憩室などではなく、私の部屋だ。
さっきのボーイへの言伝は、時間稼ぎも出来る一石二鳥の言伝だったのだ。
色んな意味で甘い、彼女とのお茶会を楽しんでいたが、残念ながら婚約は断られてしまった。まあ、この恋は始まったばかりなのだから、それでいいかという気持ちと、バーナード男爵に関する詳しい情報をさらに集めようと決意することで、残念な気持ちを押しこめた。
「というわけで、私は最近のサーシャにはますます惹かれていくのを止められない」
「もぐもぐ」
「紅茶も飲みなよ」
「うん」
「……私の話、聞いてたかい?」
「お菓子美味しい」
「聞いてた聞いてた」
「フラン、お菓子を褒めてもらえるのは嬉しい。うちのものにも伝えておく」
「うん、お願い」
「でも、私が求めている回答はそうじゃないんだが…。そして、アラン、君、聞いてなかったことを隠すつもりもないだろう」
「嫌だな、ちゃんと聞いてたって返事したじゃないか」
「言葉だけならね。でも、フラン同様にお菓子食べつつ、私の方を見向きもしないという態度が本当のことを表しているよ」
「まあ、隠す気もなかったしね」
「キューベレ様、終わったなら、つぎ俺の番?」
「ああ、そうだね」
「まあ、君の話から昔のサーシャの事が聞けそうだし、君の目から見たサーシャも気になるね」
フランは紅茶を優雅に飲み干してから、その口を動かし始めた。
アランが思いの外真っ黒になってしまったと言うべきか、
キューベレが弱くなってしまったと言うべきか……。
閲覧有難うございました。




