眠りをなくした羊のうた
もういつの頃からそうだったのか今となっては誰にも分からないし興味もないが、そこはとにかく戦争の絶えない国だった。
他の国に行ったってどうせ状況は似たようなものなんだろうから、生まれたのがこの国だったことを嘆いたことは特にない。戦禍に巻き込まれて親を失った子供なんて自分たちの他にも大勢いたし、いつまでも悲嘆にくれていたところで同情してくれる者などいはしなかった。
第一、そんなどうでもいいことで頭をいっぱいにするより、もっと切実な問題はいくらでもあったのだ。
今日の晩飯と、明日の朝飯。体を壊さないで済む程度に清潔な飲み水。時々飛んでくる砲弾や、飢えた野犬や、砲弾や野犬よりももっと危険な大人たちの手から逃れることのできる、安全な寝床。最低限凍え死にを避けられるくらいの、体をくるむに足る布切れ。
病気になんぞなったところで医者にかかる金などない。ぐずぐずと立ち止まって過去を振り返り、なんにもしてくれない死者を恨んだり悼んだりするよりも、今日をどうやって生き延びるかを考える方がずっとずっと大切だった。
『ねえユーリ。生きようね』
一緒の年に生まれて隣り合った家で育って、仲良く一緒に二親を失くした幼馴染のその少女は、小さな背中を精一杯反らして綺麗な灰色の瞳を空に向け、ユリウスの手をきゅっと握ってそう言った。
その当時、まだ十歳にも満たない子供だった自分はそうそう気の利いた返事など返せるはずもなく、それでも彼女の声の奥に隠れた真剣さだけは読み取っていたから、ただ黙ってきゅっと彼女の手を握り返した。
『生きようね、ユーリ』
『あたしたちは、生きようね』
『生きてればいつかは幸せになれるとか、そんなこと信じてるわけじゃないけど』
『でも、約束するから』
『誰を失っても』
『何を得られなくても』
『世界に見捨てられたって』
『世界が、初めからあたしたちなんか見ていないんだとしたって』
『あたしは見捨てないから』
『あたしだけは絶対に、あたしとユーリを見捨てないから』
彼女の言葉に自分がどう答えたのか、今はもう覚えていない。
***
砂塵混じりの乾いた風が、ひどく頬に痛かった。一歩歩みを進めるごとに、砂漠越えに慣れていない足を細かい黄砂が掬った。
防塵マスクを着けていなければ、口の中はとっくにざりざりになっていただろう。青空色の瞳をゴーグルの奥に隠した金髪の少年――ユリウスは、頭の片隅でそう思う。
(どれだけ歩いたんだろう)
次の街まであとどれくらいかかるのか、いまいち距離感が掴めない。
何日もかかるようでなければいいなと思う。あくまで思うだけだ、祈りはしない。祈る相手などいないことを、彼はとっくに知っている。
日頃の運動不足が祟ってか、彼は体力に自信があるとはお世辞にも言えない体だった。
必要に迫られている以上歩くことに文句を言うつもりはないが、こんなことならもう少し体を動かすようにしておくんだったと思ってしまうのは今更意味のない後悔なのだろう。先にも役にも立たないのが後悔なのだと言ったのは、果たして誰だったか――。
「――っわ、」
意識が半ば以上思考へと飛んでいたのに加えて砂と疲労に足を取られ、顔面から転びかけたところを、すっと伸びた細い腕に支えられた。自分のそれよりもずっとしなやかなのに、自分のそれよりもずっと強い。
「疲れたの、ユーリ」
かけられたのは、落ち着いた、気遣うような声だった。差し伸べられた手を握ったまま、ユリウスは相手の顔を見上げて笑みを返す。
「ありがと、俺は大丈夫だよ。リュカこそ平気か?」
「あたしは平気。疲れとかちっとも感じなくて済むから、楽でいいわ」
そうか、と言い、ユリウスは体を起こす。再び歩き出す彼の隣に、彼と同じような格好をしている少女が元のように並んだ。
ユリウスと同じデザインのゴーグルに、防塵マスク、外套。少女が被っている陰気な砂除けのフードの下に、明るいオレンジ色の髪と灰色の瞳があることを、ユリウスは知っている。
「……なんかさ、こんな所まで来たの初めてだな」
ぽつりとユリウスが呟くと、リュカは肩を竦めた。
「まぁね。もうずっと籠もりっ放しだったし、自分で出て来なきゃいけないような用事もなかったもの。……あー、でもオアシスの場所、もうちょっと細かくチェックしておくんだったわね。これは失敗だったわ」
「仕方ねえよ、そんな時間なかったし。あ、今更だけど砂には気を付けてくれよ。こんな所でお前が動けなくなったりしたら、色々かなりまずいから」
ユリウスの藍色の頭髪は、とっくに砂でバサバサだ。かゆいし鬱陶しいけれど、払ったところで無駄だろうから、ぐしゃぐしゃと掻き回すだけに留める。
「分かってるわよ、それくらい。あたしだって一応その道のエキスパートだったんだから」
「はは、それもそうか」
風に煽られて靡く外套をかき合わせながら、顔を見合わせて二人で苦笑する。
生まれ育った国の首都を出奔し、遙々逃げてきているところだというのに、不思議なくらい悲壮感を感じなかった。その理由がどこにあるのか、ユリウスはちゃんと知っていた。
砂漠だろうが海の真ん中だろうが、隣にこの幼馴染がいるのなら、きっと自分は何も怖くないのだ。
「……追っ手、来るかなあ」
今度はリュカが、思い出したように呟いた。
「来るだろ。本国の連中、どうあっても俺たちの研究結果が欲しいんだから。敵国軍と反乱軍、両方に圧されてる現状なら尚更な」
「自分たちのやったことながらびっくりしたもんね」
「まさしく最高傑作だよな。ま、国でトップを争う天才がダブルでかかったんだから、ある意味当然っちゃ当然だけど」
「うわ、自分で天才とか言っちゃったよこの人」
「いいじゃん、周りだってしょっちゅうそー言って褒めてくれてたろ? 客観的な事実だ」
「褒めてたかなぁ。あれはどっちかというと皮肉とか僻みに分類されるんじゃないかしら」
「それは言ってやるなよ。狭心な凡人どもがいじましくも余裕を演出しようと必死で虚勢を張ってたんだから」
わざとそんな風に置いてきた上司たちを揶揄して、二人は目を見合わせ、くすくすと意地悪い顔で笑い合う。
「……早く国境越えないとな」
ひとしきり笑った後で表情を真剣なものに戻し、ユリウスは呟いた。リュカが首を横に振る。
「ううん、そろそろ休憩した方がいいわ。ずっと歩きっぱなしだもの。ユーリは疲れるんだから、あんまり無理したら駄目。……心配ないわよ、半端な追っ手ならあたしが蹴散らしてあげるから」
「……うん、さんきゅ。頼りにしてる」
リュカの顔を見て笑い返す。一応ユリウスも拳銃を持ってきてはいるが、弾丸のストックはそう多くはないので心もとない。
「でも、ほんとにまだ大丈夫だからさ。こう見えても俺、根性だけはあるんだぜ?」
「またそんなこと言う。あんたって昔っから頑固者だったわよねえ」
「あはは」
「あははじゃないわよ。いっそあたしが背負ってってあげよーか?」
「うあ、それ普通にヤだな。同い年の女におんぶしてもらうって」
「嫌なら仕方がないけど、でも倒れたりしたら問答無用で背負うからね。睡眠薬でも飲ませて、丸一日は下ろさないわよ」
「あー……。も少し歩いたら休憩しよーか」
ユリウスが呟くと、リュカはまた笑った。びゅう、と風が吹いて、黄砂が渦巻いた。
***
一日、一週間、一ヶ月、一年。時が経つごとに、自分たち以外で同じストリートを塒にしていた子供たちは、どんどん姿を消していった。
気付いたらいなくなっていてそれっきりの奴もいたし、後になってぼろぼろの死体が見つかった奴もいた。
そういった時は自分たちもそれなりに悲しんで、二人で手を繋いでいなくなった彼らのために何かを祈って、けれど所詮は『自分たち以外』である彼らに対してそれ以上のことをしてやる気になったことは一度もなくて。
そんな中で自分たちが、しかも二人揃って十四の歳を迎えることができたのは、正直奇跡と言う他ない。もちろんそうなるためにいつも死ぬ気で頭と体を使い続けていたとは言え、それだけで生き延びられるほど甘い世界ではなかったから。
そんな中で、まともな学校教育も受けていなかったはずの自分と彼女が、どうやらとある分野において非常に高い才能を持っているらしいと判明した時は――そしてそのお陰で国のお偉いさんに目をかけられて拾われて、国立の研究機関にスタッフ見習いとして入るようにとのお誘いを受けた時には、これは一体何の罠かと心底疑ってしまったものだ。
今まで必死で足掻いていた自分たちの姿を高い所から眺めるだけ眺めておいて何ら救いの手など差し伸べてくれなかった悪趣味な神様に突然目をかけてもらえたなんて舞い上がるほど自分も彼女もおめでたくはなかったし、それだったら何の気紛れでか自分たちに目をつけた根性悪の悪魔が、このしぶといガキどもの腐れ人生の幕引きを面白おかしく演出してやろうと思い立ったとでも考える方がよっぽど納得がいく。
それでも、そろそろストリート生活には限界が見えつつあった頃だし、他にまともな選択肢もなかったから、二人で何日も迷い続けた末、とうとう自分たちはその世界に足を踏み入れることに決めた。
礼儀正しいけれど誰にも懐かず、拒みはしないけど誰かを受け入れることもなく、ただいつもひっそりと二人だけで寄り添っている拾われ者の天才児たちが、ある研究理論を確立させたことを切っ掛けに急速に上から認められ、機関の一角を任されるようにまでなったのは、おおよそ一年後のことだった。
***
「ほらユーリ、水」
「ん」
渡された水筒の蓋を開いて口をつけ、ユリウスはゆっくりと中身を含む。一口分の水をすぐには飲み下さず、何秒も置いて口腔を潤してからようやく嚥下した。
「やっぱりアシがないと不便だな」
水筒を返しながら言う。隣に座ったリュカが、自分は口をつけないまま水筒をザックにしまい、「仕方ないわよ」と答えた。
「せっかく盗んできたバギーが予想以上にポンコツだったんだもの。あのエンジン見た? 一日持っただけでも上出来だわ」
「よっぽど酷使されてたんだろうなあ。まったくこの物質難の時代に、モノを粗末に扱いすぎだっつの。そのおかげで巡り巡ってこんなことになる」
どこか子供っぽい仕草で頬を膨らませてぼやくユリウス。後ろに手をついて仰向くと、まだ高い太陽の日差しが目に沁みた。馬鹿馬鹿しくなるほどの晴天が、頭上にからりと広がっている。
「曇ってたら良かったのに」
ぼそりと呟くと、リュカが横目でこっちを見てくる。
「リュカはこういう色が好きだ、って言うんだろ?」
先取りすると、リュカはちょっと瞬きしてから肩を竦めた。
「好きだけどね。でも、砂漠の真ん中で快晴を喜ぶほど間抜けじゃないわ」
言いながら、彼女は自分のマントを脱いでユリウスの方に放り投げ、その上からぽんぽんと頭を叩いてきた。
「首都からはだいぶ離れたことだし、少し寝なさいよ。日が落ちたらまた出発しましょう。その間はあたしが見張ってるから」
「……ああ」
素直に頷いて、ユリウスは砂の上に横になった。
炙るような直射日光を何時間浴びても、リュカの白い肌は日焼けをしない。汗もかかないし、そもそも体温だってほとんど変化していないだろう。
さっき水筒を受け取りながら軽く触れた時もそうだった。彼女の手は、周囲の気温よりも自分の体温よりも、ずっとずっと低かった。
(……当たり前か)
だってリュカの身体は、今の状態で完全に固定されているのだから。
たった十七歳で、彼女は時を止めてしまった。綺麗なオレンジ色の髪がこれ以上伸びることだってない。切れば伸びるだろうが、今と同じ長さになったらまた止まる。爪だって同じだ。
これこそ人間の求める完璧な姿なのだ、と言う奴もいるのだろう。飢えからも老いからも病からも、睡眠からさえ解放された彼女のことを。尤も、面と向かってそんなことを言うような阿呆が本当にいたら、そいつの脳天に銃弾を叩き込まないでいられる自信はないが。
――彼女は自分の罪の証。
(だって、俺が彼女をこうしたんだから)
自分の心をリュカの目から隠すように、ユリウスは被せられたマントの両端をぎゅっと握って顔を覆う。黙って膝を貸してくれるリュカにしがみつくようにして、強く強く目を閉じた。
***
クーデターが起こったと知らされたのは、いつもとまったく変わらずどこまでも能天気に晴れ渡ったある日のことだった。
内も外もひたすら病んでいるこの国にとって内乱が起こるのは別に珍しいことではなく、時には重臣が、時には民衆が剣を振り上げては、そのたびに絶対的権力者たる国王様とその下僕たち(忠実な臣下とも言う)に問答無用で叩き潰されるのが常だった。場所が首都というのは初めてだったが、下手に上層部に近いせいで不穏分子も燻りやすいのだろうか。
だが今回に限っては、どうやら少しばかり勝手が違ったものらしい。
長らく続いた、続きすぎた戦争に、あるいは不作や税率諸々のそれ以外の何かを理由に、ただでさえとてもじゃないが長いとは言えない国民たちの忍耐という名の導火線は見る見るうちに燃やし尽くされ、とうとう起こった爆発と同時に反旗を翻した重臣と民衆の連合軍の勢いは国王軍と拮抗し、また宮殿を攻めるのと同時並行して国が抱えていたいくつかの重要機関をも襲いにかかった。人間の命を弄ぶ傲慢な罪人どもに鉄槌を、と叫びながら。
その話を聞いた時、ちょうど離れた市場に買い物に出ていたユリウスは、蒼白になって研究施設に駆け戻った。それは、恐らく現時点においてこの国で最も重要なモノの傍にいる、大切な幼馴染の無事を確かめるためだ。
しかし、研究室に飛び込んだ瞬間ユリウスの目に入ったのは、いつもの笑顔でこちらを振り向く幼馴染の姿ではなかった。
そこにあったのは、あちこちから火花を上げる、破壊され尽くした設備と――
――血溜まりの中に倒れ伏す、白衣を纏った細身の身体。
『――リュカ……っ!!!!』
絶叫し、駆け寄って、震える手で彼女を起こす。
自分が好きだった灰色の瞳はすでに固く閉ざされて、呼吸はほとんど虫の息。何発も銃弾を撃ち込まれ、まだ死んでいないのが不思議なくらいだった。
否、わざとそうされたのだ。「罪人」たる彼女をすぐに楽になどさせないよう。十分に苦しんで死ぬように。
『リュカ! リュカ! リュカ、リュカ、リュカ――!』
それしか言葉を知らないみたいに。呼んでも叫んでも縋っても、彼女はもう目を開かない。だってユリウスは間に合わなかったのだ。彼女は二度と、自分の顔を見てくれない。
己こそが走馬灯でも見ているかのように、いつかの彼女の明るい笑顔が、脳裏を過って灰色になった。
――ああ、自分は独りになるのか。
焼き切れそうな脳の片隅で、妙に冷静な一部が呟く。
彼女は自分を置いていく。なのに彼女を蝕む死は、彼女に最期の言葉すら遺させない。
――駄目だ。
空白になったユリウスの頭の中で、誰かの声が囁いた。
――駄目だ。
――駄目だ。
――駄目だ。
――そんなことは、
――――――――――――――――――――――――――――――――絶対に許さない。
胸の奥底でどす黒い汚泥が湧き上がった気がした。それは多分、ユリウスが初めて感じる、煮え滾るような憎悪と絶望だった。
『……許さない』
ユリウスは今にも命が途絶えようとしているリュカの身体を注意深く抱え上げ、足早に壁の一隅に向かった。壁の色に溶け込んでいたカバーを開けて現れたタッチパネルを片手で操作し、隠し部屋への入り口を開く。
表の研究室など、子供の遊び場のようなものでしかない。この向こうこそが、自分たち二人の他には上層部のごく一部しか知る者のいない、彼らの本当の研究室だった。
『ごめんな、リュカ。この奥にあるものは封印しようって、二人で決めたのにな……』
本当はとうに完成していた、自分たちの研究。表には出すまいと約束したその言葉を、ユリウスは己の傲慢によって裏切る。
――だって怖いんだ。心臓が止まってしまいそうなくらいに。
真っ暗な目で、ユリウスは呟く。これから弄ぶ命に許しを請うように。迷いも良心も何もかも切り捨てるように。
『見てるだけの神様よりも、面白くなければ何もしようとしない悪魔よりも、誰が生きて誰が死んで、何を失うことよりも……』
お前に置いて逝かれる方が、俺にはずっと怖いんだ。
***
強く体を揺する手に、ユリウスの意識は引き上げられた。さっきからあまり時間が経ってはいないのだろう。西に傾きかけた太陽は、それでも未だ空高い。
「どうした?」
夢の残滓として瞼の裏に残る忌まわしい過去の光景を、瞬き一つで振り払い。身を起こしたユリウスは低く問いかける。
「音がするの。少なくても三台以上。……多分、軍用車の駆動音」
灰色の瞳を微かに煌めかせ、両目を細めて遠くを睨みながらリュカが言った。
リュカの耳は特別製だ。如何に消音性に長けた軍用車両であっても、そこが生き物の気配もない静かな砂漠であるならば、相当の距離が空いていようともその耳は音を捉える。
「行こう、ユーリ。ここから徒歩で二日くらいの位置に街があるはずよね。少しルートを変えて、急いで向かった方がいいわ」
「分かった、任せるよ」
首肯したユリウスに、ん、とリュカが背を向けて蹲った。リュカの言いたいことを正しく感じ取ったユリウスは一瞬躊躇し、しかしすぐに溜息を吐いてその背に負ぶさる。
急ぐとなると、ユリウスに無理が出るのは明らかだった。ろくな日除けもなしに短時間寝転がっただけでは、まともな休息を取ったとは言えない。
「これ、イヤだったんだけどなぁ……」
「仕方がないでしょう、あんたやっぱり疲れてるんじゃない。素直に大人しくしてなさい」
渋面で呻くユリウスを軽く揺すり上げてしっかり背負い直し、リュカは勢いよく地面を蹴った。
予備動作もないその行動に慌ててしがみ付いたユリウスの耳元で、ごうっ、と風が鳴る音がする。周囲の風景がほとんど変わらない中、風の音と頬に当たる風圧だけが、凄まじい速度で移動していることを実感させた。
ゴーグルを着けていなければ、砂と風圧で目を傷めていたであろう速さだ。そのまま数十分も走り続けた後、ざざっ、という音と共に、これもまた唐突にリュカの動きが停止した。
「――着いたわよ、ユーリ」
言われて目を開けると、目の前にはもう街の門があった。
これ以上近づけば、見張りと検問をしている門番に気取られるのだろう。リュカはユリウスを背負ったまま門から離れ、城壁に歩み寄った。
濃い灰色の壁に手を当て、しばらく向こう側の気配を探っていたようだったが、どうやら誰もいないと判断したらしい。リュカが軽く上を見上げ、ふっと重力がなくなったと思った瞬間、二人は高々と跳躍していた。
(~~~~~~~っっ!!!)
慌てて口を閉じて悲鳴を抑えるユリウス。あっさりと城壁を飛び越えたリュカは、音もなく向こう側に着地した。そのまま早足で壁際を離れ、人目を避けて裏路地に入る。
リュカの背中から降ろされた途端、ユリウスは思わずよろめいた。
「だいじょーぶ?」
「あんまりだいじょーぶじゃない……うぷ」
まだほとんどの店は開いている時間帯だし、人通りもある。表路から見えない位置にへたり込み、口元を押さえて嘔吐くユリウスに水筒を開けてやりながら、どうやら自分は配慮が足りなかったらしいと、今更気付いたリュカは困ったように首を傾げた。
二日の行程を数十分に短縮できたことは良いとして、人間の限度というものが分からなくなってしまったことは、飛躍しすぎた身体能力の思わぬ弊害だと思う。
「一応手加減したつもりだったんだけど……」
「あれでか……いや、速度がって言うより、どっちかと言うと震動がやばかったんだけど」
足場の悪い砂地となれば、踏み出すごとに多少なりとも体は沈む。背負われた状態でその揺れがダイレクトに伝わってくるとなれば、乗り物酔いは仕方がないだろう。
「……悪い、もう平気だ。怪しまれても何だし、早く行こう」
ややあって落ち着いたらしく、ゴーグルと防塵マスクを外しながらようやくユリウスが立ち上がった。リュカも頷いて同じように装備を外し、しかし目立つ色の頭髪に配慮してかフードだけはそのまま被っている。
裏路地を抜け、二人は何食わぬ顔で行き交う人の中に紛れた。
「結局不法侵入だけど、仕方がないか。どの道正規の方法では門を通れなかったはずだから」
リュカにだけ聞こえる程度の声でユリウスが言うと、リュカも小さく頷いた。
「そうよね、研究所に入った時に貰った身分証はもう使えないもん。あぁあ、あれ色々便宜図ってもらえる便利なやつだったのに」
「そうじゃなくても情報が回ってる可能性はあるしな。しばらく公に顔を確認されるわけにはいかないだろ」
小声で話し合いながらいくつかの店を覗き、必要物資の補充をしていく。食糧、水、近隣諸国の地図、そして銃弾。食糧と水は一人分でいいので、その分荷物が少なくて良い。
「えーと、ナイフは持ってるわよね。ユーリ用に銃も追加した方が方がいいかしら」
「一挺持ってるからいいよ。これ以上渡されても、多分扱い切れないから。それより、どこかでアシを手に入れないか? バギー買うくらいの持ち合わせはあっただろ」
ユリウスの言葉に、リュカも頷いた。
「そうね、どこまで行くか分からないんだから、乗り物はあった方がいいか。んじゃ、誰か適当な相手探して交渉しよっか」
ずっと徒歩での旅を続けるのは、不可能ではないにしても無理がある。丈夫な車か、せめて馬が欲しい。もしもここで手に入れられなくても、次かその次の街くらいでは何とか。
「……あんまりうろついてる時間はないな。しばらく探して、見つからないようなら諦めて出立しようぜ。リュカの言ってた軍用車のことが気になるからな」
そう言ってユリウスが促すと、リュカは少し眉間に皺を寄せた。
ユリウスの言いたいことは分かるのだろう。安全策を取りたい気持ちも。けれど、ユリウスの体調が気になるのも事実だ。
リュカには分からない。ユリウスの疲労度が具体的にどれくらいなのか。
疲れているだろうとは分かっても、自分が疲れを知らない故に、ユリウスにとってどれくらいが許容範囲なのか、どれだけ歩けば限界が来るのか分からない。
ユリウスはリュカには自分の疲労を見せたがらないし、余計な面倒をかけることを厭ってか、昔から自分の中に押し込める癖があったから。
合わせるべきはリュカの方で、ユリウスがリュカに合わせるなんて、今となっては無茶な話だというのに。
リュカは考え込みながら、眉間に皺を寄せ、下唇を軽く突き出す。それが困った時の彼女の癖だと知っている人間は、今はもうユリウスしかいない。
リュカ本人は無意識なのだろうその仕草に、ユリウスはそっと苦笑した。
「……俺は大丈夫だって、リュカ。それにリュカだって分かるはずだろう? ここくらい大きな街なら、駐屯兵くらいはいてもおかしくない。早めに離れた方が無難だよ」
「そう、かも知れないけど。……でもユーリ、やっぱり一泊くらいはしていかない? これから先、まだ長いんだから、」
食い下がるようにそう言いかけた、刹那に。
言葉を切って、リュカが動いた。
リュカの手がユリウスを突き倒すのとほとんど重なるようにして、だだだだだだだ、とひどく腹に響く音が鼓膜を打ちつける。
ユリウスの目の前で、リュカの纏っていた上着の布のあちこちが続けざまに弾けた。華奢な体がぐらりと傾ぎ、それでも何とか踏みとどまりかけたかと思った直後、リュカの首が九十度近くへし折れる。
強すぎる力でこめかみを殴られたように彼女の頭が激しく右に振れ、吹き飛ばされたように崩折れるのが見えた。
逸れた銃弾が露店の柱を抉り、傍に建っていたテントが店主を巻き込んで潰れる。分厚いフードが引き千切られて、砂塵と共に虚空を舞った。
***
クーデターの喧騒から分厚い壁で隔てられたその空間は、ひどく静かなものだった。
実験機器の駆動音だけが虫の羽音のように響き渡る、真っ白い研究室の中央に佇んで。
ユリウスは目の前で僅かに発光している大きな四角い水槽を眺めながら、まるで棺のようだ、と、ふと思った。
水槽に満たされた培養液と、その中に浮かぶ歪な白い人型の塊。水槽の隣の台に寝かされたリュカは、まるで捧げられるのを待つ贄のようだった。
今にもぷつりと切れそうな、細い細い線を何本も繋ぎ、ほとんど消えかけている彼女の脳波を写し取る。
同調。分析。解析。模倣。構成。構築。発展。進化。
子供が適当に捏ねた粘土細工のようだった塊が徐々に変化し、明確な人間の体型を形作始める。
白い人型の全身を形作るナノマシンの細胞が、新たな息吹の予感にざわりと蠢いた。
***
――静寂は数瞬だった。
思い出したように、人込みから誰かの悲鳴が上がる。半ば反射的に立ち上がって巡らせたユリウスの視界に、十メートルほど離れた位置からこちらに向けられた幾つもの銃口が映った。
「――拘束しろ!」
群青色の軍服を着たリーダーらしき男が、いつの間にか集まっていた数人の兵士を振り向いて早口で指示を出す。突然の事態に怯えてその場を逃げていく民間人たちのことは無視して、銃を下げることなくこちらに向かってこようとした兵士たちは、しかし次には驚愕したように動きを止めた。
――負傷の気配など欠片も見せず、発条のように跳ね起きたリュカの、激情を露わにした視線に射抜かれて。
ジャコンッ、という鈍い音が響いた。リュカが突き出した右腕から白い銃口が飛び出す。次の瞬間、勢いよくばら撒かれた銃弾が、リーダーを含めた兵士たちの一部を的確に打ち倒していった。
「――リュカっ!」
無事を確認するように声を上げたユリウスを、リュカの左手が問答無用で掻っ攫った。ユリウスを抱えるようにしてリュカが身を翻した直後、我に返った兵士たちによる射撃が背後から再び二人を襲う。
己の背でもって銃弾の雨を防ぎながら、リュカは入って来たのと反対側の門目指して、疾風の速度で表路を駆け抜けた。人の引いた道は流れ弾の心配こそしなくて済むが、脇道がないため狙い撃ち状態だ。
「ユーリっ、怪我は?」
「ない、ありがとう。リュカは?」
「少し疵がついたけど、もう直ったわ。やっぱりここまで情報が回ってたみたいね。まさかこんな真昼間に街中で発砲するなんて……」
「形振り構っていられないってことだろ。俺たちが失踪してから何日経ったと思ってんだ? 戦況にだって変化が出てるはずだぜ。敵国と反乱軍との板挟みで不利なら尚更、俺たちが国境を越えちまう前に身柄を確保したいに決まってる」
「確保ってわりには、遠慮なく銃弾叩き込んでくれたけどね!」
「万が一にも敵国に技術が渡るくらいなら、いっそ抹殺してしまえってなもんなんだろうさ」
今のリュカの移動速度に、人間の足で追いつけるわけがない。この分なら何とかこのまま街を出られるかとユリウスが思いかけた時、前方で耳障りなブレーキの音が重なった。
民間人でないのは確実だ。激しく土煙を巻き上げながら停止した五台のバギーが、先程の兵士たちと同じ軍服を着た人間たちを吐き出す。
その数二十人、全員が銃を構えてこちらに狙いをつけている。
「――っ、援軍かっ!」
舌打ちしてリュカが吐き捨てた。兵士とバギーで道は塞がれている。しかしリュカは足を止めることなく、むしろ速度を一気に上げた。
「撃ェっ!」
号令と同時に、兵士たちの銃が一斉に火を噴いた。不協和音となって耳を打つ、百を越える発砲音。
「舌噛まないでよ、ユーリっ!」
叫んだリュカは弾丸の隙間を潜り抜けるように身を屈めた。
足を取られないよう、地面を抉る銃弾を紙一重で躱していくものの、自分の身に当たるものは全て無視した。ユリウスに当たる軌道にあると見てとれば、腕を翳して盾にする。リュカの肌を構成する白い何かと、血液に似た赤い何かが、ぱっと虚空に散った。
「――リュっ、」
思わず口を開きかけたユリウスは、すぐに泡立った感情を押し込めるように唇を噛み締めた。
自分に止める権利はない。リュカが傷つくのが嫌だなどと、言える状況に今はない。
「ユーリ、何か言った?」
鋭敏に聞き止めたリュカが片手間に問うてくるのに、ユリウスは何でもない、と首を横に振った。
リュカに振り落とされないようしがみ付きながら、ユリウスは目を瞑ることはしなかった。彼女がその身を以て行う全てを、自分は見届ける義務がある。
「リュカ、あれ一台貰おう。できるか?」
「多分」
要点だけの短い問いにリュカは首肯し、右手の銃口を兵士たちに向けて撃った。走りながらのそれは狙いがずれることもなく、四人の兵士が倒れたと思った時には、既にリュカとユリウスは兵士たちの真っ只中に飛び込んでいた。
『――――――っっっ!!!』
兵士たちの動揺と驚愕の悲鳴が重なる中で、素早くリュカから離れたユリウスは一番近くのバギーに駆け込んだ。
機械にはそれなりに強いつもりだが、実際運転した経験はほとんどない。記憶を浚いながらエンジンを起動させ、門に向かう方角へと強引に方向転換した。盛大に摩擦音が上がるが、どうやらスリップすることなくターンが叶ったことに安堵する。
「リュカっ!」
いっぱいに開いた運転席の窓から身を乗り出し、叫ぶように呼びかけると、リュカはちょうど右手の銃口と刃のようになった左手を振るい、兵士たちを残らず地に伏せさせたところだった。
ユリウスの準備が整ったことを確認したリュカの左手が閃き、ユリウスの乗る一台を除く全てのバギーの、幅の広いタイヤを切り裂いた。次いで右手の銃が振るわれ、爆発しないようエンジンを避けながら燃料タンクを撃ち抜いていく。
「出してっ!」
リュカの両腕が元の形を取り戻すのを視界の端に収めながら、ユリウスはリュカが乗るのを待たずにアクセルを踏み込んだ。
途端、思った以上の速度が出たことに慌てたが、通行人がいないのをいいことに、構わずそのまま通りを突っ走った。
恐らくさっきの兵士たちが指示したのだろう、やがて見えてきた門はしっかりと閉ざされていた。突進してくるバギーに驚いたらしい門番が慌てて退避するが、ユリウスは減速しようとは思わなかった。
――ゴッ、と開いた窓越しに音がして、時速八十キロ近いバギーの隣を、オレンジ色の残像が追い越して行った。
一足先に辿り着いたリュカが蹴り飛ばすように押し開けた重い門の隙間を、こするようにバギーが擦り抜ける。次いで門を潜ったリュカが街の外から再び門を閉じ、その間に再び距離を開けていたバギーを改めて追いかけた。
ユリウスは一切速度を緩めることなく、リュカはほどなく追いついたバギーに手をかけ、開きっ放しだった窓からするりと助手席に滑り込む。
窓を閉じ、それ以上砂塵が舞い込むのを防ぐと、ユリウスは今度こそ目一杯アクセルを踏み込んで、全力で街から離れていった。
***
――あの日。
培養液の中から引き出され、生からも死からも遠ざけられて、人ならぬ存在として目覚めたリュカは、傍らに横たわる己の骸を見て全てを悟ったようだった。
呆然と立ち尽くして今更のように彼女を見つめ、犯した罪に泣きそうなほど顔を歪めるユリウスに視線を向けて。
そうして少女は何も言わずに、ただゆっくりと彼を抱き締めた。
愛しい愛しい幼馴染の、恐怖も悲哀も悔恨も絶望も、残らずその腕に受け止めるように。
――そして二人は、その日のうちに首都を出た。
その時点で、もう追手がかかりかけていることには気づいていた。ナノマシンを利用した人工生命の研究を、自分たちが既に完成させていることは秘匿していたはずではあるが、或いは既に情報は洩れていたのかも知れない。
リュカが殺されかけたことさえ上層部の手による揺さぶりの一環ではなかったのかなどと、穿った考えをすればどこまでも疑える状況。
行く当てもなかったし、逃げ切れる保証はもっとなかった。
それでも二人は、そこに留まり続けるわけにはいかなかったから。
捕まれば最後、互いを奪われることが分かり切っていて、座して待つほど愚かにも投げ遣りにも、二人はなれなかった。
***
昼間の青空から一転した、降るような星空の下。
冷たい夜風が吹く砂漠に、一台のバギーが走っていた。
障害物を蹴散らすように街を飛び出してから数時間。それぞれが座っている席はとっくに逆になっている。
「燃料には、大分余裕がありそうね」
ハンドルを握りながら、リュカが言った。
今のリュカには性能に優れた身体の効率的な使い方や戦闘知識は植え付けられていても、車の運転に関して言えば元々持っていた以上の技能は備えておらず、付け加えればユリウスより慣れているわけでもない。
それでも普通に走らせるくらいならできるので、追手が追いついてくる様子がないと判断した時点で、二人は位置を交換していた。
「そうだな。でも、やっぱりそのまま使い続けるわけにもいかないか。次の街に着いたら、新しいバギーを手に入れるか、軍のバギーだと分からないように細工するかしないとな」
「んーまあ、その辺は何とでもなるんじゃない? 今時軍用車の盗難や転売なんて、珍しくもないわよ」
落ち着いたリュカの声を耳に入れながら、ユリウスは座席に背を凭れさせて、単調な震動に体を任せた。
窓の外は寒くても、車の中はそれなりに暖かい。後部座席に積まれていた武器や無線機はとっくに潰して放り出したが、一緒に乗っていた毛布はありがたく使わせてもらっている。
「――ねえユーリ。もしも平和な国に辿り着けたら、ユーリは何がしたい?」
しばらく黙って走り続けた頃、不意に投げかけられた問いに、ユリウスは眼を瞬かせた。
「平和な国に? ……んー、そうだなー……」
『平和な国』なんてもの、正直ユリウスには存在からして想像もつかなかったが、それでも真面目に考える。
「……リュカは何がしたいんだ?」
だが数分ほどして、結局は答えを返さないままリュカの方に話を振った。何も考えつかなかったとバレたらしく、夢がないわねぇ、と鼻で笑われて、ユリウスは唇を尖らせる。
「あたしは、毎日空を見ていたい」
リュカの言葉に、ユリウスは呆れた。
「何だよそれ。お前だって大した夢じゃないじゃねーか」
「そんなことないもん」
唇を吊り上げ、リュカは笑う。フロントガラス越しに星空に向かって右手を掲げ、彼女は何かを掴むような仕草をした。
「すっごく贅沢な夢だと思うわよ。砲弾に当たる心配も、明日のご飯の心配もせずに、あったかい芝生の上で日がな一日ごろごろして、時々通りすがりの犬とか猫とか構ったりもして。
太陽が沈んだら、こんな風に綺麗な星や月を見られるわ。夜が明けて、真っ暗な空が明るく染まっていくのも見たい。だって、世界中を覆ってる空があたしの髪と同じ色になるのって、なんか気分がいいじゃない?
そうして完全に日が昇れば、今度は空はあんたの瞳と同じ色に変わる。眺めてるといろんなことがどうでもよくなってくるくらい、悩みのない真っ青な色に。
ああ、でもたまには曇りや雨もいいわね。全てを覆い隠す灰色も、全てに遍く降り注ぐ雫も、あたしは好きだから」
二人で並んで、移り変わる空の色をずっとずっと見ていたい。
空を見上げて語るリュカは、本当に楽しそうな表情をしていた。ささやかな、けれどとても贅沢で幸せな日々を夢に描いて。
それを見ているだけで、ユリウスの顔も自然と緩む。
「……そっか。叶うといいな、その夢」
「叶えてやるわよ、いつかはね。……だからね、ユーリ。あたしは感謝してるのよ」
リュカがユリウスを振り向いた。ユリウスは目を瞬かせる。
「あたしを、助けてくれてありがとう。死なせないでくれてありがとう。あの時、ユーリが選択してくれたお陰で、あたしはまだ夢を見続けていられる。ユーリの傍にいられる」
リュカはふわりと優しい笑みを浮かべ、片手だけを伸ばして、軽くユリウスの頭を抱き寄せた。静かに目を見開き、されるがままにリュカの肩に額を乗せたユリウスを、かつてと少しも変わらない、冷たい手が撫でた。
「あんたのお陰で、あたしは昔の約束を守り続けていられるのよ」
――決して二人を見捨てぬと、誓ったあの日の約束を。
「……うん」
リュカは、ユリウスが傍にいることをちゃんと許してくれている。けれどそれはユリウスにとっての喜びであるとともに苦悩の元でもあった。
リュカを蘇らせたのはユリウスの弱さ。己の身勝手で、彼女をこんな呪われた身体に堕とした。
なのに、彼女はユリウスを責めないから。
天などどうでもいいけれど、リュカへの罪悪感だけは捨てることができなかったし、きっとこれからも捨てられないだろう。ユリウスが償いたいと望むのは、いつだってリュカに対してだけだ。
――それでも。独りになるのは、どうしようもなく怖かったのだ。
「……いなくならないでくれ」
置いて行かないで。
置いて逝かないで。
傍に居て。俺が生きている限り。
「――――俺を、一人にしないでくれ」
静かに閉じたユリウスの瞳から、ぽとりと一滴、冷たい涙が零れて落ちた。
死ぬまで寄り添って生きるのだろうと、二人はどこかで知っていた。
眠りをなくした生無き羊は、それでも優しい夢を見る。
共にその夢を見ることがまだ許されているのなら、羊と歩くその人間は、羊の夢に寄り添って、咎にまみれた生命を晒し、贖罪の時をただ待って、その手を握り続けるのだろう。
繋いだ手を引き裂かれる、その日まで。