第1話:推しのセンターが、スーツを着て出社してきました
「……は?」
手に持っていたアイスカフェラテが、指先から滑り落ちそうになった。
都内中堅IT企業、営業事務フロアの朝。始業直前のざわめきが、一瞬で真空に包まれたような静寂に変わる。
社員たちの視線の先に立っていたのは、今日から着任するという新副社長――神宮寺 湊だった。
「本日付で副社長に就任した、神宮寺だ。……よろしく」
低く、鼓膜を心地よく震わせるバリトンボイス。
仕立てのいいスリーピースのスーツに包まれた、モデル顔負けの肢体。
そして何より、冷ややかでいてどこか扇情的な、切れ長の瞳。
(う、そ…………嘘でしょ……!?)
私、瀬戸花音の脳内は、その瞬間、真っ白な閃光に焼き尽くされた。
目の前にいる男。
その顔、その声、その首筋にある小さなホクロの位置まで。
昨夜、深夜三時までMVをリピートし、画面越しに「愛してる!」と叫んでいた私の最推し――世界的アイドルグループ『SOLARIS』のセンター、KYLO(カイロ)様に、生き写しだったのだ。
(待って。無理。尊い。供給が……供給が直接脳内に流れてくる……!)
私の心臓は、ドラムの連打のように暴れ始めた。
推しが、スーツを着ている。
推しが、私の会社で挨拶している。
推しが、今、こっちを見た。
「……君」
神宮寺副社長の視線が、硬直している私に止まる。
逃げなきゃ。そう思うのに、足が床に縫い付けられたように動かない。
至近距離で浴びる「推しのビジュアル」は、もはや致死量の毒……いや、聖水だ。
「……っ、ふ、あ……っ!」
あまりの尊さに過呼吸気味になり、私は必死に口元を押さえた。
顔面は一気に沸騰し、目からは勝手に涙が滲んでくる。
オタクならわかるはずだ。本物の「神」を前にした時、人間はただ、震えることしかできない。
私はたまらず、神宮寺副社長に背を向け、脱兎のごとく給湯室へ逃げ出した。
「な、なんだ、今の……」
残された神宮寺湊は、逃げていく背中を呆然と見送っていた。
彼は、自分がアイドルに似ていることなど露ほども知らない。
そんな彼の脳内で、ある凄まじい「勘違い」が芽生える。
(あんなに……あんなに激しく動揺し、涙まで浮かべて俺を見つめるなんて)
神宮寺は、戸惑いながらも口角をわずかに上げた。
(よほど、俺のことがタイプだったのか。……あんなに情熱的にひと目惚れされたのは、人生で初めてだ。瀬戸花音、と言ったか。……面白い)
一方その頃、給湯室。
花音は壁に頭を打ち付けていた。
「落ち着け私! あれは偽物だ、いや本物だけど偽物で、でもビジュアルは100点満点中の100万点で……! ああ、仕事にならない! 尊すぎて死ぬ!!」
これが、後に会社中を巻き込む「勘違い溺愛」の幕開けだとは、この時の二人はまだ知る由もなかった。
数ある作品の中から見つけていただきありがとうございます!
本日から新連載をスタートいたしました!
第3話までは、同日に更新予定です。
明日の第4話以降は、毎日19時頃に更新していく予定です。
面白いと思っていただけたら、ブックマークや評価などで応援していただけると執筆の励みになります!
それでは第2話もお楽しみに!




