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紅華四季恋浪漫譚 蛍夏の章  作者: 浅葱ハル
第一章 黒宮火花
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7・「ごめんね」

 その日を、黒宮火花は生涯、忘れ得ぬ日として刻むことになる。



 すっかり日差しが温かくなり、帝都の桜の花が美しく色付く季節となった。

 帝都の東に、知る人ぞ知る、桜が群生する森がある。


 火花に雅臣、拓海はその森をゆっくりと歩いていた。

 慰労も兼ねて、雅臣の侍衛たちも数名同行している。

 火花は藤色の袴と、白い上着に濃い赤の帯を合わせていた。春の陽光を浴びて、揺れる袴の裾が、どこか華やかな雰囲気を添えている。


 一行は、開けた野原へ到着した。周囲を桜の木がぐるりと囲んでおり、中央付近にはひときわ大きな桜が根を張っている。

 根元から頭上を見上げれば、青空の背景に、幾層にも重なる桜色が春の訪れを誇示していた。仄かな土と葉の香りも心地よく、火花は思わず感嘆の声を漏らす。


 その巨木の下で昼食をとる事を、雅臣が高らかに宣言した。

 侍衛達にも敷物を広げ、共に休むよう指示が飛び、喜びの声があがる。





 穏やかな時間。

 ひらひらと花びらが優雅に舞い、小鳥が頭上でさえずる中、一同はお茶を楽しんでいた。


 敷物の上で談笑していると、不意に、雅臣の動きが止まる。

 遠くの桜の木々の間に、ちらりと人影が覗いていた。


 白い着物姿の女性と、その従者達が見える。

 きっと彼女らも、この絶景を楽しみに来た花見客だ。中心で佇む女性は桜の精かと見まごう程の可憐さで、火花も思わず見惚(みと)れてしまう。


 彼女――雅臣の婚約者へ、焦がれるような視線を向ける主。

 火花はそっと、背中を押した。


「行ってください、殿下」


 卒業式の日に、二人の間で何があったのかは知らない。

 けれど雅臣にそんな表情をさせる彼女との仲を、火花は素直に応援したかった。



「あとで詳しく、話を聞かせてくださいね」


 戸惑ったまま動かない雅臣の背中を、再び強い力を込めて押した。

 押し出された雅臣は、難しい顔をしながら、唇の端を噛む。

 それでも行ってくる、と呟いて立ち上がると、彼女へ向かって歩いて行った。





「殿下も婚約かあ、おめでたいね」

「そうだね」


 桜の花びらが舞う中、遠くで向き合う二人は、まるで一つの絵のようだった。

 座りながらその光景を和やかな気分で眺めていた火花は、くすんだ鼠色の着物姿の拓海にそう問いかける。

 肯定した隣の拓海の表情を見て、火花は眉間の皺を寄せた。



 拓海の顔が、青白い。

 ここに到着するまでにも、確かに彼は少し疲れた表情をしていた。


 けれど、ここまでではなかった。

 拓海の体調が悪化していることに気付いて、火花は焦る。


「具合悪いよね? 大丈夫?」


 ごめん、無理させたね、と続けて火花は謝罪の言葉を口にした。

 卒業式の後も、ずっと体調を崩していたのだろうか。

 無理に花見に誘ったことを、火花は内心後悔した。


 拓海に近付いて、火花は気付く。

 彼から、花の香りがする。


 桜ではない。

 もっと甘い、むせるように纏わりつく香り。

 そのねっとりとした香りが、不快だった。



「大丈夫だよ」


 説得力がない。香りの違和感もあり、火花はますます皺を濃くした。


「火花、言っておきたいことがあるんだ」


 突然の拓海の改まった言葉に、火花は驚く。


 春の生温かい風が、二人の間を通り抜けた。

 顔に張りつこうとする髪を押さえつつ、拓海に目線を向けると、微笑んでいるものの、真剣な拓海の表情が待っている。


「僕の弟なんだけど」

「うん」

「何かあったら、力になってやって欲しいんだ」


 過保護だなあ、と火花は苦笑した。


「なんだ、そんなこと。わざわざ頼まれなくても」

「ありがとう」


 一拍時を置いて、拓海が両手をきつく握りしめる。あまりの力に、彼の手が白く変化したのを、火花は見た。


「火花」

「なに?」

「僕ね、君のこと」


 そう言いかけた直後、拓海の顔が、少しだけ歪んだ気がした。

 花の香りが、きつくなる。



「……とても、大切な人だと、思っているよ」


 火花のことを、何度も励ましてくれた彼の笑顔。それが、今日は少し歪んでいた。


「知ってる。私も、拓海のことを親友だと思ってる。ねえ拓海、横になった方がいい。顔色がおかしいよ」


 顔色も、香りも、様子もおかしい。

 拓海に、火花は不穏なものを感じ取った。


「ありがとう、大丈夫だから」

「いや、でも」

「……じゃあ、薬を飲もうかな。鞄を一緒に探してくれる?」


 火花はすぐに背後へ視線をやった。


 二人が座っている敷物の上には皿や湯呑み、鞄などが散乱している。

 いくつか候補は見つかるものの、明確に拓海のものだと言える鞄はすぐには見つからない。


 火花が立ち上がり、一つ一つ確認していくも、目当ての鞄は見つからない。

 視線をずっと下にやっていたことで、凝りはじめた首の後ろを揉みながら、火花は拓海に語りかけた。



「拓海、ないよ。どのあたりに置いたの?」


 火花はそう言いながら顔をあげて、くるりと振り返る。




 拓海は居なかった。

 視線を動かし彼を探して、




 そして、思考が停止した。





 拓海は駆けていた。

 酷く穏やかな背景の中、彼だけが異様だった。


 拓海が駆けながら、慣れない手つきで、左手に携えている刀を抜き放つのがはっきりと見える。


 拓海が向かう先には、あろうことか、こちらに背を向け、花を愛でながら談笑する雅臣と婚約者がいた。



 火花の口から、意味をなさない音が出た。



 目の前の光景が、理解できない。

 それでも主人を守らなければいけないという本能が、火花の手を震わせながら、素早く腰に動かした。


 火花が瞬時に抜いた刀は、そのまま拓海が手にする凶器に向かって勢いよく飛んだ。

 拓海との距離を考えると、刀を飛ばす以外に、間に合わせる術はなかった。


 金属音が響き渡る。

 拓海が手にした刀に命中するも、彼の手から凶器はこぼれ落ちなかった。


 火花は走った。

 拓海を、止めなければいけない。

 周囲にいる侍衛たちも、虚を突かれたのか、すぐに介入できそうな場所には居なかった。


 理由はわからない。

 ただ、親友が、主人を攻撃しようとしている。

 その事実だけは、しっかり認識してしまっていた。


 火花の掠れた悲鳴と金属音を聞いて、雅臣が振り返る。

 剥き出しの刀を持ちながらこちらに走ってくる拓海を認識したのか、表情が止まって、息を呑んだ。


 雅臣は驚きに目を見開きながら、婚約者を庇うように背に隠す。

 すぐに腰の刀に手をやるも、それを抜き放つ時間があるかどうか、雅臣には思案の時間もなかっただろう。


 拓海が、刀を振り下ろそうとする。


 雅臣が応戦する余裕は、ない。

 そう火花が判断したその刹那――


 無意識に、彼女は瞳の奥に力を込めた。




 燃えろ


 そう念じたのは、咄嗟の反射だったのかもしれない。

 願うように抱いた強い感情。

 それは、魔術の暴走として顕現した。


 唸るような轟音が響く。

 拓海の足元から、瞬間的に火柱が天に向かって突き上がった。


 熱風と紅い光が、周囲の人々を襲う。

 雅臣達が愛でていた花は無残に燃えはじめ、焦げた匂いと熱がたちまち辺りに充満していった。


「あ……」


 無意味な母音が火花の口元からまろびでた。


 額から、汗が滝のように流れゆく。

 力が春の風に奪われ、身体から抜けていった。

 両足の筋力が底をつき、火花は壊れた人形のように、膝をついて崩れ落ちた。





 ごめんね


 拓海の口元が動く。


 揺れ動いている視界、熱い火柱のその向こうで、火花の方へ振り返った拓海が、確かにそう言っていたのを火花は見た。


 不幸を背負って、それを受け入れきってしまったような、哀しい表情。

 けれど、彼は確かに優しく笑っていた。


 そのまま、拓海は握っていた刀を躊躇なく、自らの腹に突き立てた。


 火花は残った手の力を総動員して、拓海へ手を伸ばす。

 届かないと、分かっていたのに。



 瞳の奥が、燃えるように熱い。

 視界がどんどん陽炎のように歪んで、そして。



 黒宮火花は、意識を手放した。



最後までお読みいただき、ありがとうございました。

次回より、第二章開幕です。

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