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紅華四季恋浪漫譚 蛍夏の章  作者: 浅葱ハル
第五章 帝都炎上
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蛍夏

 紅華帝国は、秋の気配を纏いはじめた。


 紅霞(こうか)駅の構内には、煤けた鉄の匂いが充満していた。午後の陽光を受け、鈍く輝く金色の駅名標が、少しだけ目に痛い。


 火花と雅臣は、磨かれたプラットホームの上にいた。火花の纏う薄い羽織の裾を、風がそっと揺らしていく。

 ホームには列車が停車し、白い煙を絶え間なく吐いていた。


 遠くから、汽笛が小さく鳴った。

 その別れの足音に、火花の胸の奥が、微かな痛みを主張している。


 薄手のハーフコート姿の玲が、振り返った。

 その瞳にはいつも通りの静けさがあるのに、どこか(かげ)が射しているのは、火花の気のせいではない。


 雅臣は穏やかな笑みを玲へ向け、餞別(せんべつ)の言葉を贈った。


「達者でな。無事に復興できることを、心から祈ってるよ」


 玲は、本日、紫雲国に帰国する。

 荒れ果てた地を立て直し、国の復興を図るためだ。


「数々のご配慮、ありがとうございました」

「何か困ったことがあれば、いつでも言ってくれ。俺も、もちろん兄上も、必ず力になるよ」

「ありがたいお言葉、痛み入ります」


 玲は深々と頭を下げ、礼を言った。

 紫雲国には、未だ青の魔石が撒かれた里山が広がっているらしい。復興にはきっと、時間も労力もかかる。けれど、紅華帝国の援助もあれば、遠くない未来、玲を国王として国は再興する。

 そう、火花は確信している。


 雅臣の隣で火花は口の端を緩め、二人の会話を見守った。


「では、俺はもう行くよ。ゆっくり話せ、な?」


 雅臣はそう言うと、火花と玲を意味ありげに一瞥した後、そそくさと人波を縫ってホームから立ち去ってしまった。



 残された火花と玲は、自然と視線を交錯させた。

 行き交う人々の話し声、忙しない足音、そして列車の吐く機械音。

 それが二人の間を通り抜けて、しばらくして。


 口火を切ったのは、火花だった。


「……言いたいことがあるの」

「ああ」


 周囲の喧騒が、二人にはまるで聞こえなかった。

 聞き慣れたお互いの声だけが、意識に届いている。


「あの、ね」

 火花は、胸の前で両手を組んだ。視線を一度玲から逸らして、再び彼に向ける。

 少しだけ勇気を出して、腹の奥に宿る己の心を、そっとほどくように吐き出した。


「あんたと過ごした時間、腹も立ったけど。……楽しかった」


 一つの呼吸で、火花は言い切った。

 玲の反応が怖くて、火花は僅かに顔を逸らす。それでも、言葉は止めなかった。


「だから」


 乾いた口内に残る、ほんの少しの唾を、無理やり喉に送る。


「会いに行っても、いい?」


 乞うような音ではない。

 気軽に確認を取るような、そんな声音。それでも、胸の前で微かに震えている指が、火花の緊張を現していた。


 返事の代わりに、玲は笑った。

 目尻に皺が作られるほどの、柔らかな笑い。

 およそ玲らしくない表情に、火花は驚いて、鮮やかな紅い瞳を見開いた。


 笑みはそのままに、玲は凪いだ紫の瞳で火花を包む。

 腰に差した己の愛刀に手をやって、軽やかに言った。


「その時は、またやるか」

「……腕を鈍らせて、がっかりさせないでよ」


 火花はいつものように、つっけんどんに言葉を返した。

 指先の震えは、嘘のように止まっている。


「一度も勝てていないくせに、なぜそんなに横柄なんだ」

「うるさい」


 調子を取り戻し、軽妙に言葉を交わしはじめた二人の間を裂くように、容赦のない、汽笛の音が鳴る。

 列車の出発の合図だ。


 列車内の窓から、玲をどこか温かい目線で見守る紫雲国の臣下たちが顔を覗かせている。

 別れの時間がすぐそこに迫っていることに、胸の奥が捻りあげられていく。


 それを決死に笑顔で覆い隠して、玲の肩へ手を伸ばし、軽く叩いた。


「元気でね」


 玲は火花を一瞬見つめ、静かに背を向けた。

 彼が列車に乗り込むと、出発を告げる汽笛が鬱陶しいほどうるさく響く。




 刹那、突風が吹き抜けた。

 あまりの風圧に、火花は顔を歪める。視界が一瞬だけ途切れ、その風が止んだ頃には、列車はすでに発車し、その速度を上げていた。



 しかし、火花は同時に目を見開くことになる。

 列車の放つ大量の白い煙を背に、こちらへ歩いてくる人影があったからだ。


「あんた、何して……」


 玲だった。

 列車に一度は乗り込んだものの、そのまま再び降りてきたらしい。

 彼は何か考え込んでいるようで、先ほどまでの笑顔を潜ませ、口を真一文字に引き結んでいた。


「次のに乗る。……まだ、話は終わってない」


 世界が再び、二人だけに切り取られる。

 白い煙が蔓延し、喧騒の中にあっても、二人はお互いだけを見て、その声だけを聴いた。


 いつもの革手袋を付けた手で、玲はおもむろに、コートの内ポケットに手をやった。

 小さな皮袋の中から、玲は慎重に、それを取り出す。


 蛍の意匠が施された琥珀。

 それだけが装飾の、素朴で、無骨で、鈍い光を放つ簪。


 その簪を大事そうに握りしめた玲は、一拍置いて、何も言わずに火花へ差し出した。

 火花は微かに笑って、迷うことなく手を伸ばす。

 二人の手が触れ合った後、火花は玲の掌中にある簪を、ふわりと受け取った。


「これより似合いそうな簪が無かった。……だから、芯だけ強い鋼に交換した」


 玲にしては、早口だ。

 曲がってしまった以前の簪は、少し強引に彼に奪われていた。なぜ突然奪ったのか、ついに理由は教えて貰えなかったが――どうやら琥珀の装飾はそのままに、曲がった黒鉄の芯だけを取り替えていたらしい。


「受け取って、くれるか」


 刻まれた玲の言葉には、緊張感が漂っていた。

 火花を覗く紫の瞳にも、僅かな不安が宿っている。


「ありがとう」


 火花は破顔する。両手で簪を、胸の前で握りしめた。強い鋼の芯となった簪は、少しだけひんやりとしている。

 そして、次の言葉を紡ごうとして――やめた。


 かつて、二人で歩いた街で、ふらりと気まぐれに贈ってくれた時とは、もう違う。

 それを贈る意味を、彼が意識していないとは、到底思えなかったからだ。


「壊れたら、また直す」

「良い考え」


 そうすれば、この簪は永遠だ。ずっと、傍からいなくならない。


「火花」

「ん?」


 火花は掌中の簪から、玲へ視線を移した。

 ふわふわとした黒髪を風に遊ばせた彼が、誠実な瞳を湛えて立っている。


「また、お前に会いたい」


 玲の表情は、一年前の夏――火花と戦い、苛立ちに無表情を歪ませていた男と同一のものだとは、とても思えないほど、柔らかなものだった。


 ふたりの熱い夏が、終わった。



 了


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