13・宴のあとの縁側で
凪の家には、出汁と酒の香りが充満していた。
夜も更けたこの日、雅臣の声かけで、ささやかな宴会が開かれることになったのだ。
家主の凪は、はじめこそ文句を垂れていたものの、雅臣が両手いっぱいに持参した明らかに高級な日本酒を掲げた途端、顔色を変えた。
お猪口と白米がちょこんと置かれた仏壇を背にして、玲、雅臣、凪はちゃぶ台を囲みながら、なにやら和やかな会話を交わしている。
凪のくだらない冗談に失笑しながら、火花が土間への障子を開けると、拓磨が忙しなく調理をしているのが目に入った。
鍋からは湯気が上がり、かまどの火は煌々と燃えている。醤油と味噌の香りが鼻腔を撫で、火花の食欲が刺激された。
「拓磨、何か手伝うことある?」
「火花さん! ああ、ええとこの魚の味付けを……」
襷をかけた拓磨が、手際よく酒の肴を何品か作ってくれている。
拓磨だけ働いていることが申し訳なくなり、声をかけた火花であった……が、それを背後から刺す、鋭い声が響く。
「おい、何してる」
「あ、玲」
振り返った火花へ、玲は冷たい視線を隠さない。
「料理を台無しにする気か? 俺がやる」
火花を押しのけ、玲が土間へ無理矢理進んだ。
そして拓磨を睨むと、火花を指差して強い口調で告げる。
「こいつを調理場に入れるな。惨事が起こるぞ」
「えっ」
目を丸くする拓磨を尻目に、玲はもう一度火花を見る。反論すら許さない強い眼光が、火花を待っていた。
「とにかく食物に一切触るな、いいな」
火花は頬を膨らませる。言い返せないことが悔しいが、ここで肴を失うのは、火花だって惜しい。
土間への障子を閉め、ため息をつきながら振り返ると、年長組の二人が目に入った。
……いつの間にか、雅臣がちゃぶ台に突っ伏して軟体生物と化している。すでに、帝国の第二皇子の威厳は皆無であった。
「どうせ俺はぁ……駄目なやつなんだよ……」
「ちょっと凪さん! 殿下にこんなに飲ませて!」
雅臣は、酒に酔うと一気に情けなくなる。
元々低い自己肯定感の低空飛行が止まらない。
「知らないよ。勝手に呑むんだもの」
「あーもー。殿下、酒に酔うと面倒に拍車がかかるのに」
「なんだとハナ!」
「まあまあ。今日くらい呑んでもいいじゃない。ほらどうぞー殿下」
「凪さんが呑ませてるじゃないですか!」
凪が空になった、雅臣のお猪口になみなみと酒を注いでいる。
元凶はやはり、この男か。火花は天を仰いだ。
「婚約者殿との仲が上手くいってないんだってさ」
「はいはいまたそれですか」
「またとはなんだよ! 俺は真剣に悩んでるんだ」
「だから愚痴るより彼女と直接話せと何度も」
「それが出来たら苦労してない」
いじけた様子で、爪の先でちゃぶ台を掻く雅臣に、火花は白い目線を向けた。
そんな主従の様子を面白そうに眺めながら、凪は満足そうに杯を空にしながら言う。
「花でも贈ったらいいんじゃない?」
「ほーら、適当なこと言い出した」
「花か……」
弱っている雅臣が、真面目な声音で呟いた。
凪の顔には意地の悪い笑みが張りついている。火花は彼のそばにあるひとつめの酒瓶の底が、もう乾いていることに気がついた。
「凪さんも酔ってますね? 殿下で遊んでるでしょ!」
「だって面白いんだもん」
凪が小首を傾げる姿に、火花は思わず手で己の口を押さえた。
「うっわあ……気色悪いのでやめてください」
「君本当に失礼だよね」
唐突に、障子が開く。玲と拓磨が、大きな盆にたくさんの料理を載せて現れた。
すぐに惨状を確認したのか、二人ともあからさまに眉を顰めた。特に拓磨は足音を立ててちゃぶ台へ近づくと、ギロリと凪を睨みつける。
「ちょっと、雅臣様大丈夫ですか? 師匠!」
「なんで皆して僕を責めるのさ」
「どうせあなたが原因でしょう!」
拓磨からの評価が透けてみえる発言に、火花は大きく頷いた。いつも適当に人を揶揄って、面倒ごとばかり起こしているのだろう。……拓磨も、大変だ。
「好いた女への贈り物に悩んでる純朴な青年に、せっかく付き合ってあげてたのに」
「純朴? むしろ殿下、手当たり次第に遊んでた時期が」
「ハナーー! そんなことは暴露しなくていい!」
「殿下うるさい」
「贈り物だったら、そこにいる先人に聞けばいいんじゃない? ねえ玲」
凪が再び、いやらしい笑みを浮かべて言った。
一同から視線を一斉に向けられた玲は、まだ盆を持ったまま立ち尽くしている。
「えっ」
玲の動揺が声となり、温かい部屋に響き渡る。
珍しく表情を崩した玲に、凪はにやりと笑う。その性根の悪い笑顔に、玲だけでなく、火花も身を固くした。
「か ん ざ し」
凪の小さな声で、一音一音、ゆっくりと紡がれる音。雅臣と拓磨の視線が、今度は火花の黒髪へ突き刺ささった。
……いつまで、この話を持ち出し続けるつもりなんだ。苛立ちが込み上げ、火花は凪へ冷気を孕む視線を送った。
なんとも言えない空気に晒された玲は、そのまま黙って盆を畳に置いた。
そして雅臣の隣へ静かに腰掛けると、置いてあったお猪口を手に取る。次いで凪の手元にあった徳利を素早く奪うと、お猪口に注いですぐさま飲み干した。それを、三度も繰り返す。
「もう師匠、いい加減にして下さいよ。玲さんまでお酒飲みはじめちゃったじゃないですか」
拓磨の呆れ果てた声が、凪を糾弾する。
凪はケタケタと笑って、胡座を組み、膝に自分の肘を乗せた。顎を指先で掻き、高揚した声音を隠そうともしない。
「さて、玲って酔ったらどうなるんだろ」
「師匠!」
「……それは気になる。泣いたりして」
「火花さんまで!」
取り憑かれたように酒を煽る玲を、火花はじっと見た。
この男が、酒に酔う姿を見たことがない。
……見てみたい。火花も、凪と同種の笑顔を浮かべた。
しばらくして。
たらふく美味しい料理を平らげた火花は、縁側で一人涼み始めた玲を追い、彼の隣に腰掛けた。
玲のそばには、まだ酒の残る徳利とお猪口が置いてある。どうやらぼんやりとしながら、呑み続けてはいるらしい。
火花が隣に来たことを横目にちらりと確認した玲は、何も言葉を紡がない。
縁側からは、板塀で囲まれた小さな裏庭が見えている。拓磨が育てている熟れた茄子が、月明かりを受け艶めいて光っていた。
玲は不意に、火花へ視線をやる。そして無遠慮に、じっと彼女の頭髪を見つめ続けた。
様子を不思議に思った火花が、疑問を口にするより早く、玲は勢いよく口走る。
「それ、借してくれ」
「え?」
「いいから」
玲は有無を言わさず、困惑する火花の髪から、蛍の簪を素早く引き抜いた。
抵抗する間もなく、火花の長い黒髪がはらりと散る。いきなりの出来事に文句を紡ごうとするも、玲の瞳に浮かんだ情熱に、気圧された。
ごまかすように、火花は豊かな髪をかき上げる。晩夏の夜の冷たい空気が、心地よく喉を冷やした。
「髪、やっぱり長いな」
「……鬱陶しいから切りたいんだけどね」
玲は掌中の簪を指でなぞり、しばし見つめて、それからぼそりと呟いた。
「切るなよ」
「どうして?」
疑問を口にして、玲を見つめて、火花は少しだけ後悔した。
玲の瞳が、火花をしっかり捉えている。
浮かぶ熱に囚われる。
逃げられない。
「長い方が好きだ。それに」
「……なに」
二人の視線が混ざり合う。
火照った頬は、夏の残熱のせい。
火花はそう、思い込もうとした。
「俺の贈った簪、挿せなくなるだろ」
酔っている。絶対に、酔っている。
普段の玲なら間違いなく吐露しない言葉に、火花は狼狽した。
視線を思わず玲から外す。理由の分からない敗北感を味わった火花は、玲に悟られないよう、拳をぎゅっと握りしめた。
「お前も飲めよ」
「……うん」
真顔のまま、置いてあるお猪口を差し出して、玲は言った。
この男は、絶対に、今の発言の熱量が分かっていない。それがひどく狡く思えて、悔しくて。
火花は差し出された酒を、勢いよく口に含んだ。
喉が灼けるように熱い。
鼻から抜ける酒の香りに、すぐに酔ってしまいそうだ。頬と頭に集まる熱は、増していくばかり。
熱が身体に回っていく。弱い風の通り抜ける縁側が、この空間が、とても心地よい。
しばらく酒を飲み続けて、唐突に玲が、口を開く。
「お前は、これからどうするんだ?」
「うやむやになってたけど、正式に殿下の侍衛になるつもり」
「そうか」
「玲は?」
半ば予想出来ながら、火花は尋ねた。
胸の奥に眠る寂寞には、気がつかないふりをする。
「紫雲国に、帰ろうと思ってる」
予想通りの答えに、火花は小さく笑んだ。
「撒かれた魔石の影響がまだ残ってる。取り除いて、整えたい」
「……うん」
頷く。それ以上、言葉を紡げなかった。
代わりに、もうぬるくなった徳利を持って酒を注ぐ。
再び酒の満たされたお猪口を、玲に渡した。
玲はそれを黙って受け取る。
そして勢いよく、飲み干した。
月が傾いた。
凪、雅臣、拓磨は、なかなか戻ってこない二人を心配し、縁側を覗き込む。
「おやおや」
「……よく寝てるな」
「そっとしておいてあげましょう」
そこには寄り添い合う二人がいた。
火花が玲の肩にもたれ、静かな寝息を立てていた。玲はわずかに首を傾げ、火花の髪に頬を寄せたまま眠りこけている。
思わず、三人は顔を見合わせた。
「で、この子達十日も一緒に過ごしてたんでしょ?」
「まぁ、そうなるな」
少し酒の抜けた凪と雅臣が、小さな声で話し合う。
「何もないはずないよね? 手くらいは握ってるでしょ」
「ハナが? いや、ないない」
雅臣は首を左右に激しく振る。まるで、何かの想像を振り切ろうとするかのように。
凪は雅臣の動揺を面白がって、追撃した。
「寝床も一緒だったんでしょ? 何もない方がおかしいじゃない」
「……やっぱり、そう思う?」
だんだんと声量の大きくなってきた大人達に、拓磨はあからさまに眉を顰めた。
二人の袖を引き、大きな瞳で鋭く睨みつける。
「ちょっとお二人とも、静かにしてくださいよ!」
「お前、なんだか言い草が拓海に似てきたな……」
雅臣の呟きが、縁側を抜け、夏の夜空に溶けていく。
銀の月がいつまでも、穏やかな時間を享受するふたりを、ふわりと包み込んでいた。




