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紅華四季恋浪漫譚 蛍夏の章  作者: 浅葱ハル
第五章 帝都炎上
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12・櫻と別離

 宵華宮(しょうかのみや)の小さな屋敷。

 雲ひとつない夜空に浮かぶ三日月は、弱々しい光を放っていた。濃い宵闇に、屋根瓦も石畳も、墨を流したように沈んでいる。

 ほのかな風が、檜の香りを辺りに撒いて遊んでいた。


 数寄を凝らした門の前に、一台の黒塗りの馬車がひっそりと停まっている。

 その馬車を監視するように、雅臣と数人の侍衛がそれぞれ馬に乗って取り囲んでいた。

 馬たちの鼻息が、やけにうるさく響き渡る一方で、雅臣も、侍衛たちも、馬車の御者ですら無言のまま。


 灯籠が淡い橙に色付ける石畳を踏みしめ、宵華宮は、門前に立っている。

 旅装に身を包んだ彼の、黒い外套(マント)の裾が夜気を吸っていた。

 

 その姿は、まるで色のある世界から切り離された影のよう。


 宵華宮は、帝都から去る。

 表向きは諸国外遊。皇帝の命で、外交視察の任についたのだ。


 しかし実情は、僅かな共を連れての国外追放。

 二度と、帝国に戻ることは許されない。


 別れの気配で満ちる夜。彼が静かに空を見上げると、わずかな月光が頬を照らした。



 そこへ、石畳を懸命に駆ける音が近づいた。

 聞こえてくる荒い息遣いも大きくなっていくが、鈍い月明かりはその正体を中々明らかにしない。



 足音が立ち止まる頃になって、やっと滲んだその輪郭に、宵華宮は目を見開いた。



 火花が、息を乱してそこにいた。

 彼女は膝に手をついて二度、大きく呼吸を繰り返す。



 火花は整わぬ呼吸をそのままに、まっすぐ立って周囲を見回した。

 旅装束の宵華宮、そして馬車、それを警護する馬上の雅臣。



 もう一度ちらりと宵華宮へ視線をやってから、今度は雅臣に顔を向ける。



「少しだけっ、お話しさせていただけませんか」



 荒い声で告げられた願いに、侍衛たちが目に見えて眉を潜めた。

 雪哉の命で、宵華宮の帝国内での会話や接触は、すでに厳格に禁じられている。


 侍衛たちの反応は視界に入れず、雅臣は穏やかな笑みを火花に向け、はにかんで言った。



「いいよ」

「しかし、殿下」


 即座に隣の侍衛が反対の声をあげる。

 それを制して、雅臣は火花へ力強い言葉を贈った。


「俺が責任を取る。話してこい、ハナ」


 温かい主の言葉に、火花は勢いよく頭を下げた。

 そしてそのまま、宵華宮の瞳を射抜く。


 夜に溶ける、漆黒の瞳。

 動揺の中に、驚愕と、ささやかな喜悦が確かに垣間見えた。




 火花は宵華宮の立つ、屋敷の門前にまでゆっくりと歩を進めた。

 乱れた息は少し落ち着いてきたが、それでも心臓の鼓動はまだ、うるさくてたまらない。



「来て、くれたのか」


 宵華宮の声は、闇に踊って消えていく。

 低い音に、じんわりとした温度が灯っていた。


 宵華宮は、黒宮邸に何通か、火花と話したいという趣旨の手紙を送っていた。

 それを開封すらせず、今まで火花は自室の机の上に積み上げている。


 そんな中、雅臣から聞いた、宵華宮の処遇。


 その内容に、火花はどうしてか、居ても立っても居られなくなった。

 出立の夜が、もしかしたら最後に言葉を交わす機会となるかもしれない。そう思って、迷って、戸惑って、結局――火花は、ここに来た。



 宵華宮は、外套の中をおもむろに探る。

 そして小さな革袋を取り出して、そのまま火花へ差し出した。


「これを、貰って欲しい」


 どこか名残惜しげに告げる宵華宮に一抹の疑念を覚えながら、火花はそれを受け取る。

 手の上の軽さに中身の想像がつかぬまま、火花は袋の紐を解いた。


 灯籠の揺れる光が照らし出したのは――つげの櫛。

 火花は優しく、指の先でその繊細な細工をなぞる。華麗な、桜の意匠だ。



「これは……?」


「お前の母の、形見だ」


 思わず火花は、宵華宮の顔を見上げた。

 目の前の壮年の男の口元は、隠そうともせず歪んでいた。初めて聞く、情けないとも思えるほど、不安定な声音。その音に、確かに宵華宮からの、母への愛が宿っていた。


 それを感じ取ったからこそ、火花はすぐに、その櫛をそっと革袋へ戻した。丁寧に紐を結んで、そして宵華宮の正面に、静かに差し出す。



「これは、宮さまがお持ちください」


 はっきりとした、(よど)みのない声だった。

 火花の決断に、宵華宮は、どこか残念そうに瞳を伏せる。


 力なく革袋を受け取る彼へ、火花は言葉を続けた。



「私には、前皇后陛下……産みの母の記憶は、ありません」


 言の葉が、宵華宮を傷つけると分かっている。

 けれど、火花は偽らなかった。



「あなたのことを、父とも呼びたくありません」


 玲を、雅臣を、殺そうとした。

 その事実を許すことは、どうやったってできない。


 宵華宮は、櫛の入った袋を柔く握りしめたまま、諦念を孕んだ瞳で火花を見つめている。


 それでも怯まず、火花は言葉を続けた。



「でも、その櫛と、あなたのこと」


 火花の網膜には、桜の櫛が、鮮明に焼き付けられた。手触り、そして意匠、それを見つめる宵華宮の想いの籠った視線まで。



「絶対に、忘れません」


 火花の宣告に、宵華宮は笑った。



 宵華宮は、火花と玲の隠れ家に、大軍を引き連れて来たりはしなかった。

 蘭子に居場所を教えもしなかった。

 だから十日間も、二人は安穏に過ごせた。


 そのことを、火花もしっかりと理解している。



「そうか」


 宵華宮は短く言って、大切そうに、革袋を再び外套の中へ忍ばせた。



「思うままに、生きろ」


 彼の本音だと本能で感じるほど、温もりの滲む声に、火花は口の端を緩めた。


 宵華宮が、火花の黒髪をじっと見つめた。

 その視線の先には、簪がある。


 闇と同じ色、しかし以前とは異なる温度を湛えた瞳で、宵華宮は言葉を続けた。



「大切なものを、決して手放すな」


 漏れ出た拭えぬ彼の後悔を聴いて、火花はただ、深く頭を下げた。


 宵華宮は歩を進める。

 そして、停まる馬車へ乗り込んだ。





 馬車の戸が音を立て、閉ざされる。


 宵華宮は馬車の窓から、外を見た。

 己の娘が、ただ、美しい礼を続けていた。


 それが、立派に見えて。

 嬉しくて、愛しくて、そしてどうしようもなく――




 寂しかった。










 宵華宮の記憶に鮮やかに残る――いつかの、春。


「もし子供ができたら、どんな名前にします?」

「櫻子、どうしたんだいきなり」

「遠い未来の話ですよ? もし私たちに子供ができたら、どんな名前がいいかしら」


「男は、考えたくないな」

「あら、なぜ?」

「成長したら君に惚れるに決まっている。嫌だ」

「まあまあ、息子にまで敵対心を持つなんて、なんて狭量なのかしら」

「なんとでも言うがいい」


「では、娘なら?」

「君に似て可憐だろうな。しかし私に似てしまうかもしれない、それは嫌だな」

「悩みが尽きませんね」


「名前は……そうだな」


(ハナ)、なんてどうかな」

「まあ」

「気に入った?」

「とても綺麗な音ですわ。気に入りました」


「しかし子供の名前なんて、気が早すぎやしないか?」

「そうかしら。幸せな未来の一つくらい、想像したって損はありませんよ」

「……それもそうだな」


「そんな未来が、来るといいですわね」

「ああ。



 ……来ると、いいな」


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