10・月の残響
帝都の外れ、表通りの光が届かぬ裏路地。
しとどに濡れた石畳が、月明かりに鈍く光っていた。
雨の名残で、軒の端から水滴がぽたりと落ちる音が、どこからか響く。
その細い路地の奥には、赤く滲む提灯が吊り下げられている。煤けた暖簾には、「酒」とかすれた墨字。
小さな屋台風の酒処だ。中には、板張りの簡素な台に、数脚の丸椅子が置かれている。
酔客の笑い声が、雨に洗われた晩夏の空気に溶けている。
客に混じって、一人の青年が冷めた瞳で粗末な盃を傾けていた。
数日前まで上質な絹衣を纏っていた男は、今やくたびれた鼠色の着流しに身を包んでいる。美しく整えられていた茶髪は、どこか脂ぎって粗野な印象を与えていた。
冷めきった、光の届かぬ深海を想起させる青い瞳には、何の感情も滲んでいない。
その男の丸まった背をようやく見つけ、火花は石畳の上で立ち止まった。
隣の玲は、火花にちらりと視線をやる。
それを受けて、火花は大きく息を吸い込んだ。
「藍川維月!」
火花の怒鳴り声が、濡れた空間に大きく反響した。
空間を裂く声に、男の背中がぴくりと反応し、動きを止める。
直後、維月は盃を台に強く置いた。勢いに負けた盃が傾き、中から酒が溢れていく。
それを気にも留めず、彼はゆっくりと首を回した。
維月の瞳が、背後に並び立つ火花と玲をしっかりと捉える。
維月は座っていた丸椅子を蹴飛ばすように、乱雑に立ち上がった。そのあまりの粗雑さに、客と店主は咎めるのも忘れて固唾を呑み、ただ三人のやり取りを見守っている。
「貴様ら……」
維月の声は、掠れている。泣き腫らし、叫びきった後の、残穢をかき集めた音。
地獄の底から這い出てきた亡者のようなそれに、火花と玲は真正面から対峙した。
「よく、も」
維月は明らかに履き慣れていない下駄を鳴らし、石畳の上で仁王立ちした。
安い酒のおかげで全身に回った熱い血が、怒りと慟哭まで、全身を循環させているようだ。
「……オレの、母上を! 殺したな!」
恨みの籠った瞳を受けて、火花はついに身構え、拳を握る。
戦闘も辞さない構えを見せた火花を横目に、玲は冷静な声を場に降らせた。
「ああ」
「っ……殺してやる!」
短い肯定が、維月の衝動を促した。
維月は突如として駆け出し、右の拳を不必要なほど大きく振りかぶった。
「かかってこい貧弱!」
火花は眉間に皺を寄せ、吠える。
すぐさま玲の前に一歩出て、維月の拙い攻撃を、いとも簡単に右の手の甲で弾いた。
弾かれた維月は、無様によろめく。
どう見ても、戦闘の腕に差がある。彼の履き慣れていない下駄は、濡れた石畳によく滑る。
そもそも彼は酒を飲んでいるし、火花と玲は二人。維月は――独り。
勝つための戦いでは、最初から無い。
ただ彼は、殴りたかったのだろう。
分かっている。それでも火花は、ただで殴られてやるつもりはなかった。
維月は再び、拳を作る。そして咆哮しながら、火花に再度突進した。
鈍い拳が火花の頬に触れる直前で、火花はそれを見切る。
顔をひょいと体ごと翻し、そのまま右足の膝を維月の腹に鋭く叩き込んだ。
「っ……ぐぁ…」
維月が悶えながら、濡れた地に膝をつける。
着流しに水が滲み、跳ねた泥が付いても、彼はまるで意に介さない。
それどころか、痛みすら無視するように再び立ち上がって、下駄を滑らせながら、また火花へと駆け出した。
戦意を失わない維月に対して、火花は容赦するつもりがない。
右の拳を力強く握り、後方に引いて大きく力を溜める。
維月が殴りかかってきたところを、それより早く、彼の頬を反対に殴りつけた。
しかし、違和感。
火花は表情を歪ませた。
殴り飛ばした筈の彼の顔が、すぐ近くにあった。
殴られるのを覚悟の上で、維月は自ら身体をひねって衝撃を逃したらしい。彼の足だけは、その場に踏みとどまっていた。
「なっ……!」
驚愕に目を見開く火花の頬へ、維月がどこか頼りない拳を叩きつける。
鈍い衝撃が火花を襲う。それでも、すぐに火花は大きく後ろへ飛び退き、真っ直ぐに立った。
対する維月はもう、頬を赤黒くし、腹の痛みに立つことすら難しいらしい。
背を丸めてかろうじて立っているが、それでも尚、青の瞳に滾る闘志は消えていない。
二人の殴り合いを一歩下がって見守っていた玲は、そこで初めて、前に出た。
今にもまた殴りかかりそうな火花を見て、静かな言葉を紡ぐ。
「もう、やめろ」
「嫌」
諭す玲に、火花は即座に言葉を返した。
「やらせて、玲」
玲は逡巡して、小さく息を吐く。そして一歩、足を引いた。
維月は膝を震わせている。その膝を支えるように、彼は両手をついた。
息が荒い。腹を殴られたせいで、呼吸するのにも痛みが伴うようだ。
それでも彼は、大きく息を吸った。
そして吐き出された声は、どうしようもない沈痛を伴っていた。
「分かってるよ! 母上は、処刑されて当然のことをした!」
火花の動きが止まる。
維月の心の叫びが、確かに、痛かった。
「公開処刑にされたって! 晒し首にされたって! 仕方なかったんだ!」
慟哭が、夜に満ちていく。
「でも、それでも――!」
維月は、ついにその場に崩れ落ちた。膝を石畳に落とす音が、重たく場に響き渡る。
言葉になりきれなかった哀傷が、彼の身体中を裂くように駆け巡っていることは、明白だった。
それでも、だからこそ、火花と玲は維月に会いに来た。
藍川の姓を、屋敷を、名声を、家臣を、自尊心を、そして――母を。
全てを喪い、帝都を彷徨っていた彼を探し当てたのには、伝えなければならない事があったからだ。
「藍川蘭子の最期の言葉だ。お前に伝えるよう、頼まれた」
玲の落ち着いた声音で告げられた言葉に、維月は目を丸くした。
そのまま、ただ呆然と、彼は玲を見上げている。
「――愛してるわ、と」
低い玲の音は、帝都の夜に染み入っていく。
維月の表情が固まって、そして刹那の後、彼は泣き笑いを表情に浮かべていた。
「そんな、こと」
枯れた声が、自嘲じみていた。
「なんで」
維月は地を睨みつける。
拳を強く強く握りしめて、固い石畳へ、叩きつけた。
「なんで」
石畳の窪みへ溜まった雨が、飛散する。
「なんで……っ、お前に、お前らに、伝えられなきゃならないんだ!」
絶叫が、火花と玲の鼓膜を貫いた。
火花はただ立ち尽くす。
沈黙が落ちる。
冷えた夜風が、屋台の酒の匂いを散らしていく。
月明かりは優しいが、維月の心の慰めには、きっとならない。
しばらくして、玲が静かに口を開いた。
「借りは、返した」
藍川邸の地下牢で、維月は火花と玲を殺す機会を見逃している。
わかりにくいが、確かな温度を孕んだ玲の声。維月は何の反応も返さない。
「次は、俺も相手になる」
ちらりと火花の頬を見やって、玲は言った。
藍川家は、もう無い。
全てを剥奪され、青の魔術の裏の顔――精神干渉の事実が、貴族会議で広められている。
危険な魔術と認識され、忌避されるようになったのだ。
その象徴でもある維月に残された人生は、険しいものとなる。
火花はもしかしたら、維月が自ら命を絶ったのではないかと考えていた。
しかし彼は今、青々しい瞳を湛えてここにいる。
「さっさと立てば?」
学院時代、彼と幾度となく舌戦を交わした。
腹立たしくて仕方なかった。
自尊心だけは一丁前で、実力もなにもない、嫌味でふてぶてしい、最低な同級生。
自分にいつも正直な、憎たらしい男。
「うるさい。消えろ山猿」
維月は枯れた声で、恨めしげに火花を睨みつけた。
――維月はその後、帝都を離れた。
帝都でやがて起こる、青の魔術師への迫害。
それから逃れるために帝都から脱出した魔術師たちをまとめ上げ、小さな組織を興す。
彼の不遜な態度は、いつまでも変わらなかった。
裏表のないその性格も、変わらなかった。
やがて青の魔力が枯渇し、彼がその反動に怯える日々を送るようになっても――
彼の周りにはいつも、人が絶えなかったという。




