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紅華四季恋浪漫譚 蛍夏の章  作者: 浅葱ハル
第五章 帝都炎上
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10・月の残響

 帝都の外れ、表通りの光が届かぬ裏路地。

 しとどに濡れた石畳が、月明かりに鈍く光っていた。


 雨の名残で、軒の端から水滴がぽたりと落ちる音が、どこからか響く。


 その細い路地の奥には、赤く滲む提灯が吊り下げられている。煤けた暖簾(のれん)には、「酒」とかすれた墨字。

 小さな屋台風の酒処だ。中には、板張りの簡素な台に、数脚の丸椅子が置かれている。


 酔客の笑い声が、雨に洗われた晩夏の空気に溶けている。

 客に混じって、一人の青年が冷めた瞳で粗末な盃を傾けていた。


 数日前まで上質な絹衣を纏っていた男は、今やくたびれた鼠色の着流しに身を包んでいる。美しく整えられていた茶髪は、どこか脂ぎって粗野な印象を与えていた。

 冷めきった、光の届かぬ深海を想起させる青い瞳には、何の感情も滲んでいない。


 その男の丸まった背をようやく見つけ、火花は石畳の上で立ち止まった。

 隣の玲は、火花にちらりと視線をやる。

 それを受けて、火花は大きく息を吸い込んだ。



「藍川維月(いつき)!」

 火花の怒鳴り声が、濡れた空間に大きく反響した。

 空間を裂く声に、男の背中がぴくりと反応し、動きを止める。


 直後、維月は盃を台に強く置いた。勢いに負けた盃が傾き、中から酒が溢れていく。


 それを気にも留めず、彼はゆっくりと首を回した。

 維月の瞳が、背後に並び立つ火花と玲をしっかりと捉える。


 維月は座っていた丸椅子を蹴飛ばすように、乱雑に立ち上がった。そのあまりの粗雑さに、客と店主は咎めるのも忘れて固唾を呑み、ただ三人のやり取りを見守っている。


「貴様ら……」

 維月の声は、(かす)れている。泣き腫らし、叫びきった後の、残穢(ざんえ)をかき集めた音。

 地獄の底から這い出てきた亡者のようなそれに、火花と玲は真正面から対峙した。


「よく、も」


 維月は明らかに履き慣れていない下駄を鳴らし、石畳の上で仁王立ちした。

 安い酒のおかげで全身に回った熱い血が、怒りと慟哭まで、全身を循環させているようだ。


「……オレの、母上を! 殺したな!」


 恨みの籠った瞳を受けて、火花はついに身構え、拳を握る。

 戦闘も辞さない構えを見せた火花を横目に、玲は冷静な声を場に降らせた。



「ああ」

「っ……殺してやる!」


 短い肯定が、維月の衝動を促した。

 維月は突如として駆け出し、右の拳を不必要なほど大きく振りかぶった。



「かかってこい貧弱!」


 火花は眉間に皺を寄せ、吠える。

 すぐさま玲の前に一歩出て、維月の拙い攻撃を、いとも簡単に右の手の甲で弾いた。


 弾かれた維月は、無様によろめく。


 どう見ても、戦闘の腕に差がある。彼の履き慣れていない下駄は、濡れた石畳によく滑る。

 そもそも彼は酒を飲んでいるし、火花と玲は二人。維月は――独り。


 勝つための戦いでは、最初から無い。

 ただ彼は、殴りたかったのだろう。


 分かっている。それでも火花は、ただで殴られてやるつもりはなかった。


 維月は再び、拳を作る。そして咆哮しながら、火花に再度突進した。

 鈍い拳が火花の頬に触れる直前で、火花はそれを見切る。

 顔をひょいと体ごと翻し、そのまま右足の膝を維月の腹に鋭く叩き込んだ。


「っ……ぐぁ…」


 維月が悶えながら、濡れた地に膝をつける。

 着流しに水が滲み、跳ねた泥が付いても、彼はまるで意に介さない。

 それどころか、痛みすら無視するように再び立ち上がって、下駄を滑らせながら、また火花へと駆け出した。


 戦意を失わない維月に対して、火花は容赦するつもりがない。

 右の拳を力強く握り、後方に引いて大きく力を溜める。


 維月が殴りかかってきたところを、それより早く、彼の頬を反対に殴りつけた。


 しかし、違和感。

 火花は表情を歪ませた。


 殴り飛ばした筈の彼の顔が、すぐ近くにあった。

 殴られるのを覚悟の上で、維月は自ら身体をひねって衝撃を逃したらしい。彼の足だけは、その場に踏みとどまっていた。


「なっ……!」


 驚愕に目を見開く火花の頬へ、維月がどこか頼りない拳を叩きつける。

 鈍い衝撃が火花を襲う。それでも、すぐに火花は大きく後ろへ飛び退き、真っ直ぐに立った。


 対する維月はもう、頬を赤黒くし、腹の痛みに立つことすら難しいらしい。

 背を丸めてかろうじて立っているが、それでも尚、青の瞳に滾る闘志は消えていない。



 二人の殴り合いを一歩下がって見守っていた玲は、そこで初めて、前に出た。

 今にもまた殴りかかりそうな火花を見て、静かな言葉を紡ぐ。


「もう、やめろ」

「嫌」


 諭す玲に、火花は即座に言葉を返した。


「やらせて、玲」


 玲は逡巡(しゅんじゅん)して、小さく息を吐く。そして一歩、足を引いた。



 維月は膝を震わせている。その膝を支えるように、彼は両手をついた。

 息が荒い。腹を殴られたせいで、呼吸するのにも痛みが伴うようだ。


 それでも彼は、大きく息を吸った。

 そして吐き出された声は、どうしようもない沈痛を伴っていた。



「分かってるよ! 母上は、処刑されて当然のことをした!」


 火花の動きが止まる。

 維月の心の叫びが、確かに、痛かった。


「公開処刑にされたって! 晒し首にされたって! 仕方なかったんだ!」


 慟哭が、夜に満ちていく。



「でも、それでも――!」


 維月は、ついにその場に崩れ落ちた。膝を石畳に落とす音が、重たく場に響き渡る。

 言葉になりきれなかった哀傷が、彼の身体中を裂くように駆け巡っていることは、明白だった。



 それでも、だからこそ、火花と玲は維月に会いに来た。


 藍川の姓を、屋敷を、名声を、家臣を、自尊心を、そして――母を。

 全てを喪い、帝都を彷徨(さまよ)っていた彼を探し当てたのには、伝えなければならない事があったからだ。



「藍川蘭子の最期の言葉だ。お前に伝えるよう、頼まれた」


 玲の落ち着いた声音で告げられた言葉に、維月は目を丸くした。

 そのまま、ただ呆然と、彼は玲を見上げている。







「――愛してるわ、と」


 低い玲の音は、帝都の夜に染み入っていく。

 維月の表情が固まって、そして刹那の後、彼は泣き笑いを表情に浮かべていた。


「そんな、こと」

 枯れた声が、自嘲じみていた。


「なんで」

 維月は地を睨みつける。

 拳を強く強く握りしめて、固い石畳へ、叩きつけた。


「なんで」

 石畳の窪みへ溜まった雨が、飛散する。


「なんで……っ、お前に、お前らに、伝えられなきゃならないんだ!」


 絶叫が、火花と玲の鼓膜を貫いた。

 火花はただ立ち尽くす。


 沈黙が落ちる。

 冷えた夜風が、屋台の酒の匂いを散らしていく。

 月明かりは優しいが、維月の心の慰めには、きっとならない。




 しばらくして、玲が静かに口を開いた。


「借りは、返した」


 藍川邸の地下牢で、維月は火花と玲を殺す機会を見逃している。

 わかりにくいが、確かな温度を孕んだ玲の声。維月は何の反応も返さない。


「次は、俺も相手になる」


 ちらりと火花の頬を見やって、玲は言った。


 藍川家は、もう無い。

 全てを剥奪され、青の魔術の裏の顔――精神干渉の事実が、貴族会議で広められている。

 危険な魔術と認識され、忌避されるようになったのだ。


 その象徴でもある維月に残された人生は、険しいものとなる。


 火花はもしかしたら、維月が自ら命を絶ったのではないかと考えていた。


 しかし彼は今、青々しい瞳を湛えてここにいる。



「さっさと立てば?」


 学院時代、彼と幾度となく舌戦を交わした。

 腹立たしくて仕方なかった。

 自尊心だけは一丁前で、実力もなにもない、嫌味でふてぶてしい、最低な同級生。


 自分にいつも正直な、憎たらしい男。



「うるさい。消えろ山猿」


 維月は枯れた声で、恨めしげに火花を睨みつけた。







 ――維月はその後、帝都を離れた。


 帝都でやがて起こる、青の魔術師への迫害。

 それから逃れるために帝都から脱出した魔術師たちをまとめ上げ、小さな組織を興す。



 彼の不遜な態度は、いつまでも変わらなかった。

 裏表のないその性格も、変わらなかった。



 やがて青の魔力が枯渇し、彼がその反動に怯える日々を送るようになっても――


 彼の周りにはいつも、人が絶えなかったという。





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