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紅華四季恋浪漫譚 蛍夏の章  作者: 浅葱ハル
第五章 帝都炎上
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9・継承とてのひら

 夕刻。凪の家。

 雨上がりの土の豊かな匂いが、室内に漂っている。

 縁側の雨樋を伝い地に落ちる雫の音が、時折思い出したように小さく響いた。


 座敷の隅には、白木でできた簡素な仏壇が置かれていた。仮の供養用の、小さな棚だ。


 その上に、白い骨壺がひとつ。横には火花が摘んだ桃色の芍薬が、小瓶に活けられている。

 線香の煙が細く立ちのぼり、雨で湿った畳の匂いと混じり合っていた。


 拓海の骨壷の前で、火花と拓磨は並んで正座をしている。

 そして静かに手を合わせ、二人は祈りを捧げた。


 瞼を閉じていると、彼のあの優しい笑顔が目に浮かぶ。

 火花はゆっくり瞳を開く。目の前にある骨壷の小ささが、どうしてか哀しかった。


 拓海の無実が証明された。

 彼は暗殺未遂を起こした実行犯などではなく、藍川蘭子に操られた被害者だった。

 そう明らかになって、拓海の遺骨は拓磨の元へ速やかに返還されたのだ。


「ありがとうございました」


 拓磨は正座のまま火花に向き直ると、丁寧な礼をした。

 雨後の空気に溶ける澄んだ声に、火花は慌てて拓磨を制す。


「やめて、礼なんて」

「素直に受け取ってください。兄は、絶対に喜んでますよ」


 拓磨の声は確信めいていた。丸く大きな、薄墨の柔らかい瞳。

 拓海とそっくりの印象的な瞳を前にして、火花は目を伏せ、唇の端を緩めた。


「……そう、かな」

 刻んだ声は自信なさげであったが、火花は内心、納得していた。

 きっと拓海なら、ありがとうと言ってくれる。そうだと確信できるのに、どうやっても彼の声で聞くことは叶わない。――そのことが、やるせなくて仕方なかった。


 火花は拓磨の傍らに積まれている本の山を見た。

 拓海の家の本棚に、天井までぎっしりと埋められていた書籍たち。それが今、目の前にある。


「兄さんの遺した資料も全部、戻ってきたんです」


 火花の視線に気がついた拓磨が、嬉しそうにそう言った。

 本や日記の中にはきっと、彼の遺した叡智と記憶が、たくさん詰まっている。

 それを引き継いでいく彼の忘れ形見を前にして、火花は穏やかに声をかけた。


「拓磨は、これからどうするの?」

「師匠に、ここにいてもいいって言われて。ご厚意に甘えようと思っているんです」


 火花は少しだけ驚いたが、同時に安堵もした。

 凪は問題の多い大人ではあるが、面倒見は良さそうだ。家事能力に長け、年齢に似つかわしくない落ち着きっぷりを発揮している拓磨とは、確かに相性も良いのだろうと思う。


 拓磨には身寄りがない。

 拓磨が行くところがないなら、黒宮家に誘おうと思っていたが――彼にとって、こちらの方が居心地も良いだろう。

 火花は小さく頷いて、微笑んだ。


「それから」

 拓磨はそこで、太ももに置いていた拳を緩く握った。彼の纏う簡素な空色の着物が、くしゃりと皺を作る。決意めいた拓磨の瞳に、火花は唾を飲んで、彼の言葉を待った。


「僕、魔石の勉強をしようと思います」

「……どうして?」


 生まれた疑念に、火花は眉を潜めた。

 魔石は、拓磨にとって、記憶から葬り去りたいものであるはず。視界に入れたくもないだろう。


「師匠から聞いたんですけど……。魔術師の方々は、魔力が枯渇すると、重い副作用に苛まれるんですよね?」

 火花は困惑しながらも、首を小さく縦に振った。


「僕は、あの魔石に、突破口があると思うんです。もちろん精製方法に問題があるのは分かっていますから、それもどうにかできないか……と」


 拓磨の言葉は、どこか弱弱しかった。火花に告げることを躊躇(ためら)うような素振りで、どんどん声が小さくなっていく。それでも、彼の面差しには強いものがあった。

 一見ひょろりとして虚弱そうなのに、芯は強くて、絶対に自分を曲げない。

 拓海に似た拓磨の所作に、火花は胸が熱くなって、笑みを溢した。


「僕は兄ほど賢くはないけれど、意外と根性はあるんです」


 拓磨は照れ笑いを浮かべながら、頬を掻いてそう言った。

 兄を死に追い込んだ魔石。

 それを研究すると言い出す拓磨は、とんでもなく強靭な精神の持ち主だと火花は思う。

 瞳を細めて、拓磨の決意に顔を綻ばせた。





 その後、火花は凪の家を後にした。

 拓磨に別れを告げ、土間を通り抜けて、建て付けの怪しい板戸をくぐる。


 外に出れば、灰色の雲を染める西陽が、強烈な光を放っていた。

 足元の水たまりがそれを反射して、目に痛い。


 火花は容赦のない太陽から逃れるように顔を逸らして、己のショートブーツを見つめた。


 胸の中を席巻する、鮮やかな寂寞。

 拓磨の前ではなんとか栓を閉めていたそれが、喉の門を通過して、涙腺まで駆け上がってくる。

 堪えようとしても、もう堰き止められない。

 熱い波が角膜に押し寄せて、それがじんわりと集まっていき、雫を成した。


 視界が歪んでいく。

 熱を孕んだそれが頬を伝って、黒い袴に目立たないシミを作っていった。


 不意に、水たまりを容赦無く踏み抜く音がする。

 反射的にそちらを見て、火花はすぐに後悔した。


「あっ……」

 漏れた声をすぐに止めようと、左手の甲を唇に押し当てるも、なんの意味もないと悟る。


 玲が立っていた。


 無表情ながら、こちらから視線を外してくれない。

 今の表情を見られたくなくて、火花は顔を逸らした。理不尽な怒りを胸に、乱暴に言葉を吐く。


「なんでいるの」

「ここに、来ると思った」


 答えになっていない答えに、火花は苛立った。

 何か言い返そうとしたが、声が震えそうで、怖い。


 唇を抑え立ち尽くす火花を玲はじっと見つめる。

 そして唐突に、火花の左の手首を掴んだ。


 無遠慮なその行為に火花は驚いて、濡れた瞳を見開くが、不思議と抵抗する気は起こらない。


 そのまま玲は、火花の手首を引き、凪の家の塀を伝うように歩き始めた。

 火花は黙って、その導きに従う。

 濡れた土と水たまりを踏む音が、二人を柔らかく包んだ。



 玲が立ち止まったのは、密集した長屋の間の、狭い空間だった。

 人通りはまるでない。家屋の軒下には木箱や空瓶が散乱し、地面には雑草が鬱蒼(うっそう)と生い茂っている。

 物悲しい、蝉の声が吹き抜けた。


 二人の間に会話はない。


 玲はそこでようやく、火花の手首を離した。

 少し強く握っていたからか、弱く白い跡を残している。


 玲の手が離れていく。

 それを、なぜか、火花は見逃せなかった。


 離された掌で、そのまま、素早く玲の掌を捕える。


 玲の右手は僅かに驚いて、動きを止めた。

 火花の指先たちが、玲の指の間へ絡み、流れ込んでいく。


 掌がやさしく触れ合って、二人は柔く、その手に力を込めた。


 玲の掌は、少しだけひんやりとしている。

 握り返された指先の先端まで、しっかり硬い。

 彼の努力の証を、火花はどうしようもなく、好ましく思った。


 二人はそのまま家屋の壁に背中を預けた。向かいの家屋の傷んだ塀を、蟻が列をなして行軍している。

 繋いだ手にも、お互いにも、視線は向けない。


「玲」


 ただそれぞれが前を見ている。けれどその確かな繋がりが、火花の背中を静かに押した。


「私ね、もっと、胸がすくかと思ってたの」


 声は、どうしても震えていた。

 もうそれでも、かまわないと思った。


「爽快な気分で、胸を張って、拓海の墓前に立てるって」


 そう思っていたから、全ての感情を怒りに昇華できた。

 藍川蘭子を打ち倒すことに、我武者羅(がむしゃら)でいられた。


「……結局、拓海は、居ない」


 絶対的な事実が、居なくならない。

 もうこれ以上、できることは、ない。


「ねえ、玲」

 そう呼びかけたら、玲の掌が、強く握り返してくれる。

 それが嬉しくて、幸せで、再び視界が滲んでいく。


「悲しい」

 止まっていた筈の熱い波が、また火花を襲う。抗うことを止めた火花は、ただひたすら、声を漏らさず、震える唇を噛み締めた。


「ああ」

 玲の低い、心地よい声がする。

 短い肯定の音が、火花の鼓膜に染み入った。


「俺も同じだ」



 二人は同じ空を見上げた。古ぼけた家屋の軒裏には、腐りかけの木が打ち付けてある。

 その奥に、限りない茜を被った夕空が広がっていた。


 火花は背中を家屋の壁につけたまま、こっそりと玲の顔を盗み見た。

 憮然(ぶぜん)とした顔。不健康そうな白い肌。ふわふわの柔らかそうな黒髪。その合間で、紫の美しい瞳が、哀しげに揺れている。


 彼の瞳の先には、失った祖国がある。


 強く握り合う手が、少しだけ痛い。

 痛いほど触れ合っていることが、嬉しかった。


 時が経つのを忘れて、火花はただ、泣いた。




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