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紅華四季恋浪漫譚 蛍夏の章  作者: 浅葱ハル
第五章 帝都炎上
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7・切願と怨嗟

 宵華宮(しょうかのみや)が階段を降りるたび、空気がひとつ冷たくなる。

 冷たい石でできた階段は、彼の黒革の靴音をよく反響させた。


 皇宮の東棟の地下には、表向きは存在しないとされる、極秘の拘禁施設があった。

 帝国に逆らう者、皇族の秘密を知った者などが『人知れず消える』場所とされている。


 宵華宮が最後まで階段を降りると、煉瓦の壁に打ちつけられた裸電球が、弱く明滅していた。

 その頼りない灯りに照らされて、鉄格子の影が粗末な床に縞模様を刻んでいる。


 どこかで、水の滴る音がした。

 その音の合間に、彼女の微かな息遣いが確かに、感じられる。



 宵華宮は上質なスーツを身に纏い、フェドラハットを目深に被っていた。

 彼は澱みなく歩み、牢の格子の前に立つ。



「あら……陛下」


 藍川蘭子は、白無地の囚人衣に似た服を纏い、牢の中に立っていた。

 乱れ髪を一本の簡素な紐で結わえている。瞳の色は、どこか空虚な黒。


 奥の粗末な木の台には、清潔な白い寝具が皺一つなく整えられている。横の木製テーブルの上には、パンとスープが手付かずのまま置いてあった。


「お元気そうで何よりですわ」


 蘭子は紅が落ち、ひび割れた唇で、それでも優雅に微笑んだ。

 壁の高い位置にある細い換気口から、温かい外界の匂いが入り込んでいる。


 宵華宮は、じっと蘭子の姿を見つめた。

 二人の視線が交錯して、蘭子は柔く、口の端を緩める。


「裏切りましたわね」

 咎めるような声音ではなく、ただ穏やかに蘭子は言った。


 宵華宮は、帝都の大通りに火花と玲が現れるという情報を、蘭子に流した。

 その情報を受けて蘭子は、大量の魔力を使役して私兵の戦力を増強し、兵を配置したのだ。


 すべて、雪哉の計画通り。

 そのことを蘭子が察したのは、この牢に捕えられてからのことだった。


「……わたくしの力なしに、皇帝になどなれませんわよ」


 諭すように蘭子は言う。宵華宮は藍川家という、四華族一の財力を有する後ろ盾を失った。

 蘭子の言葉の通り、彼が皇帝に即位する未来は絶たれたと言っていいだろう。


「お前も私も、分不相応な夢を見過ぎた」

「分不相応?」


 波紋のない水面のような瞳を向ける宵華宮に、蘭子は目を見開いた。

 そして、声をあげて笑う。

 明確な、嘲笑だった。


「そんなことは、初めからわかっていたではありませんか」

 凡庸な黒色と成り果てた蘭子の瞳。それでも漆黒を艶やかに揺らして、彼女は笑った。


「願いはあるか。蘭子」

 宵華宮の声は、いつものように低く、温度がない。けれど彼が湛える表情には、ごくごく微かな、情が滲んでいた。


「そうですわね」

 蘭子は黒鉄でできた強固な牢格子に近づいた。

 衣擦れの音が、煉瓦造りの空間に反響する。


「藍川家の存続――は難しいでしょうね」


 第二皇子の暗殺を企てた。四華族であっても、藍川家の取り潰しは免れない。

 今まで築いてきた富も、名声も、全て歴史の闇に葬り去られることになる。


 それは、蘭子にとって仕方がないと割り切れることだった。

 分不相応な夢を見て、苛烈に歩み続けてきた代償は、決して安くはない。



 ただ一つ、彼女にもまだ、願いが残されている。



「愚息の処刑だけは、どうか」



 宵華宮は蘭子の姿を、静かに見据えていた。

 以前の宵華宮なら、彼女の最期の願いを予測できなかったかもしれない。けれど今、己の予想通りに希う蘭子を前にして、小さく首を縦に振った。


「あなたもご存知でしょう? 愚かなあの子は、何もしていません。ただわたくしの指示に、仕方なく従っていただけ」

「……善処しよう」


 宵華宮は、美しい所作で脱帽した。

 フェドラハットを胸の中心に据え、はっきりと蘭子を捉え、告げる。


 それを見て、蘭子は微笑んだ。

 憑き物の落ちたかのような自然な笑みが、彼女の青白い口元から溢れる。


 蘭子は牢格子の向こうから、細い腕を差し出した。

 白い手が、宵華宮の頬に伸びる。



「さようなら、可哀想な人。――地獄で、お待ちしておりますわ」



 蘭子は冷えきった手で愛しげに彼の頬を撫でながら、美しい怨嗟の声を吐いた。







 宵華宮は、蘭子との面会を終え、石の階段を上りきる。

 そこには、埃の乾いた匂いで満ちた、皇族専用の古い書庫が広がっていた。

 蘭子が捕えられた地下牢への入り口は、大きな本棚によって普段は塞がれ、隠されているのだ。


 三人がかりで入り口を塞ぎはじめた衛兵たちを横目に、宵華宮は己を出迎える男に、ちらりと視線をやった。

 雪哉が、血より濃い紅い瞳を前髪の合間から覗かせて、そこに悠然と立っている。



「全て、お前の手のひらの上か?」


 宵華宮は呟いた。幼い頃から優秀で、かつての自分の姿と重なる甥のことを、小さな頃は憎からず思っていた。


 違和感を覚えたのは、いつからだったか。


 この男の、考えの底が知れない。



「蘭子の願いを一つ叶える。それが、お前との取引の条件だったはずだ」

「ええ。約束は守ります」


 宵華宮は雪哉の指示のもと、蘭子へ与える情報の操作を行っていた。

 そのおかげで蘭子からの追跡を免れ、火花と玲は隠れ家生活を送ることができていた。


「叔父上への処罰も、追って下しましょう」


 魔石の製造など蘭子と共謀しての罪は、さりとて免れられない。

 それでも宵華宮は、この道を選択した。


「ああ」


 雪哉の表情をじっと見る。

 白く冷たく爽やかな、冬の雪晴れのような笑み。

 しかし、その笑顔が作り物であることを、宵華宮は看破している。



 宵華宮は、ゆっくりと目を閉じた。

 埃の乾いた匂いと、古書の香りで満ちる空間には、なぜだか血の香りも混じっている。


 己の役割が終わったことを、宵華宮は享受した。


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