4・黒と紅
夜の帝都は、表通りのガス灯が放つ柔らかな光と、裏通りの闇が背中合わせに息づいている。
火花は、漆黒のマントコートの裾をひらめかせ、表通りから外れた路地から、さらにもう一本細い路地へと足を踏み入れた。
黒い制服の襟元を閉じ、顔を隠すようにクロシェ帽を目深に被っている。
漂う香水の匂いと、遠くから漂う焼き鳥の煙が混ざり合い、湿った夜気に絡みつく。
人通りはほとんどない。時折、ぼろ着の浮浪者や顔を隠した女とすれ違うだけだ。
そんな路地の突き当たりに、灯りを落とした小さな古道具屋がひっそりとあった。
迷いなく、火花はその扉を素早く開き、室内へするりと滑り込んだ。
中へ足を踏み入れた途端、外の冷たい夜気がすっと引き、重い空気が全身にまとわりつく。
甘く焦げた香の匂いは濃く、微かに鉄のような匂いも混じっている。
象牙色の獣骨や色褪せた護符など、棚いっぱいの奇妙な品が、薄暗がりの中にぼんやりと浮かんでいた。古道具屋というより、骨董と呪物の闇市と呼ぶ方がふさわしいだろう。
背後で戸が閉まる。
その瞬間、外の喧騒や風から切り離されたような感覚に包まれた。
もうここは、帝都の片隅ではない。
「いらっしゃい」
室内にも関わらず、黒ずくめの外套を纏った女が火花をじっと見つめていた。白磁のように滑らかな肌と、山高帽の影から覗く紅の唇が、闇にひときわ映える。
その唇が、ゆるやかに弧を描いた。
「では、はじめましょうか」
声は落ち着いていて、どこか品がある。
耳の奥に残る響きは、澄んだ鐘の音のように静かで、余韻を伴って流れ込んできた。
「お願い」
そう告げながら、火花はマントコートとクロシェ帽を外し、中央に無造作に置かれた木製の椅子に腰を下ろす。
黒髪から覗く火花の瞳は、いつもより漆黒が薄い。僅かに紅が滲み出していた。
その色を見て、女は唇を横に引き結ぶ。
「貴女……もう術が解けたのね」
女は呪術師。または黄の魔術師とも呼ばれる。
定期的に、火花の瞳に術をかけ、その鮮やかな紅色を漆黒に変えてきた。
「今日はもっと強くかけて」
「無茶言わないで。これ以上は無理よ」
紅華帝国に息づく魔術には、いくつか種類がある。
その中でも、紅の魔術は神聖視された。
それは歴代の皇族のみが、紅い瞳に高い魔力を宿し、この帝国を率いてきたから。
火花の瞳は、深く濃い紅だった。
黒宮家の父も母も兄も、瞳は黒く、魔力を持たない中、ただ一人だけ。
生まれた時は黒かった瞳も、成長するにつれ段々と紅く濃くなり、今は呪術で定期的に色を変えなければ隠せないほどになっていた。
黒宮の一族は皇族の侍衛を務めるのが家業だ。
皇族とは決して血を交えないことで忠誠を示し、それを誇りとしている。
そんな一族の中に、紅い瞳の者が居ると知られたら、火花本人だけでなく、家まで中傷の的になる。
それを、火花は深く恐れていた。
呪術師が火花の瞳に手を翳す。
瞳がじわりと熱を帯び、滲み出た紅が後退していくのが分かる。火花は、舌打ちしそうになるのを噛み殺した。
瞳が紅に戻る周期が、短くなっている。
日に日に増大していく魔力に、火花は忌々しさすら覚えていた。
火花の主である、第二皇子・雅臣も、もちろん輝く紅い瞳を持つ。
しかし、その後ろに控える火花の方が、すでにより濃い色だった。
この帝国で紅い瞳が神聖視される以上、それは秘匿すべき事実。
だからこそ、火花は魔術を使った戦いを封じた。黒宮らしく、自身の剣技のみで雅臣を守ると誓っている。
やがて、呪術師が手をだらりと下ろした。
そろそろ限界ね、と呟く女に、火花は鋭い視線を向ける。
この女は、今まで出会った呪術師の中で最も強い魔力を持っている。彼女が限界と言うのなら、どうすればよいのだ。
「近いうちに、抑えきれなくなるわ」
女の声は確信めいていた。
「どうにもならない?」
弱々しい問いに、呪術師は曖昧に微笑むばかりで、答えない。落胆と焦燥が、胸の中を席巻した。
女は対象物の「色」を変える術の専門家……だと、そう名乗っている。
呪術師の名前も出自も知らないが、彼女の腕が確かだということだけは分かっていた。
この帝都の裏では、それだけで充分なのだ。
「……また来る。分かってると思うけど」
「他言無用ね。安心なさい、私は約束を守る女よ」
火花が取り出した札束を、女は優雅に受け取り、にっこりと笑んだ。
火花は何も言わず、手早くマントコートと帽子を身につけ、扉を開く。心地よい夜風が前髪を撫でた。
夜の帝都に戻った火花は、路地裏を足早に、音を立てて歩く。
濡れた石畳が月明かりを鈍く反射していた。
煤けた煉瓦塀には、剥がれかけた活動写真のポスターが何枚も貼られている。
「あっ……」
そんな路地から大通りに戻ってすぐ、火花は街灯の下に佇む人影にぶつかりそうになって、声をあげた。
急いで足を止め、目の前を見て、そして、息を呑む。
紫苑玲が、驚きに目を見開いてこちらを見ていた。
玲の瞳は、ガス灯の灯りを反射して紫水晶のように煌めいていた。その輝きに僅かな時間、魅入られた。
夜とはいえ、大通りの人通りは多い。
周りの喧騒をよそに、二人はただじっと視線を交わらせた。
お互いへの形容しがたい苛立ちを腹の底に潜ませながら、沈黙が続く。
どのくらい時間が経ったのかはわからない。
長かった静寂を破ったのは、意外なことに玲だった。
「紅の魔術を、まだ使わないつもりか」
静かな玲の言葉に、火花は目を丸くした。
思わず横にあった建物の窓ガラスを覗き込む。
そこに映る己の漆黒の瞳が、すでに紅くゆらめいているように見えた。
唇の端を、強く噛み締める。
「……知って、たの?」
「ああ」
澱みのない玲の肯定に、火花は視線を落とした。
暴かれていく己の秘密に、心臓の鼓動が大きくなっていく。
「安心しろ、誰にも話していない」
玲の言葉は強かった。
火花は予想外の言葉に再び玲を見上げ、ぽかんと数秒、彼の輪郭をぼんやり眺めていた。
そんな火花の姿が珍妙だったのだろう、玲も火花をじっと見て、そして、聞いてはいけなかったかと続けた。
「いや、驚いただけ」
火花は思わず破顔した。
玲から妙な気の使われ方をしたことで、緊張が溶けていく。
一つ大きな息を吐き、そして玲の輝く紫を見つめて、はっきりと声を紡いだ。
「使うつもりはないよ」
「……そうか」
玲の短い相槌に、不満と落胆と、なぜか怒りが滲んでいる。
「どうして、知ってたの?」
「打ち合った時、時折紅くなっていた」
そういえば、心を乱すと術が解けやすくなると呪術師が言っていた。
玲との手合わせ。心の平静などあろうはずも無いと、火花は苦笑を漏らす。
「それに、柿を爆発させてたろ」
確かに火花は、腹立たしい級友の直上にあった柿を、紅の魔術で爆破するという悪戯を行っていた。魔術の鍛錬を行っていない火花でも、小さなものを爆発させるくらいは造作もない。
「よく、分かったね」
火花はガラスに映る漆黒の瞳を眺めながら、玲に問うた。
再び沈黙が二人の間に落ちて、火花は一度瞳を閉じた。
そして瞳を意志を持って開き、目の前の男をしっかりと捉える。
この男は、これから紡ぐ言葉を予測しているだろう。
それでも、言っておかなければならない。
口を開きかけたところで、玲の言葉がまっすぐ、火花の鼓膜に届いた。
「誰にも言わない」
静かな声だった。そこに、嘲笑も侮蔑もない。
そのことに、火花は救われた気がした。
「……ありがとう」
玲の表情は変わらない。その無表情を、火花は信用した。
この男がいけすかないのは変わらない。
けれど、彼の無表情の奥にある温かいものに、火花は触れた気がした。
その温もりを、好ましいと思った。
「あんたは? 魔術を使わないの?」
こちらの秘密を明かしたのだ。
火花は疑問を玲にぶつけた。
彼の瞳の色と同じ、紫の魔術とは、どういった効果があるのだろう。
「お前には関係ない」
「……その言葉、好きなの?」
火花から視線を逸らして、つっけんどんに玲が答える。不遜な態度に腹も立ちつつ、聞いた覚えのある台詞に呆れてしまう。
「俺に勝ったら教えてもいい」
面倒そうに言う玲を見て、火花は額に青筋を浮かべた。
二人は卒業試験での再戦が決まっているのだ。
湧き上がる高揚感に、拳を力強く握り締める。
「このへそ曲がりの能面野郎。首を洗って待ってなよ」
「口が悪いな……本当に四華族か、お前?」
「人のこと言える言葉遣いなわけ? 王子様?」
直上のガス灯の灯りが、二人の影を優しく揺らめかせている。
震える闘争心が、火花の全身に血を巡らせ、体温を上げていく。目の前の男の表情は、いつもと変わらぬものだった。
けれど、その紫の瞳に己と同様の熱が宿っていくのを、火花は見逃さなかった。




