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紅華四季恋浪漫譚 蛍夏の章  作者: 浅葱ハル
第四章 大逆事件
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9・櫛と灰

 宵華宮(しょうかのみや)は、帝都の外れに小さな屋敷を構えていた。


 檜造りの平屋の奥にある、小さな畳敷きの居室。そこが彼の世界だった。

 床の間の掛け軸には、淡い色で描かれた一枝の桜が控えめに揺れ、隅にある素朴な香炉が白い煙をたなびかせていた。


 薄絹の障子の向こうは、夜の藍色が滲んでいる。

 床の間を背に、低い座卓を前にして、宵華宮は腰をおろしていた。彼の着こなす柄のない黒い和服が、横に置かれた行燈に照らされて橙に染まっている。



 座卓の上には、二つの書状。その横に螺鈿(らでん)の細工が施された桐箱がある。

 宵華宮はその桐箱を開け、その中から、一つの(くし)を取り出した。桜の模様の彫られた、繊細な細工のつげの櫛である。


「櫻子」


 呟きは、誰の耳にも届かない。

 この小さな櫛が、彼の持つ唯一の、最愛の彼女の形見だった。



「どうして、何も言わなかったんだ」


 宵華宮は恨んでいた。

 この帝国の、全てを。


 前皇帝の第一子として産まれ、皇帝になるべく、血の滲むような努力をした。



 ……無駄だった。

 ただ、紅い瞳ではないというだけで。



 帝位も、最愛の婚約者も――すベて、弟に奪われた。



「君は、すべて分かっていたのか」


 櫻子の嫁ぎ先が変わったと知らされた日。

 豪雨の中訪ねてきた彼女は、涙を溜めながら、一緒に逃げましょうと言ってくれた。


 あの時、彼女の手を取って、衝動のままに駆けてしまえば良かった。



 弟が、櫻子を想っていると気がついていた。

 彼女に、罪人としての生を強要したくなかった。

 だから、身を引いた。


 それなのに、弟は、皇帝は、櫻子を幸せにしてくれなかった。



 どうでもいい。

 櫻子がこの世を去った日から、この現世(うつしよ)の全てが、色を失っていた。


 全てを奪った紅い瞳の皇族が、狼狽する姿が一目だけでも見られれば、もうそれで良かった。





 ……あの日までは。


 藍川邸から鮮やかに逃走する、紅い瞳を燦々と輝かせ、炎の龍を従えた娘。


 そっくりだった。


 黒宮火花の、不遜なほどに苛烈な瞳は、初めて出会った日の櫻子を彷彿(ほうふつ)とさせた。

 不機嫌な声は、彼女が怒った時の声音だった。

 何より、自身の意志をはっきりと持った、あの芯の強さ。


「君と、私の娘だな」


 宵華宮は、己の声に驚いた。

 穏やかな音を、自身の喉はまだ覚えていたらしい。


 忌まわしい紅の瞳を発現した、紛れもない自分の娘。

 父である己の中に、紅の魔力は確かに在ったのだと証明されたことに、抑えがたい、仄暗い喜びが湧き上がった。同時に、なぜ己には発現してくれなかったのかと、ずっと鎮火しない憤怒と怨恨が、腹の底で滾っている。



 桜の彫られた櫛の先を、指先でなぞる。

 艶やかな感触が、宵華宮の心を慰めた。



 雅臣の産後、塞ぎ込む櫻子を見かねた黒宮椿が手引きして、禁忌と知りながらも引き合わせてくれたことを思い出す。

 彼女の静養する、皇族専用の洋館。春の終わり、帝都の外れにあったその一室に、密かに招かれた。

 細くなった身体と青白い表情を視界に入れた時の、後悔と怒りは、今でも鮮明に思い出せる。

 疲れ切り、年は取っても、変わらぬたおやかな笑みを櫻子は浮かべていた。


 その禁じられた逢瀬が、最愛の人を見た最後だった。




 宵華宮は、見慣れた庭へ目線を移す。


 苔むした庭石と白砂の枯山水。その奥で、闇夜に石灯籠が淡く光っている。

 池から跳ねた紅鯉が、微かな水音をたてた。



 宵華宮は視線を座卓に戻す。

 ふたつの書状。

 その一方を手に取って、彼は低い音を響かせた。



「誰かある」

 宵華宮の従者は、闇からするりと現れ、音もなく宵華宮の前に膝をついた。頭を垂れて、指示を求める。


「書状を雪哉へ届けよ」

「かしこまりました」


 従者は滑らかにその手紙を受け取り、部屋を出ていった。


 再び場に静寂が満ちる。

 宵華宮は、残ったもう片方の手紙を手に取った。


 行燈(あんどん)の火を、こともなげにその手紙に移す。

 たちまち炎が、手紙を包んでいく。緋色の柔らかな光が、宵華宮の意志を持った黒曜石の瞳に反射していた。


 掌中で、蘭の刻印のついたそれが灰と化していくのを、彼はいつまでも見守っていた。












 同時刻、火花と玲の暮らす隠れ家。

 就寝の準備をしていた二人は、格子窓の向こうでけたたましく鳴くカラスの声に気がついた。


 ここを開けろと言わんばかりの大きな鳴き声に、顔をしかめながらも火花はすぐに窓を開ける。


 羽を広げて堂々と火花の布団に着地したカラスは、二人に向かって足を見せつけた。

 その足には、文が結ばれている。


 雅臣からの親書だと気づいた火花は、すぐに結ばれた紐を解こうと飛びかかった。

 足を強く引っ張られたカラスが大きく抗議の声を上げるも、火花は意に返さない。


 布団の上で怒り、激しく羽毛を散らすカラスを尻目に、二人は文を広げた。



「これは……」


 玲が呟く。

 雅臣の字で、『時が満ちた。帝都に帰還せよ』と綴られていた。

 そしてその下には、別の人物の文字で、これからの計画が驚くほど細かく記されている。


「雪哉様、だと思う」

 帝国の皇太子の、流麗な筆跡だ。


 皇太子の計画を全て読み終わった後、火花と玲は思わず、顔を見合わせた。


こちらで第4章終幕です。

次回より、第5章となります。終章を除きますと、最終章となります。

最後まで見守っていただけますと幸いです。


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