8・火花と玲
火花が隠れ家に戻ってしばらくすると、細い雨が降り始めた。
夏のぬるい温度の風に乗り、雨に巻き上げられた草の青い香りが、格子窓から入り込んでくる。
柔らかな雨音が室内に満ちる中、火花と玲は寝間着に着替えて、布団に横になっていた。
ポタリ、と雨漏りが水溜まりを作る音が、土間の方から聞こえる。
火花は漠然と瞳を開いたまま、汚れた天井を見上げていた。
眠気が、訪れない。
「ねえ」
火花は頭を傾けて、隣の布団へ視線を向けた。
雨中でも鈍い光を届ける月明かりのおかげで、玲の顔が薄ぼんやりと見える。
「……どうした?」
玲も目を開けたまま、仰向けで天井を見上げている。彼の白い喉が、わずかに上下した。
雨音と混ざる玲の低い声が、心地よい。
「眠れないや」
火花はそのまま身体を布団の上で転がして、うつ伏せになり、頬杖をついた。
「話に付き合ってよ」
玲をじっと見つめたまま悪戯っぽくそう言うと、彼の瞳が動き、視線が絡んだ。
彼は何も言わないが、咎めるつもりもないらしい。
了承と受け取った火花は、口の端を緩めて呟いた。
「あの人ね、私の実父なんだって」
「…………は?」
あまりの火花の軽い言い草に、玲は理解が追いついていないらしい。
途端に紫の瞳を見開いた玲は、眠気を飛ばしたようだった。
「じゃあ、お前」
「うん。本当に皇族だった」
火花は思わず苦笑を漏らした。
笑わずにはいられなかった。
実感がまるでないのに、言葉だけ受け取ると、とんでもないことのように聞こえる。
「でも、あんたの言う通り。何も変わらなかったなあ」
腕を伸ばせば届く距離にいる玲に、火花は屈託のない笑みを向けた。
予想していたとはいえ、驚くほど心情の変化がない己に、ひどく安堵を覚える。
玲は何も言わない。そのいつも通りの無口が、火花の心を穏やかにさせた。
「玲のお父さんとお母さんはどんな人なの?」
凪いだ瞳で質問をする火花に、玲は目を丸くして、そして微かに笑った。
「あんたみたいな仏頂面?」
からかい混じりの火花の声。玲は身体を布団に預けたまま、再び天井を見つめた。
「父は……まあ確かに、無口だった。何を考えているか分からない所もあった」
「そっくりじゃない」
火花は唇を震わせる。玲の気質は父親由来らしいと分かって、かつての紫雲国の王を身近に感じた。
「母は口うるさいな。いつも俺のすることに文句を垂れている」
「ふふ。どこの母も同じだね」
火花の母、黒宮椿は、火花を厳しく教育した。母との思い出が火花の脳裏に蘇り、懐かしさに胸が熱くなる。
そこで、二人の間の言葉が途切れる。
暑い夏の慈雨の音が、夜更けの寝屋に染み入っていた。
一度火花は、瞳を閉じる。
「なあ、火花」
「ん?」
玲の声に、再び火花は瞳を開く。
「その簪、まだ使うつもりなのか」
玲の視線は、いつの間にか火花の枕元に置いてある、蛍の簪へ向かっていた。
蛍の琥珀は月明かりを受けて、透明感を帯びた輝きを放っている。
芯の黒鉄は、中央部分で僅かに傾き、真っ直ぐとは言えない状態だった。
「うん」
「曲がってるだろ」
玲は顔を火花へ向けて、戸惑い混じりに告げた。
「これでも頑張って直したんだよ」
自分が不器用なことは自覚している。それでも、出来うる限り真っ直ぐに戻そうとしたのだ。
おかげで問題なく髪を纏めることが出来ている。
この簪を使わない選択肢は、今の火花には無かった。
玲の瞳が、静かに火花を射抜く。
決意と、不思議な熱の籠った紫の視線に、火花は一瞬、硬直した。
「新しいのを贈る」
いらない、と、火花は言えなかった。
あまりに強い彼の意思に、気圧された。
「……もっと、芯の強いやつね」
なぜか切なく胸の詰まる感覚に、火花は困惑する。戸惑いを誤魔化すように、小さく笑ってそう言った。
「誰かの手を突き刺しても、曲がらないくらいのやつにする」
大真面目な玲の言い草に、火花は噴き出す。
「これ以上のあるかなあ」
その呟きに、玲は返事をしなかった。
火花は、こちらを見る玲の瞳をじっと見据えた。
紫水晶みたいに澄んだそれが、とても美しい。
その奥に滾る熱に、触れてみたい。彼の背中に頬を寄せて、温もりを感じたいと思う。
「(変なの)」
言ったら笑われるだけと思い、火花は口を噤んだ。
玲の左頬には、青痣がある。火花が蛍の森で殴った痕跡だ。
火花はうつ伏せのまま、左手をゆっくり、玲の頬に添えた。
彼の頬は温かく、少しだけざらついている。ふわふわとする玲の柔らかい髪の先が、火花の指先をくすぐった。
「……痛かった?」
「かなりな」
玲の低く、とろりとした呟きが、火花の胸を締め付け、じんわりと火照るような熱を持たせる。
玲は頬を触る火花の左手に、自身の右手を添えた。刀を振るい続けた者達の、硬い手のひら。
温度が籠る。互いの合間で生まれるその温もりを、火花は心地良く思った。
雨漏りの音と、二人の息遣いだけが夏の空気に溶けている。
しばらく沈黙が落ちて、玲の手はゆっくり、火花の手の甲をかすかに撫でて、離れていった。
火花も、玲の頬から手を離す。
「眠れるか?」
「……わからない」
火花も玲も、はっきりと分かっている。
このあまりにも穏やかで、愛おしく、ぬくもりに満ちた日々――その終焉が近いことを。




