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紅華四季恋浪漫譚 蛍夏の章  作者: 浅葱ハル
第四章 大逆事件
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7・父と宵闇

「あの子は、いるか」


 地を這う重い声に、玲だけでなく、火花も身体の動きを止めた。


 玲は俊敏に土間から部屋へとって返す。そして二人は顔を見合わせ、素早く室内に置いてあった各々の刀を手に取った。


 いつでも抜刀できるよう手を添えて、戸口を睨みつけていると、建て付けの悪い扉が音を立てて開かれる。


 宵華宮が、無遠慮にゆっくりと室内へ足を踏み入れた。土間の土を踏みしめる乾いた音が、二人の鼓膜を刺激していく。


 しかし、不思議なことに足音は一つだけ。

 彼が連れているはずの兵の音は、何一つとして聞こえなかった。



「軍はいない。私一人だ」


 宵華宮は、黒のフェドラハットを静かに脱帽して、その下の漆黒の瞳を現した。

 困惑した表情の中に、怒りと警戒心を滲ませる火花を、宵華宮は感情を見せずにじっと見つめている。


「黒宮火花」

「……なんでしょう」

「少し、話せるか」


 宵華宮は、皺の刻まれた顔で淡々とそう言った。

 その冷たい声音の中に、僅かな怯えと、懇願が滲んでいるような、そんな気がした。


「……わかりました」

「おい」

「大丈夫。宵華宮さま、外に出ます。それから彼に、近いところに控えていて貰います。……それでも、よろしいですか」

「かまわない」


 火花は警戒を解かないまま、妥協案を示した。

 つい先日、玲の命を狙った相手だ。刀は手放せない。


 けれど、この隠れ家に護衛もつけず、身一つでやってきた。その真意が、分からない。

 ただ、不思議なほど敵意を見せない宵華宮の瞳に、毒気を抜かれたのも事実だった。


 宵華宮は再びハットを被ると、磨かれた革靴を鳴らして隠れ家から出ていく。

 上質なグレーのスーツが、彼の優雅な立ち振る舞いに華を添えていた。


「もしかしたら……本当に、話をしに来ただけ?」


 火花の呟きに、玲は眉間に皺を寄せた。


「後で詳しく話すね。行ってくる」

「気をつけろ」

「見ててくれる?」

「当たり前だ」


 玲の口調は強かった。心配を表情に明確に映す彼に、火花は柔らかく口の端を緩めた。



 火花が外へ出ると、夏の虫の声は一層うるさくなった。どこかで梟も鳴いている。

 宵闇の空の下でも、黒い彼の影は不思議と輪郭がはっきりしていた。





 火花は宵華宮の背を追った。


 すぐ近くの森の中で、彼は足を止める。

 葉を騒めかせる木々に囲まれ、足首まである下草が、火花の体重をふわりと受け止めた。


 背後から玲の気配がする。声は聞こえない距離だろうが、しっかり見守ってくれていることを確認して、火花は宵華宮へ警戒を解かぬまま、声をかけた。



「それで、お話とは何ですか」


 宵華宮が振り返る。

 闇に染まった瞳が、月の光を受けて、少しだけ祓われたように輝きを放っていた。

 わずかな間、沈黙が落ちる。彼は無表情のまま、息を吸った。



「櫻子を、前皇后を知っているか」


 はっきりとした声。けれど、その音に、男の積年の想いが募っていた。


「母の主だったことだけ。それ以外は存じません」


 火花は宵華宮の漆黒を眺めながら、突き放すように言った。

 今、この男の瞳に映っているのが――自分なのか、それとも産みの母だという櫻子なのか。

 わからない。そのことが、どうでも良いはずなのに――妙に、気にかかった。


「そうか」

 落胆とも取れる吐息を、宵華宮はこぼす。


「お前にそっくりだ」

 鈍い月の光を背に、宵華宮の輪郭がぼんやりと浮かぶ。

 ぬるい夜の風が、親子の間を通り抜けた。


「四華族会議で、皇族にならぬと宣言したそうだな」

「はい」

「なぜだ?」


 火花は苦笑を漏らした。分かりきったことを聞く目の前の男に、強い意志を叩きつける。


「私は、黒宮火花だから」

 火花の惑いのない声に、宵華宮は目線を逸らさない。


「黒宮として生き、やがて死ぬ。それが私の望みだから」


 左手に携えていた愛刀を、火花は力強く握り直した。

 手に馴染む。そこにあるのが当たり前の感覚。

 この刀を手放す日は、きっと永遠に来ない。


「紅い瞳である以上、お前には皇家の血を継ぐ資格がある。それをみすみす手放すのか」


 男の黒い瞳が、はじめて揺れる。


 宵華宮は、皇帝である弟より器量もよく、人望もあり、武芸にも長けていた。

 それでも、紅の瞳だけが足りなかった。


 火花は、宵華宮が唇を震わせたのを見た。

 彼に皇族への並々ならぬ思いがあることは、簡単に予想がつく。






 でも、そんなの、知ったこっちゃない。




「皇族は、苦しい。それを私は間近で見てきたのです」


 火花は、雅臣のことを思い出す。

 皇帝の器がそのまま具現化したような雪哉の背を見ながら――それでも、皇族としての役目を果たそうと、死に物狂いで努力する主人の姿を、幼い頃からずっと見てきたのだ。


「殿下がもし、私が妹になることで救われるなら、それも良いかもしれませんが」


 火花は言いながら、あまりの己の滑稽な考えに苦笑いを漏らす。


「殿下はそんなこと、絶対に望んでない」


 言い切れた。

 雅臣がそれを考えたことすらないと、断言できる。



 再び、二人の間に沈黙が落ちる。

 足元の青い草の香りが、火花の喉元まで満ちていた。



 月が雲に翳る。

 宵華宮の瞳が影に沈んだ時、彼は言った。


「お前が皇族になると言えば、紫苑玲を見逃すとしたら?」

「は?」


 火花の喉から、すっとんきょうな声が出る。

 一拍置いて、馬鹿にされたような心地になった火花は、爪が掌に食い込むほど、右手を強く握った。


「どちらも嫌」

「あの男は、お前が身を挺して護るほどの男か?」

「あなたに関係ないでしょう」


 火花が吐き捨てると、宵華宮はもう何も言わなかった。雲が風に流され、冴え冴えとした月光が場に戻る。



 言葉もなく、ただごくわずかな情を孕んだ目線を送る宵華宮に、火花は疑問を投げかけた。


「あなたはなぜ、ここにいらしたのですか」

「お前と話をしに来たのだ」


 落ち着いた声が響く。その音に、彼らしからぬ温度が灯っている気がした。


「無駄足でしたね」

「いいや。とても、良い夜だった」


 そこで初めて、宵華宮は唇の端を緩めた。

 表情の変化に気がついて、火花は小さく動揺する。


「……似ている」

「どうでもいいことです」


 ぞんざいな言い方をする火花に、宵華宮は笑みを深めた。

 そんな男の様子を、火花は不愉快に感じる。


「その言い草も、そっくりだ」


 この男は、己を通して、母を見ている。

 予測が確信に変化して、それがなぜか火花を一層不機嫌にさせた。


 未来しか見ようとしない火花の紅と、過去に囚われた宵華宮の漆黒。

 二人の視線は交わらず、すり抜けて、夏の宵闇に溶けていく。


「雪哉と取引してここを教えてもらった。代わりに、お前と紫苑玲に手は出さないと固く約束している。蘭子に告げ口するつもりもない」


 宵華宮は、再び無感情に告げた。

 その重厚な声は森に広がり、夏の虫の音に混ざっていく。


「夜が更ける。……心配せず、よく眠れ」


 そう言って、男は火花を置いて歩き出す。

 背筋を伸ばして優雅に歩く彼の姿には、皇族の血が滲んでいた。



 火花はその背中を、見えなくなるまでじっと睨み続けた。



 男のことを、父だとは、呼びたくなかった。


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