7・父と宵闇
「あの子は、いるか」
地を這う重い声に、玲だけでなく、火花も身体の動きを止めた。
玲は俊敏に土間から部屋へとって返す。そして二人は顔を見合わせ、素早く室内に置いてあった各々の刀を手に取った。
いつでも抜刀できるよう手を添えて、戸口を睨みつけていると、建て付けの悪い扉が音を立てて開かれる。
宵華宮が、無遠慮にゆっくりと室内へ足を踏み入れた。土間の土を踏みしめる乾いた音が、二人の鼓膜を刺激していく。
しかし、不思議なことに足音は一つだけ。
彼が連れているはずの兵の音は、何一つとして聞こえなかった。
「軍はいない。私一人だ」
宵華宮は、黒のフェドラハットを静かに脱帽して、その下の漆黒の瞳を現した。
困惑した表情の中に、怒りと警戒心を滲ませる火花を、宵華宮は感情を見せずにじっと見つめている。
「黒宮火花」
「……なんでしょう」
「少し、話せるか」
宵華宮は、皺の刻まれた顔で淡々とそう言った。
その冷たい声音の中に、僅かな怯えと、懇願が滲んでいるような、そんな気がした。
「……わかりました」
「おい」
「大丈夫。宵華宮さま、外に出ます。それから彼に、近いところに控えていて貰います。……それでも、よろしいですか」
「かまわない」
火花は警戒を解かないまま、妥協案を示した。
つい先日、玲の命を狙った相手だ。刀は手放せない。
けれど、この隠れ家に護衛もつけず、身一つでやってきた。その真意が、分からない。
ただ、不思議なほど敵意を見せない宵華宮の瞳に、毒気を抜かれたのも事実だった。
宵華宮は再びハットを被ると、磨かれた革靴を鳴らして隠れ家から出ていく。
上質なグレーのスーツが、彼の優雅な立ち振る舞いに華を添えていた。
「もしかしたら……本当に、話をしに来ただけ?」
火花の呟きに、玲は眉間に皺を寄せた。
「後で詳しく話すね。行ってくる」
「気をつけろ」
「見ててくれる?」
「当たり前だ」
玲の口調は強かった。心配を表情に明確に映す彼に、火花は柔らかく口の端を緩めた。
火花が外へ出ると、夏の虫の声は一層うるさくなった。どこかで梟も鳴いている。
宵闇の空の下でも、黒い彼の影は不思議と輪郭がはっきりしていた。
火花は宵華宮の背を追った。
すぐ近くの森の中で、彼は足を止める。
葉を騒めかせる木々に囲まれ、足首まである下草が、火花の体重をふわりと受け止めた。
背後から玲の気配がする。声は聞こえない距離だろうが、しっかり見守ってくれていることを確認して、火花は宵華宮へ警戒を解かぬまま、声をかけた。
「それで、お話とは何ですか」
宵華宮が振り返る。
闇に染まった瞳が、月の光を受けて、少しだけ祓われたように輝きを放っていた。
わずかな間、沈黙が落ちる。彼は無表情のまま、息を吸った。
「櫻子を、前皇后を知っているか」
はっきりとした声。けれど、その音に、男の積年の想いが募っていた。
「母の主だったことだけ。それ以外は存じません」
火花は宵華宮の漆黒を眺めながら、突き放すように言った。
今、この男の瞳に映っているのが――自分なのか、それとも産みの母だという櫻子なのか。
わからない。そのことが、どうでも良いはずなのに――妙に、気にかかった。
「そうか」
落胆とも取れる吐息を、宵華宮はこぼす。
「お前にそっくりだ」
鈍い月の光を背に、宵華宮の輪郭がぼんやりと浮かぶ。
ぬるい夜の風が、親子の間を通り抜けた。
「四華族会議で、皇族にならぬと宣言したそうだな」
「はい」
「なぜだ?」
火花は苦笑を漏らした。分かりきったことを聞く目の前の男に、強い意志を叩きつける。
「私は、黒宮火花だから」
火花の惑いのない声に、宵華宮は目線を逸らさない。
「黒宮として生き、やがて死ぬ。それが私の望みだから」
左手に携えていた愛刀を、火花は力強く握り直した。
手に馴染む。そこにあるのが当たり前の感覚。
この刀を手放す日は、きっと永遠に来ない。
「紅い瞳である以上、お前には皇家の血を継ぐ資格がある。それをみすみす手放すのか」
男の黒い瞳が、はじめて揺れる。
宵華宮は、皇帝である弟より器量もよく、人望もあり、武芸にも長けていた。
それでも、紅の瞳だけが足りなかった。
火花は、宵華宮が唇を震わせたのを見た。
彼に皇族への並々ならぬ思いがあることは、簡単に予想がつく。
でも、そんなの、知ったこっちゃない。
「皇族は、苦しい。それを私は間近で見てきたのです」
火花は、雅臣のことを思い出す。
皇帝の器がそのまま具現化したような雪哉の背を見ながら――それでも、皇族としての役目を果たそうと、死に物狂いで努力する主人の姿を、幼い頃からずっと見てきたのだ。
「殿下がもし、私が妹になることで救われるなら、それも良いかもしれませんが」
火花は言いながら、あまりの己の滑稽な考えに苦笑いを漏らす。
「殿下はそんなこと、絶対に望んでない」
言い切れた。
雅臣がそれを考えたことすらないと、断言できる。
再び、二人の間に沈黙が落ちる。
足元の青い草の香りが、火花の喉元まで満ちていた。
月が雲に翳る。
宵華宮の瞳が影に沈んだ時、彼は言った。
「お前が皇族になると言えば、紫苑玲を見逃すとしたら?」
「は?」
火花の喉から、すっとんきょうな声が出る。
一拍置いて、馬鹿にされたような心地になった火花は、爪が掌に食い込むほど、右手を強く握った。
「どちらも嫌」
「あの男は、お前が身を挺して護るほどの男か?」
「あなたに関係ないでしょう」
火花が吐き捨てると、宵華宮はもう何も言わなかった。雲が風に流され、冴え冴えとした月光が場に戻る。
言葉もなく、ただごくわずかな情を孕んだ目線を送る宵華宮に、火花は疑問を投げかけた。
「あなたはなぜ、ここにいらしたのですか」
「お前と話をしに来たのだ」
落ち着いた声が響く。その音に、彼らしからぬ温度が灯っている気がした。
「無駄足でしたね」
「いいや。とても、良い夜だった」
そこで初めて、宵華宮は唇の端を緩めた。
表情の変化に気がついて、火花は小さく動揺する。
「……似ている」
「どうでもいいことです」
ぞんざいな言い方をする火花に、宵華宮は笑みを深めた。
そんな男の様子を、火花は不愉快に感じる。
「その言い草も、そっくりだ」
この男は、己を通して、母を見ている。
予測が確信に変化して、それがなぜか火花を一層不機嫌にさせた。
未来しか見ようとしない火花の紅と、過去に囚われた宵華宮の漆黒。
二人の視線は交わらず、すり抜けて、夏の宵闇に溶けていく。
「雪哉と取引してここを教えてもらった。代わりに、お前と紫苑玲に手は出さないと固く約束している。蘭子に告げ口するつもりもない」
宵華宮は、再び無感情に告げた。
その重厚な声は森に広がり、夏の虫の音に混ざっていく。
「夜が更ける。……心配せず、よく眠れ」
そう言って、男は火花を置いて歩き出す。
背筋を伸ばして優雅に歩く彼の姿には、皇族の血が滲んでいた。
火花はその背中を、見えなくなるまでじっと睨み続けた。
男のことを、父だとは、呼びたくなかった。




