6・安穏と不穏
蛍の森からさらに奥地の、人里から遠い森の中。
名もなきその森の中に、ぽつりと一つ小屋があった。
こじんまりとはしているものの、二人で暮らすには充分な大きさの隠れ家には、食料に衣服、釣り竿や斧などの道具も揃い、離れには厩舎まで建てられている。
近くには川が流れ、周囲には動物も豊かに暮らしていた。
――そんな環境で、二人が暮らし始めて、五日が経つ。
さて、昼時。
夏の太陽は、相変わらず暴力的である。
汗まみれの玲は周囲の森で薪を集め終え、それを持ち帰ろうと家の戸を力なく開けた。
――瞬間。
目の前に広がる光景に、硬直する。
「……何をしてる?」
土間が広がっている。
充満する生臭い匂いに混じった鉄の香りに、玲は思わず顔をしかめた。
そこに居たのは、道着姿で髪を振り乱した火花だった。
なぜか、足元に置いてある木桶を睨みつけたまま、えいやっと愛刀を振りかぶっている。
「あ。おかえり、玲」
「おい、何をしていた」
玲は努めて冷静に言った。
嫌な予感はするが、聞かずにはいられなかった。
「……賊にでも襲われたのか?」
土間を見渡せば、木桶やまな板の辺り一帯に血痕が飛び散っている。
火花の頬や服にも付着していた。
「魚を捌いてた」
玲は、緩慢な動きで天井を見上げた。言わずもがな、現実逃避である。
玲はこの五日、火花に振り回されっぱなしだった。
「で、魚は?」
「……いるよ、ここに」
火花が自信なさげに、木桶を指差した。玲が覗き込めば、水を張ったその中に、魚だったと思われる細々とした肉片がぷかぷかと浮いている。
「……どこを食えと?」
火花は玲から視線を逸らした。
玲は無言で鼻から息を吐く。
魚の調理に失敗したという自覚は、一応はあるようだ。じとりと玲は、火花の顔を追いかける。
「包丁はどこへやった」
「間合いが計りにくいんだもの」
「なぜ間合いという単語が出てくる」
高温の外気での労働を終え、玲の空腹は限界だ。昼餉の準備は任せてと意気込む彼女を信用した、過去の己を玲は呪った。
この女に、できるはずもなかったのだ。
二人きりでの生活が始まってから、火花は掃除も炊事も洗濯も、何一つまともにできていない。唯一役に立ったのは、森で兎を狩ったことくらいだ。
彼女の生活能力の著しい欠如を見せつけられ、呆れを通り越し、玲が放心した回数は両手で足りない。
こんなところで、火花から華族らしさを感じる日が来ようとは。
全く予想の範囲外だった。
「だって、魚が暴れるから……!」
火花は肩を落として、言い訳を始めた。
ばつが悪そうに視線を玲に向ける彼女は、いつもより小さく見える。
玲には、火花なりに、薪集めに出かける己のためを思い昼食を作ろうと奮闘したことは分かっていた。
しかしあまりの空腹のせいで、火花を慰める大きな器量はもう残っていない。
「昨日作った味噌汁が残ってただろ」
「……ごめん」
もちろんその味噌汁を作ったのは玲である。
申し訳なさに謝罪をこぼす火花の肩を、玲はぽんと叩いた。
この隠れ家にたどり着いた、五日前。
蛍の森で背中合わせに眠った二人は、明朝、カラスのけたたましい鳴き声に起床を余儀なくされた。
頭上を旋回するカラスの足に文が結ばれていることに、いち早く気がついたのは火花だった。
足元へ降り立ったカラスから文を素早く取り外し、それを開くと、雅臣の筆跡でびっしりと、現状の報告とこれからの指示が記されていた。
『紫苑の臣下、および母は保護している。安心されたし。藍川が血眼になってお前達を探している。よって、しばらく帝都を離れ、時を待て。
人里離れた森の中に隠れ家を用意した。この手紙を持つカラスについていけ』
読み終わった二人はすぐに立ち上がった。手紙の指示に従い、やたらと不機嫌に鳴くカラスに導かれるがまま、馬と共に数刻歩いて、到着したのがこの小さな隠れ家であった。
「そうだ」
「ん?」
味噌汁を温め、二人はそれを啜って腹を満たした。
具は男爵芋と葱。小屋の中に置いてあった袋に入っていたものだ。
雅臣が気を利かせて、用意してくれていたのだろう。細やかな気遣いのできる火花の主人に、玲は感謝の念が絶えない。
「猪を見かけた。明日狩りにいくか」
「行く! 狩りなら私もできる」
目を輝かせる火花に、玲は口元を緩めた。
家事と言われるものを全て玲がこなしているせいで、火花は毎日ひたすら鍛錬しかしていない。
それを彼女が気に病んでいることを、玲は感じ取っていた。
味噌の残り香と屈託のない火花の笑顔に、腹の底がじんわりと温まっていく。
雅臣の手紙が母と臣下の無事を伝えてくれたとはいえ、玲が今、逆賊の身分であることは変わらない。この安穏が仮初のものだと、玲ははっきりと自覚していた。
未来の予想は闇に覆われていて、時折息をするのも辛くなる。
それでも、絶望に身が浸かりそうな時――隣の彼女の豊かな表情を見るたびに、生を実感できた。
「ねえ。あんた王子なんだよね」
心底訝しげに、火花は玲の顔を覗き込んだ。
「なぜそんなに、料理やら洗濯やらまでできるの?」
華族と同じく、王子なら家事の機会に恵まれていないはずだろうとその顔に書いてある。
自身との差を、火花は気にしているらしかった。
「紫雲国からこの国に来るまでに、それなりに苦労したんだ」
玲はかつて、紫雲国からほとんど身ひとつで逃げ出した。
不安に震える母を励ましながら、父の友人でもあったこの帝国の皇太子を頼りにして、紅華帝国に命からがら亡命した。その道中、臣下たちから様々なことを学んだ。
「俺も最初は何もできなかった」
足手纏いを自覚しながら、それでも何か動いていたくてたまらなかった。身体を動かしていなければ、黒い闇に呑まれてしまいそうだったから。
懐かしさに思いを馳せていると、火花の紅い燦々とした瞳がこちらを射抜いていることに気がついた。
火花と出会わなければ、今、自分は――
闇に足を取られ、そのまま沈んで、死んだように、生きていたかもしれない。
「……流石に、お前ほど壊滅的じゃなかったが」
「一言余計じゃない?」
火花は顔を玲から背け、視線を彷徨わせた。
数秒のうちに何か思いついたらしく、再び玲を見据えて、強い口調で告げる。
「見てなよ、立派な料理を作って見返してやる」
「貴重な食材が無駄になる。やめろ」
今日魚を血祭りにあげたところを見る限り、火花に期待するだけ無駄だ。
はっきり結論付けた玲に、火花は不満そうに頬を膨らませた。
火花を、逆賊に堕とした。
その負い目が、玲の喉元を強く締め付ける。
同時に、どうしても拭えない仄暗い悦びが、玲の腹の中で疼いていた。
彼女は全てを捨てて、共闘を選んでくれた。
その苛烈な意志に、きっと報いなければならない。
玲は、膨らんだ火花の頬をじっと見る。
藍川邸で受けた暴行の痕が消えるには、もう少し時間がかかりそうだ。
西の端に陽が沈み、辺りが宵闇に染まっていく。
森の中の隠れ家には、夏の虫の音が充満し、時折獣たちの鳴き声が響いた。
寝支度を整えた火花が昼の詫びのつもりか、玲の分まで布団を敷き始めたことに、玲は気がついた。
布団を敷くくらいは失敗のしようもなかろうと、素直に火花に任せることにした玲は、彼女を横目に土間へ足を踏み入れる。
甕に汲んでおいた水を掬い、それを口にしたところで、玲は胸騒ぎを覚えた。
戸口から、妙な気配がした。
敵意を感じるものではないが、好意的なものでもない、不可思議な|靄《
もや》を纏ったなにか。
自身の勘を信用している玲は、すぐさま息を潜めて、戸ににじり寄る。
戸を指の先でほんの僅かに開け、外の様子を窺った。
「っ……!」
玲は、驚きに目を見張り、声を漏らした。
グレーの細身のスーツ。品の良い、フェドラハットを被った壮年の男。
息を呑むほど静かな夕闇の中で、その姿だけが不自然に浮かび上がっている。
宵華宮が、ひとり、そこに立っていた。




