5・蛍の森の背の君へ
火花と玲は、ひたすら、目的地もなく東へ進んだ。
駆けて、駆けて、やがて陽が西に沈み、世界が藍色に染まる。
通りかかった小さな森の中で二人はやっと、馬を降りた。
無理をさせてしまった自覚があったので、火花は労をねぎらうように優しく黒毛の馬の頬を撫でる。しかし、馬は怒っているのか大きく鼻を鳴らしてそっぽを向いた。
火花と玲の間に言葉はなく、そのまま少し進むと、小さな清流が現れた。
二頭の馬は待ってましたとばかり、勇み足で川に口を突っ込んで、とてもそこから離れる様子はない。
馬の手綱を離した火花は、川のせせらぎと虫の音に耳を澄ませ、周囲を見回した。
青々とした夏の木々の下には草木が生い茂り、人気はまるでない。水辺には苔が生え、どこか爽やかな香りがした。ゆったり流れる水の音は心地良く、疲れきった鼓膜に沁み入る。
火花は、川の水を飲もうと屈んだ。
もう暗いので分かりにくいが、血と土で汚れた顔が水面に映る。
少しだけ冷たい水を掬い、幾度か洗い流すと、さっぱりした気分は得られるものの、まだ、足りない。
堪えきれない怒りと悲しみの澱が、火花の中でぐちゃぐちゃに混ざったまま、胸の奥で暴れ狂っている。
無言のまま、ひたすら顔を洗う火花を見て、玲は立ち尽くしながら、深く息を吸って言った。
「怒ってるよな」
玲の呟きが、ぽつりと空間に広がる。
頭上から、カラスの間の抜けた鳴き声が降った。
「うん」
火花は振り返って立ち上がり、濡れた顔を袖で乱雑に拭きながら肯定した。
玲は血と泥を被ったまま、火花を真正面から見つめていた。
いつもの無表情は崩れ、微かに口角を上げている。火花には、玲が泣いているようにしか見えなかった。
火花はそんな玲の姿が、心の底から、今までで最も、気に食わなかった。
衝動的に口を強く引き結び、奥歯が噛み合って音を立てる。
火花は右の拳を固く握り、玲へ歩み寄った。
勢いのまま、玲の横っ面を思いっきり殴りつける。
玲はよろめく。
膝をついて、視線を火花から逸らした。
ぬるい風が、二人の間を吹き抜けていく。
「怖いんだ」
溢れた玲の声は、消え入りそうだった。
「国を滅ぼした役立たずの王子の俺に、ついて来た臣下がいる。俺のせいで死んだ忠臣も、たくさんいる」
自嘲が混じった玲の告白を、火花は黙って聞いていた。
殴りつけた右手の痛みが、なぜだかじんわりと温かく感じる。
「あいつらの期待に応えられなかったら、どうしたらいい」
玲は力なく立ち上がり、火花の視線を正面から受けた。
紫の瞳が、空の藍色を吸って濁っている。
「あの時俺は何も出来なかった。そんな俺に、今更何ができる?」
焦燥の混ざった声が、虫の音に溶けていく。
「せめて、誇りある死を迎えたい」
火花には、玲の最奥にある闇が聴こえた。
その黒い願いが、どうしても、火花は許せない。
「死んだら、それで終わり」
火花は吐き捨てた。それが火花が持っていた、明瞭な答えだった。
「お願いだから、勝手に死のうとしないで」
願望と憤怒を込めた言葉は、清らかな川の音に包まれていく。
目の前で、大切な人が満ち足りて、死んでいく。
それだけは、もう、懲り懲りだった。
「死にたいって泣くなら、――私が」
音が、ふっと、二人の世界から消えた。
唐突に、火花は玲を力強く突き飛ばし、苔の絨毯の上に押し倒した。
目を見開く玲の上に跨って、黒髪から引き抜いたのは、少し芯の曲がった蛍の簪。
それを、鋭く玲の白い喉に突きつけた。
「――私が、殺してあげる」
声が、無様に震えている。
簪を支える腕も、小さく震動していた。
血で固まった火花の黒髪が簪の支えを失って、彼女の顔に纏わりつく。
時間が止まる。
紅と紫が真正面から交錯して、どれくらいの時が経ったのか、二人にはわからない。
玲が目を柔く細める。火花が強く、でも危うく握る簪をふわりと掴んで、そのままそれを優しく奪っていった。
「悪かった」
玲の謝罪は澄んでいた。
もうあの煮詰めた闇は、玲の瞳から嘘のように消えている。
「すまない」
今一度、玲が言う。
玲が体を起こしても、火花は玲の上から移動はするものの、苔の上に座り込んで俯いたまま。
木々の隙間から覗く空が、藍から漆黒へと変わりゆく。
夜を察知したのか、川の側の草に潜んでいたのだろう、蛍が一匹、ひらりと舞い飛んだ。
初めは一つ、二つと数えられる程だった光は、いつの間にか、無数の粒となる。
冴えた月光のような色の中に、翡翠の緑が滲む、自然が成す命の灯火。数多のそれが、火花と玲を囲むように、ほのかに、優しく照らしだした。
玲は座り込んだままの火花の丸い背に、自らの背を合わせて座り直した。
生を感じさせる熱が、火花の胸を芯から温めていく。
「火花」
玲の声は、柔く、温かい。
蛍が瞬く。命の燃える、華麗で耽美な輝き。
「いつか、一緒に死んでくれるか」
掌中の、火花の簪を見つめながら玲は語りかけた。
わずかに曲がったままの簪の琥珀が、蛍の灯火を受けて、幻想的に浮かび上がっている。
「なにそれ」
舞い飛ぶ光の粒子を眺めながら、火花は乾いた喉でカラカラと笑った。
「でも、いつか死ぬときは――こうしていたい」
触れる背中が、心地良い。
玲に対する感情の名が、火花には分からない。
それで良かった。名を付けることに、意味がないと思った。
それからの二人の間に、言葉はない。
火花と玲は、漂う優美で儚い灯の下、沈黙を共有した。いつまでも互いの温度に身を任せ、夏の香りに包まれながら、現世と夢の世界の狭間を揺蕩う。
二人はやがて、ゆっくりと、夜の底へ沈んでいった。




