4・王子と龍
空は嫌味なほど、青く澄んで晴れ渡っていた。
玲は、右手に血濡れの刀を携えたまま、肩で息をしている。
刀を握る手袋が、血と汗でひどく濡れていた。遠くで、兵の怒号と鉄の衝突音が絶え間なく響いている。
目の前には、一様に黒い装束を着た帝国軍が、数えるのも嫌になるほど蠢いていた。
玲たちの住む洋館は、すっかり兵に取り囲まれていた。
玲を捕える軍が向かっているという急報に、館の全員で逃げる時間はなく、侍女達と母、それを護衛する兵達を逃がすことが玲の精一杯だった。
館に残った玲と数人の護衛は、狭い中庭で軍を迎え撃った。
護衛たちはいずれも、玲を慕って紫雲国から紅華帝国まで帯同した忠臣たちである。
「くそ……!」
斬っても斬っても、敵の数に底が見えない。
生き残っている護衛たちの数も、視界の範囲で数えられる程になってしまった。
「どうか、お逃げください!」
近くで敵と肉薄する護衛の一人が、息も絶え絶えに言う。
「お前達を見捨てて、逃げることなど出来ない!」
目の前の敵を袈裟斬りにしながら、玲は怒鳴った。
玲は、血の海の向こうで、老兵が膝をついたのを見た。
ずっと、紫雲国にいた頃から側にいた男だ。玲は目を逸らさず、見届ける。
散る命のすべてを、目に焼き付けるために。
「我等も逃げません。最期まで!」
「……分かった」
玲の低い呟きは、どろりと暑い夏空へ霧散していく。
ここで、武勇で名を馳せた、紫雲国の王子らしく、誇らしく。
たとえ散ったとしても、臣下と共に戦い抜く。
腹を決めた紫の瞳が、夏の強い光を受けて、危険なほど強烈に煌めいた。
「何が、分かったって?」
風が止む。
苛立ったその声と共に、紅の蝶が舞うように火の粉が散った。
空気が裂け、皮膚を焼く熱が降る。
玲の決意すら燃やさんと、熱い炎の龍が空へ顕現した。
龍は咆哮し、立ち尽くす玲と護衛の周囲の敵を、庭の木ごと次々と呑み込んでいった。
まばゆい紅い光と、焦げた匂いが辺りに充満する。
紅い龍に目を奪われる敵軍の間を、縫うように走る小さな影に、玲は気づいた。
相変わらず突風のような彼女は、抜刀し敵を斬りながら、こちらへ駆けてくる。
玲と火花の視線が交錯した。
玲に斬りかかろうとする敵を一人、横薙ぎに払うと、火花は玲に背を向ける。
天から降り注ぐ強い熱と光が、火花の輪郭を紅く、美しく浮かび上がらせていた。
その光景に、玲は息を呑む。
玲の視線を受けながら、火花は黙ったまま、軍の最奥に佇む男を睨みつけた。
グレーのスーツに、黒いフェドラハットを被った彼の纏う空気は、明らかに、異質だった。
陽光に背を向ける彼の顔だけが、影に沈んでいる。
初めて出会う男だ。
それでも、火花の心臓は大きく波打った。
なぜかはわからない。
ただ、血が知っている気がした。
ちっとも似ていない、と火花は思う。
自分と共通点は何もない、死人のような気配を纏った壮年の男。――宵華宮。
闇と絶望を煮詰めた漆黒の瞳の奥に、不可思議な光がちらついている。
「その男には雅臣殿下の暗殺未遂容疑がかかっている」
宵華宮が、低い声を場に響かせた。
炎が蔓延る熱い戦場で、絶対の冷たさを感じる音。
指揮官のその声に、兵も一度戦いの手を止める。
「濡れ衣です」
「証人がいる」
「どうせ藍川蘭子の操り人形でしょう?」
火花は鼻で笑った。
漆黒の瞳は、動揺を映さない。表情もまるで変わらないが、火花は直感する。
「そのことを、もしかして宮さまもご存知なのではないですか?」
宵華宮は答えない。
それでも分かる。
この男は、全てを知っている。
その上で、玲を捕えようと――いや、排除しようとしている。
「宵華宮さま」
火花の出現に、今一度、近くの兵が指示を乞う。
「紫苑玲を捕らえよ。抵抗するなら殺せ」
宵華宮の指示は変わらない。冷淡な、抑揚のない声だった。
「女のほうは?」
「……殺すな」
その声にだけ、僅かな熱が灯っていた。
指示を受け、敵兵は改めて玲達へ間合いを詰める。
睨みをきかせ血の滴る刀を構えながら、玲はまだ整わない息で、火花に告げた。
「分かってるのか、官軍だぞ」
「分かってる。――でも決めた」
敵を見据えたまま、火花は言った。
父と兄と、何より主人に、申し訳ないと思う。
けれどここで玲を見捨てる選択肢は、どうしても、どうしても、火花には選び取れなかった。
「あんたと行く」
火花の精悍な声に反応するように、頭上に佇む龍が吼えた。
火花は、玲の死角を補うように踏み込む。一瞬、互いの背中が触れた。
その柔らかな温度で、玲は悟る。
さっきの己の決意は、きっと、間違っていた。
龍が再度、敵に向かい咆哮する。
その唸り声が、まるで彼女の魂の鼓動のようだと玲は思った。
これほど頼もしくて、鮮烈で、美しい存在が有るだろうか。
玲は息を大きく吸い込んだ。
炎の熱を含んだ、煤けた匂いと、血の香り。
その全てを肺に入れて、腹の底から叫んだ。
「紫雲国の忠臣に告ぐ!」
臣下の視線が、紫雲国の王子に集中した。
「散開せよ!」
火花が玲へ間合いを詰める敵の一人を斬る。
血飛沫が上がり、玲の服と顔に付着した。
「来る再起まで、命を繋げ!」
玲の命令を、護衛達は静かに、涙を堪えて受けた。
闘志を胸に、紫雲国の臣下達は再び血に濡れた刀を手に取る。
火花は頭上の龍を手で繰り、臣下達の道を拓くよう援護を始めた。
龍は火を噴き、時に丸ごと敵を呑み込んでいく。
自律した意志を持つ龍は、刀の届きようのない天を旋回していた。
その紅蓮の瞳には、主の心を移すかのような、怒りとも悲しみともつかぬ光が宿っている。
龍に気を取られ、頭上を仰ぐ敵兵達に、火花と玲は容赦しない。
火花の突きがその兵のうちの一人を貫くと、刹那、その脇から別の兵が現れる。
火花の虚をついた敵の刃が、彼女の喉元を掠めた。
瞬間、玲の腕が伸びる。
「下がれ!」
玲が横に薙ぐと、兵が力なく倒れた。
すぐに二人は背中合わせになると、周囲の敵を確認する。
数えるのも億劫になって、火花は笑った。
「何人いるの」
「数えるだけ無駄だ」
そう二人がやり取りする間にも、玲の横から敵が刀を振り上げる。
玲が力強くその刃を受けると、聞き慣れた高い金属音が響いた。
火花にも別の兵からの凶刃が迫り、真正面から火花はそれを受ける。
力では男性に敵わないと知っている火花は、その刃を往なす。
体勢を崩した敵の首を、峰打ちで殴った。
崩れ落ちる敵を踏みつけ、火花は高く跳躍する。
刀に炎を纏わせた火花は、玲と鍔迫り合いをする敵の背後に回ると、その熱い刃で敵を斬った。
「器用だな」
「でしょう?」
また敵が正面から現れる。二人は咄嗟に左右へ割れるように動いた。
標的を失い、足がもつれる敵の背中を玲が斬る。
その玲を狙う敵の手を、火花が炎を繰って焼いた。
「味方は?」
「大丈夫。そろそろ皆逃げたみたい」
龍は悠々と頭上を動き、次々とあちこちで火柱を立てている。まるで遊んでいるようだ。
火花が天を見上げ右手を返す。彼女の紅い瞳を捉え、龍が吠えた。
紅い龍が炎を散らしながら地上に降り、破裂しそうな熱が場に満ちていく。
流石の官軍も、炎の龍を間近にして怖気付いたのか、皆刀を構えたまま、動かない。
その様子を観察していた火花は、右手を洋館の門に向かって突き出した。
「喰らえ」
火花が呟くと、龍が炎を強く撒き散らした。
そしてそのまま、道を作るようにうねり、出口に向かって突進する。
当然その軌跡上にいた敵兵は龍に呑まれ、龍の通り道は焦土と化した。
あまりの苛烈な光景に、敵は呆然と立ち尽くす。
その隙を逃すまいと、火花は焦土の道を駆けた。
やや遅れて、火花の背を追うように玲も走り出す。
突然俊敏な動きを見せた火花と玲に、敵は呆気に取られたのか、誰も二人の動きに対応できなかった。
紫苑の館の出口には、敵兵が乗ってきたのだろう、馬が数頭引かれている。
馬を引く兵を二人は力強く蹴倒し、奪った二頭の馬にそれぞれ飛び乗った。
腹を蹴れば、鳴き声をあげ、馬は全速力で駆け出す。
火花も玲も、衣服や髪、顔に至るまで、血と土で汚れきっている。
紅い夏の熱と鉄の匂いを纏い、二人は帝都を風のごとく後にした。
背後で、紅い龍の咆哮が、果てしなく広がる青空に溶けていくのを聴きながら。




